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タイ紀行

バンコクの魅力にとりつかれて、特にワットアルンは心のふるさとです

原罪

2007-06-27 21:20:06 | Weblog

          


 理屈でわかっていて、どうしようもないことを、くよくよ思うのは、馬鹿であるといえば、間違いなく僕は馬鹿の部類に入る。

そのとき僕は、バンコクのスクンピッド通りを一筋入った路地を歩いていた。
道端に血が流れている。それを女が水で洗い流している。鶏の血か?気持ちが悪くなった。
道端に出された屋台では人々は、串に指した、焼き鳥をうまそうにくっている。
原罪とはこれだ。思わずつぶやいた。
人間はほかの動植物の命を食って生きている。少しばかり他の動物に比べて、知能が発達しているがために、当たり前のようにして、他の動物や植物の命を食って、自分の命を維持している。食う側の人間はいい。食われる立場にある動植物の身にもなってみろ。何故我々が人間の命を支えるために、自分の命を犠牲にしなくてはならないのか、
恨みがましい声が聞こえるような気がした。
 しかし、こればかりは、さかさまでも、同じこと。たとえベジタリアンであっても、ノン・ベジタリアンであったとしても、人間以外の動植物の命を土台にして、自分の命を維持しているのだ。ただ、植物の場合は、命を奪われる時でも、無言であるが、動物の場合は、死の苦しみと
恐怖を体で表現する。魚の場合はまだしも、鳥や四つ足動物になると、死の予感に恐怖し、恐れおののいたり、悲鳴をあげたりして、死の苦しみと、恐怖を表す。そして、それに対して、情け無用とばかりに人間は、殺し料理して食べてしまう。
これは避けることができない人間の宿命であり、原初的な罪であると僕は思う。
罪という意識以前の問題として、処理するなら、それは現実から、目をそらした無責任なごまかしではなかろうか。罪は罪として認めた上で、初めに供養するという気持ちが大切なのではなかろうか。そう思った。
西洋でいう謝肉祭とは、犠牲になった動物のあるいは植物への感謝の気持ちと、お詫びの気持ちが、生み出したイベントではなかろうか。
カーニバルと言って人間が楽しむためのイベント化しているが、本来的には、仏教で言う供養ではあるまいか。神仏の前に、己の罪を懺悔して赦しを請う儀式ではないのか、ここまで、思い巡らせたとき、僕はカルカッタのカーリー寺院やカトマンズのダルバール広場に近い、ある寺院の前で行われる、山羊や羊の首を切って神にお供えする、いけにえの儀式を思い出した。血に飢えた神々にお供えする儀式であるという。神がいけにえとして動物の血を?何たる神だ。
山羊だか羊だか知らないが、猛獣ではなく、おとなしい動物の首を切って、神に供える。生々しい血がどっと出る。それはとても直視できるものではない。
 
 似たようなことがチベットの遊牧民の間でも、エスキモーの間でも、今日の食料のために、遊牧している羊や、トナカイの首を切って、食料にすることは日常茶飯事的に行われてる。たとえそれが現実の原理で、そころから、逃れられないとしても、血を見ることに、平然としておられるようになったら、人間はもうおしまいだと思った。

 2の3の無駄口をたたき言い訳をして何になる。これを原初的な罪としないで、ほかに原罪があるだろうか。考えてみるがいい。
僕は自分の内なる良心以外の言い分に対して、この言葉で封じた。
 言い訳がましいことは言わないこと。この現実を直視して、動植物の命の犠牲の上に、人間の命の輝きがあるんだから、ユメユメ自分の命を粗末にしないことだ。僕は自分にそういい聞かせた。
 
立ち止まって、先ほどの屋台の女の子の様子みると、懸命にホースで水を流している。それを見ると、歩道にへばりついた血のりは、そう簡単には、洗い流せそうにも無い。
あたかも、怨念となって、歩道にしがみついているみたいに。