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タイ紀行

バンコクの魅力にとりつかれて、特にワットアルンは心のふるさとです

ワ ッ ト・ ア ル ン

2007-06-27 21:47:36 | Weblog

修理の為に、遠くからしかみることの出来なかった、この美しい仏塔も、やっと

近くで見ることができるようになった。

ワット・アルンとそのシルエットはチャオプラヤーエクスプレス・ボートをバス代

わりに利用している僕にとっては、旅情の慰めのひとつである。
 

小雨に煙る5基の塔はそれなりの趣があり、川の西側にあるため、沈みゆく太陽を

背にして、逆光で真っ黒になったシルエットの美しさは、見応えがあり感動的で、

到底言葉にはならないないとしばしば思った。

 ワットアルンは、暁の寺、で作家三島が書いた豊饒の海・第3巻に登場するあの

寺だ。


雨期にはいり、ここしばらくは、うっとしい天気がつづいたが、今日はやっと晴れ

た。天気がよいのは結構だが、照れば暑い。


首にタオルをまきつけて、吹き出る汗を拭いながら、一人で傍まで出掛けた。タチ

ャーンでボートを下りて、渡し船に乗り換えて川を渡った。2バーツである。船を

下りて岸に上がると、そこはもう境内で、アルンの5基のパゴダは目の前だ。
 

前回といっても10年前に訪ねたのだが、修理がおわったいまは、見違える程美し

くなっていた。一つひとつが磨きをかけられ、塔に埋め込まれた、色とりどりの陶

片は、現世とは一線を画して、別世界を構成している。


なるほど、これがワット・アルンか。


僕は我を忘れて、アルンが作り出す世界にしばしひたった。
 
思えば年令にふさわしい旅である。

まず、インドの仏遺蹟巡りから、旅は始まった。ブッタガヤ、ナーランダ、ラージ

ギル サルナート、など釈迦の遺した遺蹟を旅しながら、己れの越し方を振り返っ

てみたのであった。余程早くから目覚めないと、20代や30代では、通り一辺の

仏遺蹟巡りは出来ても、己れの現実生活にからめて、人生を考える、仏教遺蹟巡り

など出来るものじゃない。やはり第一線から退いて、時間の余裕ができる頃がふさ

わしい。人が生きるということの意味を考えはじめるには、丁度よい年ごろなのである。
 
 輪廻転生は本当にあるのだろうか。


自分は経験出来ないが、話には聞く。たとえばチベットのダライラマは、前世の記

憶が正確でなければ、その地位につけないという。

或る寺の尊敬する老師はいった。ガンに侵された身だが、生き死には、すべてみ仏

にお任せしてある。それはあたかも蛇が脱皮して、さらに大きく成長するようなも

ので、死を境にして、きっと次は大きく生まれかわると信じていると。


これは信じるところにだけ起きる現象ではなくて、無条件に起こるのだろうか。も

しそうなら、人の生死には関係なく自我というものは存在すると言うことになる。

しかし今の僕には肉体と意識は切り離しては考えられない。つまり肉体の消滅は自

我意識の消滅に他ならない。だとすれば輪廻転生なんて自意識で認識できないでは

ないか。だがヒンズー教では輪廻転生はあるものという前提の下に、あれだけ大勢

の人がバラナシーにやってくるのではないか。

昨年インド・バラナシーに行って、目の前で火葬され、灰になってガンジス川に流

されるのを、しっかり見てきたが、薪もろともに燃やされて消滅していく肉体から

逃れて、魂は解脱、つまり生死を繰り返さないで、常住極楽に安住すると信じて行

われる、此の送葬の儀式は一体どんな意味を持つのだろうか。僕流の解釈では、到

底理解し得ない問題だ。

お釈迦さんには前世話がある。捨身飼虎の絵だってある。これは輪廻転生をしてい

る、お釈迦さんの姿ではないか。物語や想像だけでものを言うなら至って簡単だ。

あるのだろうと断言できる。

だけど科学的思考が染みついた我々は、おいそれとは信じられない。というのは論

証したり、五官で受け止められるようなかたちで、証明がなされないからだ。信じるとか、信じないとかいう世界の出来事だったら、答えはたやすく見つけられるの

だが。

三島の輪廻転生論も詰まるところ、文学上の追求の産物でしかないように思える。

 

僕はいまワットアルンの足元にいるが、心はこの世から離れ去っている。死後の世

界を味わっているいるわけでは決してないが、チャオプラヤー川を往来する船の強

烈なエンジン音も、人のざわめきも、まるで気にならない。一体何を考えているの

か、何をしようとしているのか、心の中に薄もやがかかっていて、考えることの焦

点が定まらないのだ。
 

ただ放心したような状態で、ワットアルンの中心になる大塔を眺めているのだ。


燃え盛るように暑い熱帯の太陽の下で、日除けの帽子もかぶらずに、


ぼーっとしている自分がそこにいるだけのことである。

 
渡し船はワットアルンの足下に着く。キップ売り場をくぐり抜けると、もう境内で

ある。境内には、日本流にいえば、狛犬や拝殿みたいな物があり、それが全て中国

から直輸入したような物でタイの感覚とは合わないのじゃないかと、それなりの違

和感を持った。
 
というのは、例えば、社殿を守る番兵、これは明代の中国の人物像そのものであ

る。白髪三千丈式のあごひげ、衣装は中国式の着物,帽子までが中折れの中国帽で

ある。そういう造りだから、外観は


勿論中国像である衛兵?がいて、そこに仏塔が五基そびえ立っている。タイと言う

よりは中国のにおいを強く感じた。と同時に

中国文化の影響の大きさを思い知って、その影響から逃れられない、東南アジアの

国々の文化の独自性に、ある種の限界みたいなものを感じた。

 猿も人間もそうらしいが、必ずと言って良いほど高いところ、高いところをめざ

し登っていく。こういう本能が生物の進化と関係あるのかないのか、知らないが,

例に漏れず、前回来たときは、一番大きな仏塔に付いた階段の一番上まで登って、

辺りを見渡した。
 

その時はバンコクが初めての旅で、回りを見てもなにがなにやら さっぱり分からな

い状態で見ていたから、記憶には何も残っていない。

修復の終わった今回は、階段は途中までしか上れないようになっているし、制服・

制帽の監視員がいる。勿論入場料だって20バーツ支払った。

修復はされてきれいにはなったとは思うが、漆喰の白さがやけに眼について、冷た

い感じがした。前回見たこの仏塔の細部迄は覚えていないが、もっと灰色がかって

重みがあったように思う。真新しい漆喰が化粧直しに使われてはいるが、細部迄は

行き届いて、修復されていないので、古い地肌が見えている。化粧直ししたばかり

だから、そのコントラストが 一層気になった。


これが日本だったら、隅々まで丁寧に塗ってしまうから、ぼろは出ないが、その辺がいい加減である。職人もそうだし、監督検査する人達も鷹揚なのであろう。そこ

のところが、この国の国民性、即ちマンペンライという事なのであろうか。僕が神

経質になりすぎているのかも知れないとは思うが、僕の感覚からすると画竜点睛を

欠くと言うことになるのだ。

此の仏塔を最初に造った権力者タークシン将軍(後に王となる)は今は銅像となっ

て川に向かって、つまり東向いてたっている。その足下には、読めないが、多分此

の王の業績をたたえた碑文が細かい字で、びっしりと書かれていた。此の王様の最

盛期の権力はどんなものだったんだろうか。此の国を守るために、この国の民を守

る為に、侵入者に対して防戦にこれ努めたのだろうか、それとも最大の防御とし

て、他国、隣国へ攻め入ったのであろうか。恐らく人類の発展過程は似たようなも

のだろうから、類似のパターンを日本にだって見ることが出来るはずだ。

戦国時代のあのパターンか、それとも徳川時代のあのやり方に似ていたのか。僕は

状況は違うにせよ、日本のそれに比定してみた。
 
 タイには現在プミポン国王がいる。50年ほど前に、以前とは中身が変わった

が、日本にも天皇がいる。こういう形態のほうが、国家としてのまとまりはつけや

すいのだろうか。 いや今はそうかも知れないが、歴史の発展とともに、こういう形

態は無くなっていき、大統領制みたいな形で、国のリーダーが選ばれる時代は必ず

やってくる。


此のワットアルンのような文化遺産は、王と名の付く独裁者が権力を握っている時

代のほうが作りやすいのではないか。
 
これから1000年先の将来に向かって、大統領が国民の了解を取って、世界遺産

と言われるようなものを作る事が、果たして出来るだろうか。多分出来ないだろ

う。そんな経済的な余裕があれば、弱者救済や、減税に回せ、と言う声が必ずわき

起こるから、選挙を意識して、大統領候補者はこんな約束を国民にするはずはない。

とすればだ。

今後此のアルンのような文化遺産は、もう遺すことが出来ないのだろうか。独裁者

や強力な権力者の出現が難しい現状から推理すると、文化遺産というのは所詮時代

物だけだ、という結論になった。ただ今までみたいに作っては放置するやり方や、

時代から、修復したり、修理したりする、保存型や時代に力は入るだろう。先祖が

遺した文化遺産を、いつまでも大切にして、遺していこうという雰囲気が国際的に

盛り上がっている。遺産はその国や、地域が単独で保存するという時代から、人類

共通の遺産として、人類全体で守っていこうとする時代へ、移りかっわてきいる。

国連、特にユネスコが中心となって、こういう問題に取り組んでいくことになるだろう。

さわやかな一陣の風が通りすぎた。そうしたらどこからともなく、鈴の音が聞こえ

た。それは一度に大勢の人間が風鈴をならしたような可愛くて、優しい音色だっ

た。どうもその音は天から降って来たみたいだった。僕は急いで中央の大塔の階段

を駆け上って鈴のありかを探した。カランカラン、リーンリーンという音は大塔の

回りにある4つの塔の先端部分につり下げられていた。キリスト教会にある、あの

ベルを小さくしたようなベルだった。それが風鈴のように風が吹けば鳴る仕組みに

なっている。塔の大きさに比べて、あまりにも小さいもので、その分可愛らしいと

言う感じがした。優しい音はそのせいかもしれない。僕はその音を聞いていると、

懐かしい母を思いだした。母の背中に背負われて、ゆすってもらった、あの感覚を

思いだした。今にも夢の世界にとけ込もうとするまどろみ、現世と夢の世界との往

復、寝ているかと言えば、起きている、起きているかと言えば寝ている、あのまど

ろみの世界、それを思いだした。帽子もかぶらずにこんなに暑い太陽の下にいて、

なんと優雅な思いに浸っていることだろう。僕は今大塔の階段では、一番高いとこ

ろまで登っている。がその感覚は無かった。じっと目を閉じて、まどろみの世界に溶け込んだ。

 風は忘れた頃にやってくる。そのたびに吊された鈴は優しい音で話しかける。それが暗示をさらに高めていく。そのうちに全てが消えた。全てが判らなくなった。

トランス状態に入ったのかも知れない。

 僕が旅の意識を取り戻したのは、肩をたたく人の気配を感じたときだった。はっ

として見上げると、警察官がたっている。何か悪いことでも、と思った瞬間我に返

った。よく見ると制服制帽の人は警官ではなくて、ここの監視員だったのだ。彼は

僕が目をさましたのを見届けると、下の方を指さした。多分下におりろと言いたか

ったに違いない。無言だったけれど、彼の言いたいことは、こちらにも直接伝わっ

た。僕は彼ににっこり微笑みを返しながら、立ち上がり階段を下りていった。

クルンテープ、微笑みの天使の都、なるほど、僕は今文字通り 微笑みの天使の都の

感じを味わったような気になった。

季節がどう変わろうと、どんなに暑かろうと、雨であろうと、晴れていようと、チ

ャオプラヤ川を、上り下りする限り、いつもバンコク旅情をあたえてくれ、旅の徒

然を慰めてくれるのは、此のワット・アルンを置いてほかにない。それはいつも母

の優しさと、懐かしさをもって僕に迫ってくる。

421号室

2007-06-27 21:44:16 | Weblog
      
話はバンコクの中央駅の西の、ごみごみした所にあるkホテルの421号室のことである。ここのホテルで殺人事件があったらしいという噂が流れたことがある。
 なんでも金を持ち逃げした犯人が見つかって、ここにつれてこられて、リンチを受け死亡したという話しで、それから3ヶ月ほど、此の部屋は開かずの部屋だったとか。

 彼はソウルから乗り込んできて、飛行機の中では、僕のひとつ前の席に座った。
日本人のよしみで、気安く、お互いに話を交わしたが、彼はドンムアン空港に着くなり、そのまま夜行列車に乗って、ノンカイ迄行くそうである。ノンカイからは川を渡ってラオスに入る。その列車が
8時にバンコク空港駅・ドンムアン、出発するのだという。わずか30分ほどしか時間がないのだけれど、トライしてみると張り切っている。
飛行機は7時40分に空港に着いた。大急ぎで、彼と僕は入管のところまで走った。手続きを待っている間に彼は次のような話をした。

 「最近kホテルに泊まったが、噂によると、このホテルで殺人事件があったらしい。なんでも、金を持ち逃げした奴が捕まって、このホテルに連れてこられ、421号室でリンチを受け、殺害されたらしい。
そうとは知らずに彼は、その部屋に泊まった。別段異常も何も感じなかったけれども、あとでそのうわさを聞いて、ぞっとした。
 やはり、値段が安いだけのホテルを探すのは問題がある。小さくとも信頼がおける、なじみの安宿をバンコク市内で探して、決める必要がある。」
と言うような意味のことを彼はいった。これには僕も同感だった。いくらバックパッカーだといっても、何が何でも、安ければいいというものではない。
 
以前僕は窓もない囚人部屋のような、ゲストハウスに泊まったことがある。
 普通の所は200バーツほどしているのに、そこはたった70バーツだった。その日はあいにく、どのゲストハウスも満員で、仕方なく、泊まらざるを得なかったのだ。
 結論から先に言えば、そこはダニの巣のような所だった。あちこちかまれて、方々の体で逃げ出した経験がある。あれ以来僕は清潔第一にして宿を探している。例えば毎日必ず掃除はされていて、シーツは洗濯されたものかどうか、風通しはよく、ベッドのシーツは色柄模様や、色つきのものでなく、真っ白な病院のベッドのようなものかどうかなど、チエックポイントにしている。

ところがその部屋で、もしくはそのホテルで殺人事件や自殺があったかどうか、チエックを入れると言う事までは、今まで気が付かなかった。
ホテルで、人が死ぬということはたまにはあることだ。病気の場合もあるし、自殺することもある。
 日本ではよく、ラブホテルが殺人の現場になっている。痴情や物取りのあげくの犯罪である。

 確かに、日本と違って警察制度が確立されていても、その機能が不備なために、人口1000万人のこの大都会の場末では、犯罪者が殺されたって、表ざたになって事件になるよりは、闇に葬り去られることの方が多いのかもしれない。
 
つまり、そのような、無法で危険な部分も影として、この大都会は、その中に内蔵しているのである。めったに表面上に浮かんでこない事件なのかもしれないが、ひとり旅の僕は気を付けなくてはと心を引き締めた。しかし具体的にはなんの手だてもなかった。

実はその噂のホテルには、僕は何も知らずに、泊まったことがあった。何か異様な感じがして、目が覚めた。部屋は明かりを消しているので真っ暗だが、見れば廊下の蛍光灯の光が真っ暗な部屋に漏れてくるのであるが、ドアの隙間から漏れてくる明かりが波を打つと言うのか揺れているのである。

おかしいなとは思ったが、しばらく様子を見るために、体を横にしてその扉を見ると、光はそのままで動かなかった。やっぱり僕の寝ぼけか、勘違いだったのかと思って、寝ようとすると、廊下と扉のすき間から漏れてくる光が、また波を打つ。それはドアの向こう側て懐中電灯を揺しているみたいである。そこで僕はカバっと跳び起きて、急いでドアを開けて、廊下の方を見た。廊下には人は誰もいない。いつものように、天井には蛍光灯がついているだけで、その蛍光灯が、チラチラしているわけではない。蛍光灯は天井でじっといつものように、光を放っている。
外国に来ると、日本では見ないような夢を見ることがあるので、きっと、疲れているのだろうと思って、またベッドの上に寝た。
そして以前と同じように、すき間の光を眺めていると異常はなく、光はじっと漏れてくるだけである。先ほどのように、その漏れてくる光が波うついうことはない。きっと疲れていたのだろう、これは気のせいに違いない。僕はそう思って目をつぶらうとした。

ところがまた漏れてくる光が波打ち出した。気味わるかったが、
その光の揺れを、見ないようにして放っておいて、ぼくは眠ることに専念した。
 何のサインかは知らないが、その光が自分の体にまとわりつくとか、馬乗りになって息苦しくなるとか、そういうことは一切なかった。だが僕はこの経験もだれにも話さなかった。

ところがこの若者の話がきっかけになって、あの夜の不思議な体験を思い出した。
件の部屋が421号室だったかどうかは記憶にないが、いずれにせよ、殺人という犯罪が、その部屋で行われたという事は根も葉もない噂ではない、とぼくは思った。
それから、僕は、そのホテルには一切泊まらない事にした。
 僕の経験と、彼のうわさを付き合わせて考えるならば、どこかで符合しているように思えてならなかったのである。

 ここにもう一つの体験談がある。僕の体験と似たような体験をした人の話である。彼は香港ではかなり高級なホテルに泊まった時に体験したことらしいが、やはり、廊下の蛍光灯がドアのすき間から漏れて、波うったというのである。彼は、気持ち悪くなって、夜が明けると同時に、早速とそのホテルをチェックアウトした。後で聞いてみると太平洋戦争で、香港に進駐した日本軍が、スパイとおぼしき現地人を何百人か殺して埋めてたそうである。つまりそこは刑場であり、墓場だったのだ。その上にこのホテルが建ったということである。観光ブームによって、香港では土地がないために、古いものは全て壊して、そこに新しい、ホテルやビルを建てたらしい。

この話を聞いたときに、ひょっとしたら、僕の泊まったホテルも都市の膨張に従って、もとは墓場だったのかもしれない。あるいは単に彼が言ったように、ひとりの人間が殺害された、その現場だったのかもしれない。
いずれにせよ、旅で疲れた神経を休めるためのホテルが、薄気味悪いようでは話にならない。

あれ以降、僕はできるだけ調べるようにして、安宿を決めることにしている。同じ宿に10回も泊まれば、こういう話しはどこかから聞こえてくるものである。幸いなことに、僕の定宿は今のところそう言う気配も噂もない。眠れないのは、僕が勝手に興奮して、神経を立てているせいだ。




 成り行き任せ、深夜の宿探し

2007-06-27 21:40:01 | Weblog
     
バンッコックの終着駅ホアランポーンについたのは23時40分。
さて今から今夜の宿屋を探すのである。
高級ホテルに泊まるか。これだとバックパッカーの意味がない。
ポンビキに案内されて女つきの旅社にとまるか、それともこの駅で夜明かしするか、僕には確固たる選択意志がない。全くの成り行き任せ。学生気分が未だに抜けていないのだろう。常識人はきっと眉をひそめるだろう。
それは正しいことだと自分も思うが、僕には僕の物差しがある。
そして自己評価。俺はようやる。ちょっとうぬぼれる。
 
 バンコックに着いたのが23時過ぎだから、町中でホテルを探すとなると当然日付は変わる。確かに今までは深夜うろついても、危険は感じなかったが、そうかといって今回も安全という保証は何処にもない。

妻 「だからいわんこっちゃない。もう海外旅行はやめなさい。」

彼女「やっぱり私がしっかりしなくちゃ。彼はなにをしでかすかしれたものではない。あんなバガボンもうすてようかしら。」

僕「女という代物はどっちを見てもうるさいもんだ。折角調子よく命の洗濯をしているのに。ああだこうだ、いちゃもんをつける。
こういう心理は男にしか判らないもんだ。女が口だしする問題じゃねえ。」

空海「俺はなにも言わん。命を燃やしていきることだ。」

神様「手元に還って来たときに公平に裁けと閻魔に行っておく。」

仏様。ご先祖様「これは血統の問題か。それとも個人の問題か。問題は残るが本人をまもってやる他はあるまい。」              

至福の刻(とき)2000/6/12

2007-06-27 21:37:40 | Weblog
     

 突然、至福、という言葉が聞こえた。いや聞こえたような気がした。誰が?
ぼくは、うっすらと目を開けて、あたりを見回したが、近くには、英語やフランス語を話す外人しかいない。

至福。そうか。そうなんだ。今の僕は至福の状態なんだ。僕は此の至福という言葉に脳天を打たれたような感じがした。
ちょっと考えてみればすぐわかることなのだが、そんなことは今の今まで、思いもしなかった。だから、至福という言葉に驚いたわけである。

 自分を取り巻くもろもろの条件を、ひとつひとつ細かく検討してみると、どれもこれもが、幸福感を味わうのに、不可欠な条件を満たしている。こんなに条件がそろい、そのすべてが満たされているという事は希有な事である。誰かが下支えをしてくれない限り、人為的にこのような条件を僕が作り出せるはずがない。
「ありがたいことだ。感謝しなくちゃ」思わず、口からこういうセリフが出た。

僕を初めとして、現在は家族全員が健康だし、細々とながら何とか生活が出来ている。それに流れてくる時間というものは自分の好きなように使えて、自分のやりたい事が何の束縛もなしに実行出来る。作曲したり、作詞をしたり、エッセイを書いたり、それはそれは優雅な暮らしで、心豊かである。この気楽さは同年輩の友人と比較しても、決して引けを取らない。
 
天から与えられた豊かな才能のおかげで、最高学府と言われる大学も卒業させてもらったし、さらにその上に、日本が生んだ有名な作曲家・山田耕筰先生に音楽才能を認められて、先生のお宅へ2年間通い詰めた。山田先生保証の通り、作曲の才にも恵まれて、たくさんの叙情曲を作曲して新聞に名前が載ったり、テレビにたびたび出演したりして、その活躍ぶりが紹介された。つまり客観的に僕がこの世に存在したことが証明されたわけである。

大学の同期生は3000人いるが、果たしてこのうちの何人が作曲の才能を与えられているか。僕をのぞいてはほとんどいないのではないか。というのは、マスコミを通じてニュースになったという話を聞いたことがないし、また噂のかけらも耳にしたこともない。同期生で日本作曲家協会の会員は誰もいない。
 ここでも僕一人か。僕は何か特別なものを感じた。

エリート、神から才能を与えられた選良、他人に自慢する事ではないが、僕は自分にこういいきかせた。もっとプライドをもて。沢山の才能をもらったことを喜べ、。自信をもて。作品作りに邁進しろ。そしてご恩返しの意味をかねて、これを何らかの形で社会に役立てて、人様に喜んでもらうのが僕の使命ではないか。

その時、僕は関西空港の出発ロビー で自作の曲を聴いていた。曲は中宮寺にある観音様(国宝のはんか思惟像)に奉納した時の作品、「中宮寺」である。歌詞は中宮寺のご門跡が仏に仕える喜びと、人間の持つ業に付いて詠まれたれたものである。人間として受ける試練、修行の厳しさ、仏の慈悲などが詠みこまれたもので、シンセサイザーをバックに、澄み切ったソプラノで、とうとうと歌われ、流れていく。
僕は、恐らくトランス状態に入っていたのであろうか、この夢のような世界にひたって、宇宙遊泳をする気分になっていた。
そのときに聞こえたのである。「至福」「至福」という声が。
 
 僕は19時50分発バンコク行きのタイ航空775便に乗るためにロビーで待っていた。775便はロスアンジェルスから飛んできて、関空経由バンコク行きなのである。そのためにロスから乗ってきたトランジットの乗客でロビーはごったがえしていた。関空から乗る日本人はぱらぱら程度であったが、飛行機は満席だった。4,500人いたように思う。

今、この刻、此の大勢の中で自作の曲を心豊かに聴いている人が果たして何人いるだろうか。恐らく、いやしまい。きっと僕一人だけだろう。こんな優雅な気分でいるのは。
さらに他と比較することによって、如何に僕が恵まれているかと言うことが、一層はっきりしてきた。

ありがたいことだ。またこういう言葉が無意識のうちに口から出た。そして胸が熱くなった。
 最高の幸福、それ以上の幸福はこの世には存在しないという幸福。それは恐らく天上界の菩薩の位に入ったときに、初めて味わえる心境だろうし、極楽世界の住人になって、初めて味わえる幸福感なのだろう。現在の自分の状況を考えると、生まれてこの方、こういう実感は体験したことがない。この世に至福と言う言葉だけでなく、その名に値する実感世界が有るとすれば、それはもう極楽の住人になることであり、菩薩の世界に一歩足をふみいれたことになる。それをさきほどから僕は実感しているのだ。

至福の刻 至福の刻 至福の刻、、、、僕は夢うつつながらこのような世界をさまよった。幸せだ、幸せだ 幸せだ 幸せだ、夢遊病者のように同じ言葉を何回もくりかえしてつぶやいた。

「長らくお待たせいたしました。ただ今よりバンコク行きのお客様にはご案内致します。どうぞ順序良くお並びくださいませ。」
此のアナウンスによって僕は現実世界へ連れ戻された。

そうだ。いまからバンコクに行くのだ。日本時間で夜8時の出発だから、バンコク到着は日付の変わる明朝の1時半頃。それから入管手続きなどしてホテルにはいるのは恐らく3時頃だろう。
 
 現実世界の住人になると深夜の宿探しの事が気になりだした。
やれやれ、しんどい事だ。気が重くなり始めた。現実モードに切り替わると、途端に頭の中に灰色の雲が立ち上りだした。だがしかし、僕はほんの短い時間ではあるが、今しがた極楽世界の住人の気分を味わった。これは僕にとっては生まれて初めてのことで、大変な経験だった。

 考えてみれば人間のやれる事なんて知れている。幸福になるための全ての条件を整えるなんて事はとうてい出来ない。結局なんだか訳の分からない不思議な力が働いて、僕の回りの状況を作り出す諸条件が整えられているのだ。そのお陰で、僕はいまこういう状態なのである。これは自分一人の力や努力だけで作り出せるものではない。そう思うと姿形こそ見えないが、僕を下支えしてくれている、何らかの力の存在が実感できた。

それは何か。偶然の成り行きか、神の恩寵か。僕には分からないが、そんなことよりも今しがた、実感できた至福の刻の気分の方が大切であった。
 
 機は定刻に出発して神戸沖上空から、明石海峡大橋上空を通り、室戸岬の方へ出た。ベルトサインが消える頃は多分足摺岬あたりを飛んでいる事だろう。


エラワンの神様

2007-06-27 21:34:01 | Weblog

         
人はこの世にいる限り、さまざまな願いを持っている。そしてその願いごとがかなうように、神々に願をかけて祈る。それは洋の東西、時空を超えて、地球上みな同じである。ところが願かけしてもよく願をかなえてくれるところと、そうでないところがあるみたいだ。

心願成就をさせてくれる神様は、当然のことながら、お参リのご利益が多い分、お礼まいりの人も多くなる。それは日本でも、タイでも同じこと。
人気のある評判の良い神様は、ますます多くの人の信仰を得て、人々の心願成就のために多くの汗を流しなさることだろう。
 
それを知ってか、知らでか、人間の方も心願成就の暁には、咸?の意味を込めて、神様のすきそうなものを奉納する。賽銭はもちろんのことだが、生け花や香華・神楽舞ダンスなどを奉納してお礼の気持ちを表す。そしてそういう人間心理は世界共通のものだろう。これは心願成就のお礼ばかりではない。御利益の程を見越して、先に神楽ダンスなどを奉納して神様の気を引く、ちゃっかり者もいる。

 さて、これはタイ、正確にはバンコクでの話である。
バンコクで御利益隋ーとされる神様は、エラワンの神様だそうである。その名前の由来は、おそらくエラワンホテル、あるいは町名にあり、それはエラワンホテルのすぐ隣にあるからそういう呼び名がついたのだろう。
 
精霊・ピーの名前はなんというか知らないが、エラワンの神様で十分わかる。バンコクでは各家庭でも、殆んど祀られている。その神は日本流に言えば、神棚に祀ってあるとはいうもの、丁度鳥の止木の餌場のように、地中から高さ1mほどの柱を立てて、一枚の正方形に近い板の中心部を支えるように作られていて、その板の上に社殿、両側には電気で灯した、赤い色の灯明がある。その社殿の中に瀬戸ものに色づけした神像や金ピカの神像が鎮座まします。

 ところが、さすが大勢の人々がお参りし、一日中香華が絶えず、タイの巫女として、正装した女性が舞う神楽ダンスは休む間もない盛況である。工ラワンの交差点の南東角にまつられている神様は、特別別格のようで、毎日お詣りの人波が絶えない。

 ひやかしの気持ちがないといえばうそになるが、ぼくは手を合わせる気持ちはもちろんある。どんな流儀であろうと、神様には敬意を表したくなるのが僕の性分だ。どんなやり方でお願いしたり、お祈りしたらよいのか、全く分からないから、一礼・二拍手・一礼と日本流に拍手を打って頭を下げた。

 タイのあの大きな寺院の何分の一かのミニチュア版のような神殿の中には、四つの方向に一つずつ顔を持つ金色に輝く神様の像があった。体の部分は一つで、顔だけが四つあリ、東西南北を向いていた。

顔は金銅製で、ほそ面でなかなかの美しい感じがした。この神像を見る限り男女の区別はつかない。オトコガミとい思えばそう見えるし、オンナガミかと思えばそう見える。神様なんて男女どちらでもよいのだが、お供えものを見ても、その区別はつかなかった。お供えものは、まず黄色の花だ。この黄色の花は、ここではたぶん菊ではないのだろうか。
その花の首だけを摘んだものもあり、花首を寄せ集めて、首飾り風にしたものもあり、しかも御神殿の囲いは、この花で埋め尽くされている。中には白い花もあった。これは黄色の花の1/3ぐらいの大きさで、主に首飾りになっていた。中にはつぼみのままの蓮の花もあったが、これだけはどれも開花はしていなかった。
 お供え物としては、果物などはあったが、さい銭箱は見当たらなかった。その代わりに工ラワンの神様奉讃会に寄付をする、金属製の箱は正面入口の所に置いてあった。

 
 お参りグッズ必須の、線香、ろうそくは白ではなく、すべて黄色、線香は日本のものと違い、線香花火みたいに、途中までは燃えるが灰にさす分は竹ヒゴでできていた。

 無料でタイダンスが見られる所として、ガイドブックには、この工ラワンの神様に、人々が心願成就のお礼のために奉納をする、奉納舞踊(日本ではさしずめ神楽)のことが紹介されている。実物は初めて見るのだが、楽士は3人でタイコ(鼓)と木琴が二人の合計5人。

踊子は奉納者の納めるお金の額によって、多くなったり、少なくなったりするらしい。
 フルキャストで8人、720バーツであると書いてあるが、中には、額が少ないのだろう、8人のうち何人かはぬけて後方で休んでいた。

踊り子たちは足のくるぶしには装飾のついた足輪・きんきらきんの衣装、それに烏帽子ならぬ金銅性の冠を付けて、歌いながら踊る。特に注目をひくのは指先の曲げ工合である。
きっとこの動作で何かを表しているのだろうが、指が折れはしないかと思うほど曲げていたのが印象的だった。

顔はもちろん化粧をしているが、休憩している時は、女の子らしく紅をひいていた。
さていよいよご利益の方である。ご利益は直接得たわけではないが、日本人体験者から聞いた話はすごかった。

彼と僕は空港からホアランポ-ン駅へ行くバスの待合所で知り合った。
バックバッカーとおぼしいぼくに、彼が直接「日本のかたですか」と声をかけた。行く方向が同じなので、バスの中でどうして僕が日本人だとわかったのかと聞くと、鍵の名前が日本人の名前になっていたからということだったが、僕は
「いや、実はこれは鍵の番号を忘れたときのために、僕が考え出した暗号ですよ」と説明を加えた。それから話がはずんで行きつくところ、エラワンの神様に落ち着いた。

ガイドブックに簡単に説明されているから、いわゆるその程度のことは知ってはいたが、直接大きなご利益をもらったという体験談などを聞いた事がなかった。
ところが彼は友人4人で出かけた時に、生じたある事件を取り上げて
「詳しく話をするから、このバスを降り、私の自宅で話をしよう」と誘った。彼はもちろん日本人だが、タイ雑貨の商売をしていて、このためバンコクに駐在しているのである。バスはパャタイ通りとペップリ通りの交差点近くで止まったので、そこで降りて彼の家に向かった

彼は単身赴任だし、タイの語学学校に通っているので、日本人の友人、知人も多い。携帯で連絡取ったので、先ほど書いた友人4人も集まった。
 そして話は始まった概略はこうである。

冷やかしの気分もあって、4人でー度ご利益があるというエラワンの神様に見学かたがた、お参りにこうということになって出かけた。
ちょうど昼時だったので、レストランに入り食事をしていたら、隣にいた男がかばんをひったくって逃げた。四人は席を立って追いかけたがサイアム通の人込みの中へ消え、見失ってしまったので、仕方なくあきらめ、その食堂で食事をとってから、工ラワンの神様にお参りに行った。

珍しさも手伝って誰も早く帰ろうとは切り出さず、お参りの人々がしているようにお祈りして帰途についた。ただ彼ら四人は笑い話みたいにして、さきほどの盗まれたバックが手元に戻りますようにと異口同音に祈った、というのである。今までバンコクは東京よりは安全なところだとしか思っていなかったので、きょうの出来事は4人にとっては、相当な衝撃を与えたことだろう。

そうこうするうちに、バスが来たので乗ったら、さっきひったくられて、盗まれたバッグを持った男が乗っているではないか。四人は身柄はともかくバッグを取り戻した。男は混雑した車内をうしろから前に逃げて、バスが止まるやいなや、走って人込みの中に姿を消した。四人にとってみれば、犯人を捕まえるよりは、バックが元通り手元に戻る方が先決で、犯人を捕まえてこらしめてやろうなんて気持ちは、あまり起こらなかったそうである。結果的にはバッグは元の持ち主に戻った。
めでたし、めでたしである。

 偶然とはいえ、ひったくりにあったバッグが、無事戻ってきたのだ。バスに、もう1台早かったり、もう一台遅かったりしたら、犯人に出会うことはなかったし、満員のバスの中でも、前から乗ったのではなく、うしろから乗ったので、犯人と偶然はちあわせになり、バッグを取り戻せたのである。
偶然といえば、あまりにも偶然。
 こんな偶然が重なって、ハッピーエンドになると、だれが予想できただろうか。

4人とも不思議に思ったそうだ。そして今日の出来事はすべて
工ラワンの神様の思し召しに違いないし、ハッピーエンドに終わったのは、ひとえエラワンの神様の御利益に他ならないという結論に達したそうである。ただし四人共、どちらかといえば、宗教には関心などなく、工ラワンの神さん参リも、いわゆる信心気なんて毛ほども持ち合せていない。

だが、そんな4人の共通した一致点はこの世に神様がいて、信じる者にはご利益をもらえるということだそうだ。そして彼ら四人は今でもエラワンの神様は、人々に多大なご利益を与え続けていて、人々の尊崇を集めているという結論である。
なるほど。 そんな話しもあるのだな。

特別願掛けする必要はないが、次回に来たときにでも、ひとつお参りでもしてみるか、ぼくはそんな気持ちになった。今回幸いにも時間があったので、お参りと言うよりは見物に出かけた。
 
このエラワンの神様を信仰したり、願掛けをして、無心に祈る人々の姿を見て、たとえそれが欲の先走るご利益信仰であったとしても、祈りの姿というのは本当に、美しいものだとつくづく思った。



ポーンは死んだ

2007-06-27 21:29:05 | Weblog

日本人の誰もが、金持ちだとは限らない。
一時間七百五十円のつつましい、アルバイトをしながら、稼いだ金をためて、海外旅行、それも貧乏旅行している人も大勢いる。

東南アジア、たとえば、ベトナム、カンボジア、中国、ネパール、インド、タイ、ラオス、などを旅してみると、これら日本人貧乏旅行者たちよりも、はるかに貧乏な人たちが多いから、その人たちからみると、日本人は、たとえ、バックパックカーであったとしても金持ちだといわれれば、それはそうだと思う。三度の食事にこと欠く人が、飛行機に乗って、海外までやってこれるわけがないのだから、現地人が日本人は金持ちだと思うのも無理はない。

ところが 元々金がないから、慎ましい生活をするために、日本人の貧乏旅行者は決まって、安宿街へもぐり込む。
例えば、インド。カルカッタのサダル・ストリート。タイ・バンコクならカオサン通り。ベトナム・ホーチミンならフオングーラオ通り。
日本でいえば、さしずめ東京の山谷や、大阪の釜が崎などのような雰囲気が漂うところで、普通の日本人なら敬遠したくなるような場所柄である。
とにかく、宿泊代が安い。同室に何人か寝起きするドミトリー形式の宿泊所は200円から300円で、一晩泊まる事が出来る。
そして、この近くには不潔だが、屋台があり、食べ物はやすい。
ほんの少しのお金で寝ることと、食べることには事欠かない。

どういうわけか、風に吹かれながら、この屋台で食べると、普段ではとうていまずいとしか思えないようなものでも、おいしいと思うから不思議である。
最初このようなところへ、足踏みいれたときには思わず、その汚さに、非衛生さに、僕は「わっー」と意味不明の、言葉を口にだした。
その雰囲気には、到底なじめなかったし、とけ込むにはあまりにも抵抗が大き過ぎたのだ。気分的には高いところから目をつぶって
「えいやっ」と、水中へ飛び込むような緊張感を感じたのである。
目をつぶるようにして、皆がしているように、この町に飛び込んだが、こんなところでも、何回も出入りしている内に、別に何とも思わなくなった。慣れは怖いものである。

 日本から、タイのバンコック・ドンムアン空港につくと、ここから、乗り物に乗って約一時間かけてバンコク市街まで行くことになる。渋滞などを考えると、空港のすぐそばから出ている(鉄道)列車を利用するのが、ダウンタウンへ行く確実な方法であり、この終点の駅が、ホアランポーン・中央駅である。日本で言えば、さしずめ東京駅と言うところか。

ホアランポーン駅の西横には、真っ黒で悪臭を放つ泥水が流れている運河がある。この運河の橋を渡り、チャイナタウンの方に、向かって歩いていくと、ロータリーがあり、近くにジュライという名のホテルがあったそうだ。
ここの住人は日本人が多く、それも長期滞在の旅行者が住み着いていたようである。

 この話は此のジュライホテルを舞台にして、タイ人女性・ポーンとそれを取り巻く日本人旅行者の織りなす人間模様である。
聞いたところによると、このホテルは、ぼくがバンコクへ、通い始めたころには、すでに閉鎖され、撤去されていたので、そこで繰り広げられた物語は想像の域を脱することはできない。
 谷恒生の小説「バンコク楽宮ホテル」には、このジュライ、ホテルの日本人、貧乏旅行者の生活ぶりが、描写されている。それとダブるようにして、僕がバンコクに長期滞在している、バックッパッカーから聞いた話とは、ほぼ一致しているから多分実話か、それに近いものだろう。

 この、ジュライホテル周辺を舞台に生活していたポーンという名の女が、エイズのために、今年二月、二十八歳の生涯を閉じたという話だ。
死ぬ2,3ヶ月前から下痢や吐き気を繰り返し、体はやせ細り彼女は、間もなく死ぬだろうというのが、おおかたの見方であった。

身勝手なもので、さんざん彼女と遊んでおきながら、誰も彼女を助けてやろうとはしなかった。勿論それには訳がある。

 彼女は以前、日本人男性と、結婚した経験があり、来日して、名古屋近辺に住んでいたということだ。だから日本語はとても上手で、離婚してバンコクに帰国してから後は、ここに住みつき、何人もの日本人貧乏旅行者を相手にしては、生活していた。

このポーンを相手にした日本人男性の数はかなりにのぼるらしい。
彼女は、身売りのほかに、麻薬をやっていたようだ。人生に絶望していたのだろう。やけのやんぱちで、挙げ句の果てには、彼女は日本人男性に、麻薬を勧めては、警察へ密告して、褒賞金を得ていたという噂もたっていた。

この地域で、警察とグルになっていれば、たれ込みによって、金が稼げたのだろうか。このことを知らなかった日本人は、かなりの数の男がカモになったらしい。刑務所へ入るか、それがいやだったら高額のワイロを払って、見逃してもらうかどちらかだ。
 
犯罪者が罰を受けるのは当然のことだが、こんな目に遭わした張本人として、噂では、これはポーンの仕業に違いないと、彼女はいつもやり玉に挙げられていた。もしこれが本当だったら、彼女は悪女だったのだ。

彼女自身も、麻薬のために、警察に捕まって、刑務所暮らしをしたことがあるらしいが、その中で、彼女は、日本人の麻薬使用者を
カモにして、金を稼ぐことを思いついたのかも知れない。あるいはたちの悪い警官から話を持ちかけられて、端役を引き受けていたのかも知れない。おかげで、何人かの日本人が、刑務所に、放りこまれたということである。日本人情報ノートには断定的に、そう書いてある。

彼女はチェンマイに近い郡部の出身で、父はビルマ人、母はタイ人のハーフで、バンコクに出てくるまでは、純情な田舎娘であった。
ところが都会に出てきて、都会の悪風に染まったばかりに、彼女の人生が狂ってしまったのだろう。

幸せになるはずの、日本人との結婚も、それぞれの国の生活習慣や国民性の違いがもとで、長くは、続かなかったようだ。それに彼女に近づいていった日本人は誰ひとりとして、この薄幸でかわいそうな彼女をを救ってやろうとはしなかった。よってたかって利用し、結果的にはごみのように捨てたのである。それは麻薬の密告者という噂が、日本人の間に広まっていたせいでもあるのだろう。

いや、それだけではなく、日本人には、おそらくそのような、精神的なゆとりはなかったのだろう。というのは、エイズ患者のポーンの死によって、彼らはわが身が、エイズにかかっているかどうかが最大の関心事であったのだ。

だれからも見捨てられて、この薄幸な女性・ポーンは、二十八歳で生涯を閉じることになったのである。一見すると穏やかで、マンペライ精神に満ちあふれる、この大都会のど真ん中でも、掘り起こせば、このような悲劇が浮かび上がってくる。悲劇が転がっているのだ。

僕はこの話を噂話として、聞いただけだから、真偽のほどは知らないが、ありうる話だと思った。ポーンのこの話を聞いて、僕は善玉も悪玉も作りたくはなかった。
それは人間が究極のところでは、如何に孤独であるかと言うことを教えてくれる、いや感じさせてくれる話であったからだ。つまり旅先のみならず人間は誰でも、どこでも、究極のところは独りぼっちであるという人間の、宿命を思い知らせてくれた話だった。

僕が泊まる安宿の日本人情報ノートには事の顛末がかなり詳しく
書かれていたが、あるところから先は読まなかった。
年若くして死んだポーンの冥福を祈るためにも。そしてこれ以上悲しい気持ちに、包まれたくなかったからだ。

王宮夜景

2007-06-27 21:24:22 | Weblog


タイをはじめとして、東南アジアをバックパッカーする日本人が、バンコクで定宿としているのは、カオサン通り周辺に集まった宿だ。
そのカオサン通りは日本人よりも、ヨーロッパ系の人が多い。だからここはタイ・バンコクでありながら、租界みたいな感じがする。
 
夜も昼も無く大音響でジャズや欧米で今流行りの音楽がかかっている。この通りには、これらの人々を相手にするタイ人の商人がいるくらいのもので、普通のタイ人はあまり見かけないが、多分異質なものとして、寄り付かないのだろう。よく見かけるのは、かっこいい制服をきた警官ぐらいのものだ。
 
格安旅行代理店が集まっているし、旅の情報が得られるので、僕はバンコクにくると、ここカオサン通りによく顔を出しているが、この喧騒の町に宿をとろうとは思わない。でも2,3日おきには顔を出していないと何かしら不安になる。

 今日も大して用事も無いのに、出かけて帰りが遅くなった。
ピンクラ大橋をわたって、疾走してくる車の群れの間を、横断禁止を無視して、大通りを渡りきるのは、緊張とすばやい身のこなしが無ければ出来ないことだ。もたもたしていたら事故であの世行きになる。
そんなスリルも味わって、むこうがわにある王宮広場に着いたら、汗びっしょりだった。

以前から見たいと思っていた王宮や、エメラルド寺院やワット・ポーのライトアップされた夜の顔に、今日は出会えた。王宮はさほどでもなかったが、ワット・プラケオやその後ろに見えるワット・ポーは幻想的で、ロマンチックというよりは、センチメンタルな気分を満喫させてくれた。旅情が体全体が覆い、何を思うでもなく、しばしたたずんだ。
 旅に身をおき、旅情を味わう、センチメンタルな気分に浸ることは、旅の醍醐味だろう。


夜の闇に半身を隠した寺でらは、そこが生死を考える場というよりは、
僕にとっては、異国情緒の別世界をなして、旅情を一層盛り上げる場所でもあった。
日本では見られない、あの寺院の屋根につけられた、とんがった独特な金色の装飾がライトアップされて、見事な輝きと、黒いシルエットを作り出している。
 時計を見るとかなり夜更けなのだが、本日の目玉、ワットアルンのライトアップされた姿を見るために、王宮の横の通りを川沿いに歩いて、タチャーンのボート乗り場へ行った。時間が時間だから、ボートはとっくに運行は終了している。ステーションには人影はない。
 
塔のてっぺんには、ひときわ輝くライトがあり、地上の各方面から照らされる光の中で、それは異彩を放っていた。その姿そのままに、川面に夜景が映り、波とともにゆれる姿はたとえようもなく麗しい。どこかの国のクイーンか、貴婦人を見る思いがした。昼見てよし、夜見てよし、ワットアルンは見るものには、常に最高の姿を見せてくれる。ほれた弱みなんだろう。けちのつけようがない。

川面に映った姿と、向こう岸に建っている実物の姿と、何回も何回も見つめ直したが、気品と壮麗さは、ますます浮かび上がってくる。夜景に包まれたワットアルンこそ、タイの国の第一番の宝物だという気がしてならなかった。昼間のざわめきから開放されて、この仏塔は、今は僕と向き合って対話してくれる。二人だけの会話ができるのだ。
いいな。感動した僕はいつまでも、そこにたたずんでいたい気持ちだった。

 憧れの王宮を中心とする穏やかな夜景を見て感動し、そしてまたあの上品で壮麗な姿は、昼間以上に麗しく、妖しいまでの姿を見せてくれたワットアルンの美しさに体がジーンとした。
うん。もうこれでいい。時を忘れて船着き場に立ちつくしたが、
心の底からバンコクの代表的な美しい夜景を堪能して帰途についた。

 日が暮れて夜になると、気温は下がり、暑さでげんなりした心が、元気を取り戻す。そしてわずらわしさから逃れてきたはずの日本が、なぜか恋しくなる。
明日は日本に帰ると思うと、見納めでもないのだが、これらの夜景に未練が残る。
ああ、今日も静かに暮れて行くか。ため息の出そうなセンチメンタルな気分に浸りながら、僕はバンコクの夜の空気を胸いっぱい大きく吸った。

大通りは相変わらず、車が騒音と排気ガスを撒き散らして走っているが、
気にはならない。多分これらの寺でらの壮麗な夜景と、周りの空気の中に身も心もどっぷりつかって、我を忘れていたのだろう。

時計を見ると、10時はまわっている。日本時間だったら12時過ぎ。深夜だ。
ぼつぼつ帰ろうか。僕は王宮前から1番の数字が書かれたバスに乗った。
これだと乗り換えなしで、一本のバスで宿まで直行で帰れる。
バンコクはバスが発達した大都会である。それだけにバスを使いこなせば便利なのだが、なにせ、タイの言葉の読み書きは言うに及ばず、会話もまったく出来ないので、日本では笑い話にしかならないような、バスの乗り方しか出来なくて、いつもまごまごしている。
 
一本のバスで宿まで帰れるというのは、ぼくにとってはこの上なくありがたいことだ。だから夜の王宮を満喫できるわけで、これがどのバスに乗ったら帰れるのかわからないならば、夜の王宮見物なんて、不安が先だってで出来たもんじゃない。大都会の夜に迷子だ、なんて思っただけで、ぞっとする。

 心おきなく今夜見物できたのは、昼の間にこのあたりを何回もうろうろしたからである。バスに乗り降りして、このあたりの地理を、つぶさに頭に叩き込んでいるからだ。
日本に居るときと違って、時間がゆったりすぎていくから、こんなことが出来るんだ。ユックリズムも、たまにはいいものだと、自分に言い聞かせた。

 熱帯のタイは昼間の暑さはきついが、日が落ちて2,3時間もすると、ほんとにしのぎやすい時間がやってくる。これはぼくにとってはまさにゴールデンタイムである。この時とばかりに、書き物をするのだが、体調がおかしくない限り、快調に筆は進む。つかれてフアンをつけたまま寝てしまったことがあるが、夜中には寒くなって目が覚め、シャツを一枚重ね着してしたこともある。やはり日が暮れて10時過ぎごろまでが一番しのぎやすい。
 
近頃はタイでも冷房がはやりだして、冷房バスはもちろんのこと、デパートなど、人の多く集まるところは、たいてい冷房が効いている。暑い街中を汗をたらたら流して歩いていると、冷房の効いたところは、ほっとする。
しかし長い時間冷房ビルに入っていると、体がだるくなって気分が悪くなってくる。それに日本と違って、バンコクの冷房はよく効いているので、それだけに僕にとっては長居は禁物だ。やはり天然がいい。朝と夕に訪れるあの快適な温度。あれが文字通りゴールデンタイムなのだ。

「やっぱり自然が体にいいのだな。」独り言が口をついて出た。
今夜はすでにゴールデンタイムは過ぎている。少したてば肌寒くなるかもしれない。1枚余計にきてベッドに横たわった。
 月もない暗闇の中に幻想的に浮かび上がって、川面でゆらぐ気品あるワットアルンの妖しいまでの、あのあでやかな姿が、目について日中の疲れがあるにもかかわらず、僕は寝付きが悪かった。








原罪

2007-06-27 21:20:06 | Weblog

          


 理屈でわかっていて、どうしようもないことを、くよくよ思うのは、馬鹿であるといえば、間違いなく僕は馬鹿の部類に入る。

そのとき僕は、バンコクのスクンピッド通りを一筋入った路地を歩いていた。
道端に血が流れている。それを女が水で洗い流している。鶏の血か?気持ちが悪くなった。
道端に出された屋台では人々は、串に指した、焼き鳥をうまそうにくっている。
原罪とはこれだ。思わずつぶやいた。
人間はほかの動植物の命を食って生きている。少しばかり他の動物に比べて、知能が発達しているがために、当たり前のようにして、他の動物や植物の命を食って、自分の命を維持している。食う側の人間はいい。食われる立場にある動植物の身にもなってみろ。何故我々が人間の命を支えるために、自分の命を犠牲にしなくてはならないのか、
恨みがましい声が聞こえるような気がした。
 しかし、こればかりは、さかさまでも、同じこと。たとえベジタリアンであっても、ノン・ベジタリアンであったとしても、人間以外の動植物の命を土台にして、自分の命を維持しているのだ。ただ、植物の場合は、命を奪われる時でも、無言であるが、動物の場合は、死の苦しみと
恐怖を体で表現する。魚の場合はまだしも、鳥や四つ足動物になると、死の予感に恐怖し、恐れおののいたり、悲鳴をあげたりして、死の苦しみと、恐怖を表す。そして、それに対して、情け無用とばかりに人間は、殺し料理して食べてしまう。
これは避けることができない人間の宿命であり、原初的な罪であると僕は思う。
罪という意識以前の問題として、処理するなら、それは現実から、目をそらした無責任なごまかしではなかろうか。罪は罪として認めた上で、初めに供養するという気持ちが大切なのではなかろうか。そう思った。
西洋でいう謝肉祭とは、犠牲になった動物のあるいは植物への感謝の気持ちと、お詫びの気持ちが、生み出したイベントではなかろうか。
カーニバルと言って人間が楽しむためのイベント化しているが、本来的には、仏教で言う供養ではあるまいか。神仏の前に、己の罪を懺悔して赦しを請う儀式ではないのか、ここまで、思い巡らせたとき、僕はカルカッタのカーリー寺院やカトマンズのダルバール広場に近い、ある寺院の前で行われる、山羊や羊の首を切って神にお供えする、いけにえの儀式を思い出した。血に飢えた神々にお供えする儀式であるという。神がいけにえとして動物の血を?何たる神だ。
山羊だか羊だか知らないが、猛獣ではなく、おとなしい動物の首を切って、神に供える。生々しい血がどっと出る。それはとても直視できるものではない。
 
 似たようなことがチベットの遊牧民の間でも、エスキモーの間でも、今日の食料のために、遊牧している羊や、トナカイの首を切って、食料にすることは日常茶飯事的に行われてる。たとえそれが現実の原理で、そころから、逃れられないとしても、血を見ることに、平然としておられるようになったら、人間はもうおしまいだと思った。

 2の3の無駄口をたたき言い訳をして何になる。これを原初的な罪としないで、ほかに原罪があるだろうか。考えてみるがいい。
僕は自分の内なる良心以外の言い分に対して、この言葉で封じた。
 言い訳がましいことは言わないこと。この現実を直視して、動植物の命の犠牲の上に、人間の命の輝きがあるんだから、ユメユメ自分の命を粗末にしないことだ。僕は自分にそういい聞かせた。
 
立ち止まって、先ほどの屋台の女の子の様子みると、懸命にホースで水を流している。それを見ると、歩道にへばりついた血のりは、そう簡単には、洗い流せそうにも無い。
あたかも、怨念となって、歩道にしがみついているみたいに。


アユタヤの微風

2007-06-27 21:18:34 | Weblog

           
4時に目が覚めた。
どこへ行く予定もないので、またうとうとした。7時に起床。
宿を出た。急にアユタヤに行きたくなったのである。アユタヤは前回行ったことがあるので、あらかた様子は頭の中にあった。
地図もガイドブックも持たず、前回のうっすらした記憶を頼りに駅を降りて、渡船で中之島へ渡り、ウトン通りを横切って、その道をまっすぐ歩いた。
日本はまだ二月で、朝晩はかなり冷えるというのに、アユタヤは夏気候。半袖のシャツから汗が噴き出してくる。
焼けつくような太陽熱がアスファルトの道に跳ね返り、暑さは上と下の両方から攻めてくる。
だが僕は乗り物に頼らないで、タオルで噴き出る汗を拭きながら、黙々と歩いた。
十五分ぐらいだっただろうか、目の前に大きな通りが現れ、その向こう側にレンガ造りの廃墟の跡が姿を現した。やっと目指す遺跡公園にたどり着いたのだ。午前中の涼しいうちにというわけではあるまいが、大半の観光客、それも日本人は意外に少なく、欧米人が多かった。
しかし昼が近くなると、観光バスが続々到着し、日本人が増えだした。バンコクのホテルを八時に出て日本人町を見学して、ここに来るとなると、昼休み前に到着する計算になる。

アコタヤの主な寺院廃虚、例えば、ワット・マハラ一トやワット・ラジャブラナは日本で言えば、奈良公園のような雰囲気のある、遺跡公園だ。中央部には猿沢の池よりは一回りも、ふた回りも大きい池があり、その池の上を渡ってくる風は、たとえようもない快適
さをもたらしてくれる。強いて名付ければ極楽に吹く風とでも形容したらよいのか。
タイの言葉でいうサバーイというのは、このことだろうか。

 広大な公園は、池あり、芝生あり、大木の木陰あり、崩れかけて朽ちはてそうな、れんが造りの建物、きっと寺院、あるいは宮殿に匹敵するたぐいだと思うが、公園の一角を占めている。
アンコールワットは石造りだったが、この遺跡には主に煉瓦で作られている。時の風雪によって、煉瓦はがれ落ち、その昔は、どんなに壮厳な姿であったろうかと、想像されると思っていたんだが、煉瓦はめくれ、塔全体が傾いて倒れそうに思えるものも、いくつかある。往時の盛大さを思い起こさせるには十分だが、同時に、人間のはかなさ、栄枯盛衰の理を感じないではいられなかった。

 前回は見落としていたが、仏の首が大きな木の根によって、取り囲まれて、あたかも首を絞めたような状態になっているが、その木が実は菩提樹だと初めて知った。首に根が絡まった周りには、柵が設けられ、仏の頭より高い位置に、自分を置いて撮影をすることは禁止されていた。平たく言えば、仏頭のそばに立ったままで写真を撮るなと。とるなら坐っている仏頭よりも頭を低くせよ。  
つまり、坐って撮れと看板に書いてあった。
釈迦の信者でもない欧米人はキリストの何たるかは知っていても、この禁止の意味をよく理解できなかったことだろう。係員に注意されて渋々坐って写真を撮ってはいたが、なぜ立姿で撮れないのか、聖なるものへの敬意の意味が理解できなかったのだろう。しかし
仏教徒の僕はこの立看板は合理的なものであった。よくぞ看板を出してくれたとうれしく思った。例え異教徒であっても、歴史上の聖なる人物に敬意を表すのは当然のことだとぼくには思われたからである。         

池の傍に大木があり、それがこの上ない濃い影をめぐんでくれて、真夏のようにぎらついた太陽から陰を作って人々や犬までも憩わせてくれる。
そよそよと、池の上を通り抜けて頬を通り過ぎてゆく風は、水面を渡る分、熱が冷やされて、さわやかこの上ない。極楽に吹く風と表現したのも、これは実感が伴っている。誰かれなく、この風を求めて、人々は僕のように、池の岸辺すぐ近くに腰をおろして、さわやかで、のどかで、平和で、安らぎのある極楽の世界を楽しんでいる。
たしか現時点はそう見える。そう思える。しかしいま目の前にあるのは、大寺院の朽ちはてた姿である。崩壊寸前まで来て、この威容だから、これらが建てられた時にはどんな壮大で美しいものだったろうか、想像にあまりある。耳を澄ませば、そこには往時の人間の息使いが未だに聞こえる様だ。男女が大勢いたはずだ。まず第一にこの巨大な寺院の建設を発願した権力者、それに設計図を書いた人、材料探しに奔走した人、図面通りに煉瓦を組み合わせて、設計図通りにこの大きな伽藍を作る職人たち。
そしてその家族たち。いったいどれくらいの、数多くの人々がこれにかかわったのであろうか。そんな大勢の人の力を合わせて、知恵と労力使って作り上げたこの都城でも、ビルマ軍によって決定的に破壊しっつくされ、略奪の限りを尽くされて、がれきに近い廃墟として、いま目の前にある。これほどまでに徹底的にやられてしまうと、たとえ空想に近い形にせよ、往時のイメージの再構築さえ難しい。

兵(つわもの)どもの夢の跡というのはセンチメンタルで、なにがしかの余韻を感じるものだが、それさえも思い浮かべられない様な過酷な現実がいま目の前に横たわっている。


人間の、何がおかしいのか、どの部分が狂気に変わるのか、僕は自問した。人間の心の奥深いところにはきっと悪魔が潜んでいるのだろう。人類の歴史は常に、食うか食われるかの殺し合いによって今を迎えている。人類発達史は人類戦争史と置き換えても過言ではない。そして戦争は過去の遺物になりつつあるとはいうものの、即ち冷戦時代が幕を閉じたとはいうものの、アメリカとイラクの間にはドス黒い戦雲が漂っているし、日本の国内では、北朝鮮が
「東京を火の海にしてやろうか」と物騒なことを言う。戦争というのは歴史的必然性なのだろうか。戦争によってせっかく作った富や
財産や生命が消費されるのを、一体だれがとめられるのか。人類の歴史はまさしく建設と破壊の歴史で、そのプロセスでは多くの人命が損なわれたという事実がある。もしそれが続くとするならば、人類の英知とはいったい何なのか、科学の進歩と人類の安寧とは最終的に結びついているのだろうか。ぼくはこの廃墟を目の前にして、何を目指して、進化していくのだろうかと真剣に考えざるを得なかった。

話は変わるが仏像の首から下は定位置に鎮座するが、100%に近い形で首から上つまり、顔と頭部がない。首から上の顔だけというのは二つしか発見できなかった。
一つは公園のチケット売り場から内に入る、入り口にあるもの。
もう一つは入って右側に向かって進むと大きな木の根によってあたかも、抱かれているかのような顔だけの仏頭。
 よく見ると仏顔の目から涙がにじみ出ているかのように思えた。人間どもの栄枯盛衰・破壊と略奪を眺めてきたこの仏頭が人間社会の争いを悲しんでいる。そしてその悲しみの涙が目ににじんでいるのではないか。今は観光の目玉の一つとして見世物になっているけれども、400年の時を経て、さらにこれから先も生じるであろう人間の愚かしさに対して、釈迦がその教えを理解しない人類に対する悲しみの涙であり、悲嘆にくれた涙なのかもしれないと思った。

午後からはほんの少しの通り雨があった。いつものスコールはではなくて十分ほどで小ぶりになった。この雨はもちろん仏頭をぬらした。
仏よ。どうか人類に平安を。釈迦が説かれた仏法が広く人々に広まって、功徳は世界人類の隅々まで行き渡りますように。僕は厚い祈りをささげたのであった。

ソンクラーン祭り

2007-06-27 21:16:55 | Weblog



 もう10回以上もバンコックには来ているが、水掛け祭りは今まで、唯の1回も遭遇していなかったので、このソンクラーン祭りのことは知らなかった。

4月13日から14、15、と3日間はタイのソンクラーン、水掛け祭りで、それはここタイでは日本で言えば、正月みたいなものらしい。水を掛けあって、お祝いをしているのだろう。市民はバケツを持った水掛けゲリラとなり、市街戦を繰り広げる。もちろん無礼講である。大人も子供も旅行者も外国人も関係なく、全員が水浸しになる日だ。
タイ人同志だけではなく、たまたま通りかかった外国人も巻き込んで、歩いて街ゆく人には誰でも、後ろから、前から無条件に水をぶっかける。
 
若い女の子などは掛けられた水のために、ブラウスが体にぴちゃっとくっついてボデイラインがはっきりと浮かび上がり、膨らんだ胸のあたりは、すけすけで黒い乳房が二つ見えている子もいる。

おっととっと。これは面白い。
タイの若者はいいことをやってくれるじゃないか。
 高見の見物を決め込んで、僕は腹の内で、にやにやしながらバスの手すりにもたれて眼の保養をした。
 
水かけと言うくらいだから、水をかけるほうも、掛けられる方もそれによってお祝いをしている気分に成るのだろうから、特に掛ける方は遠慮会釈は無い。何処でもいい、だれでもいい、辺り構わず水をぶっかけるだけでなく、追いかけてきて水を掛ける。標的は同胞だろうが、外人だろうが全くお構いなしである。
 
バスの中から水掛けの様子をいくつも見ていたので、今日は注意して歩かねばと、出来るだけ細い道を選んで歩くことにした。
車が通らないぶん、掛けられる危険が少なくて済むからだ。
 
バスを降りて路地に入り込んでうまくかわそうと思ったが、僕は地理に詳しくないために、結局は大通りを歩く羽目になった。
 通りでは、あちこちで誰彼かまわず水をかける。トラックに水瓶を積んで行き交う人に見境なく水を掛ける。町はそんな若者であふれている。バンコックの4月は最も暑い季節らしく、連日38度前後の気温だった。この祭りにとけ込めば、暑さ忘れの面白い祭りかもしれない。

 さて、今回のバンコック滞在はタイ旅行が目的地ではなくて、単なる通過地点に過ぎなかった。カオサン通りで格安キップを買った方が、安く昆明に行けるから立ち寄った迄である。昆明が目的地だったから、1日も早くバンコックを出発したかったのに運悪くソンクラーン祭りにひっかかってしまったのである。13、14、15、と3日間は官庁はおろか商店も閉まっている。
 
勿論中国大使館もお休みだ。ビザはとれない。仕方なくバンコクに釘付けになってしまった。
 格安キップには有効期間があるので、自ずと帰りまでの日数には制限がある。1日も早く昆明につかないと中国に滞在する期間はそれだけ短くなるのだ。僕は内心すごく焦っていたが、焦ったところでどうにかなるものでもない。体こそバンコックに置いているが心ははるか彼方の雲南省に飛んでいる。

 大通りで水の掛け合いをしているのを見て、これはやばいと思った。満足に着替えも持たない僕に、水が掛けられたら、それこそパンツ1丁で町を歩かなければならないことになる。どうしても水掛けから逃れなければならない。

そこで僕は大通りを避けて路地を通ることにした。それは車からの襲撃を避けるためである。しかし路地のどこから水が飛び出してくるかしれたものではないので、立ち止まっては警戒をおこたらなかった。だが、途中でどうしてもスリウオン通りを歩かなければならない所が有った。

しかたなく歩いていると、路地から中学生風の子供がかんずめの缶に入れた水を、僕の背後から背中に掛けた。というよりはそそぎ込んだ。彼はにやりと笑って僕を見つめたが、僕は驚きと怒りに声をふるわせた。水は背中から足下まで直行したお陰でびしょびしょということではなかった。
「やれやれ、たいそうなことをしてくれる。この野蛮人めが。」
僕はぶつくさ言いながら、なおもスリオン通りを歩いていたが、

次に来たのは強烈だった。車に若者が数人乗って、こちらに向かってやってくる気配を感じた僕は、右折してタニヤ通りのほうへ小走りに逃げた。多分此処なら安心だと思ったのもつかの間、1団は歓声をあげながら、僕を追いかけて来るではないか。これはいかん。僕は走って逃げた。蛇に追いかけられたら、横に逃げるに限るという具合に、僕は車が入れないような小さな路地に逃げ込んだが、
そこにはバケツを持った若者がいた。これはいかん、僕は驚いてまたもとの路を引き返さざるを得なかった。が、運悪く丁度そこへ先ほどの車が通りかかった。すかさず歓声と共に水がドバっと飛んできた。避けようもなく僕は頭から水を被った。

あわてて僕は肩に掛けたカバンからタオルを取り出して急いでふいた。しかしカバンの中まで水が入ってしまっていた。
急いで取り出したが、ビデオカメラが濡れている。
「やられた。」
僕は大急ぎでカメラを取り出し、タオルでふいた。綺麗にふいたが水は中まではいってしまったらしく、どんなにさわっても微動だにしなかった。
「畜生。馬鹿者め。手前ら野蛮人か。水を掛けたいのならタイ人同士でやれ。俺は外国人だぞ。誰もかけてくれと頼みもしないのに。いやがる俺にまでかけやがって。一体どういう了見なんだ。」

僕は怒りまくった。びしょぬれの上に、カメラまでやられてしまったのだ。腹が立たない訳がない。通り過ぎていく車に向かって
僕は唾を吐いてやった。
 

ビデオが動かないのにはさすがに参った。自室に戻って僕は電池をはずし、本体をフアンの風に当てて、乾かそうと懸命につとめたが、ビデオは動かずじまいだった。買ったばかりで今回が初めて使うのだ。それを楽しみにしていたのに。僕は何重にもむしゃくしゃした。
 
自分の都合でかってにタイにやってきておきながら、こんな事をいうのは、はなはだ不謹慎ではあるが、僕にとっては祭りは出来るだけ早く終わって欲しかった。
 ソンクラーンはタイ人にとっては、1年一回の無礼講の祭りで暑い盛りのフラストレーションを、発散させる楽しい祭りかもしれないが、僕には不愉快な祭りとしてしか映らなかった。 

「ところ変われば品変わる」というが、日本の正月とタイのソンクラーン祭りは大違いである。日本の正月はあくまで歳の初めとして、威儀を正し、歳の始まりを祝うもので、そこには格式というものがある。水掛祭りのようなエネルギー発散の要素はない。


それでもやっぱり「所変われば品変わる」で片づけなくてはならないのか。実害を受けて腹立ち紛れの僕は素直に、このソンクラーンを楽しい喜びの祭りとして受け入れることは、ついぞ出来なかった。