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タイ紀行

バンコクの魅力にとりつかれて、特にワットアルンは心のふるさとです

ポーンは死んだ

2007-06-27 21:29:05 | Weblog

日本人の誰もが、金持ちだとは限らない。
一時間七百五十円のつつましい、アルバイトをしながら、稼いだ金をためて、海外旅行、それも貧乏旅行している人も大勢いる。

東南アジア、たとえば、ベトナム、カンボジア、中国、ネパール、インド、タイ、ラオス、などを旅してみると、これら日本人貧乏旅行者たちよりも、はるかに貧乏な人たちが多いから、その人たちからみると、日本人は、たとえ、バックパックカーであったとしても金持ちだといわれれば、それはそうだと思う。三度の食事にこと欠く人が、飛行機に乗って、海外までやってこれるわけがないのだから、現地人が日本人は金持ちだと思うのも無理はない。

ところが 元々金がないから、慎ましい生活をするために、日本人の貧乏旅行者は決まって、安宿街へもぐり込む。
例えば、インド。カルカッタのサダル・ストリート。タイ・バンコクならカオサン通り。ベトナム・ホーチミンならフオングーラオ通り。
日本でいえば、さしずめ東京の山谷や、大阪の釜が崎などのような雰囲気が漂うところで、普通の日本人なら敬遠したくなるような場所柄である。
とにかく、宿泊代が安い。同室に何人か寝起きするドミトリー形式の宿泊所は200円から300円で、一晩泊まる事が出来る。
そして、この近くには不潔だが、屋台があり、食べ物はやすい。
ほんの少しのお金で寝ることと、食べることには事欠かない。

どういうわけか、風に吹かれながら、この屋台で食べると、普段ではとうていまずいとしか思えないようなものでも、おいしいと思うから不思議である。
最初このようなところへ、足踏みいれたときには思わず、その汚さに、非衛生さに、僕は「わっー」と意味不明の、言葉を口にだした。
その雰囲気には、到底なじめなかったし、とけ込むにはあまりにも抵抗が大き過ぎたのだ。気分的には高いところから目をつぶって
「えいやっ」と、水中へ飛び込むような緊張感を感じたのである。
目をつぶるようにして、皆がしているように、この町に飛び込んだが、こんなところでも、何回も出入りしている内に、別に何とも思わなくなった。慣れは怖いものである。

 日本から、タイのバンコック・ドンムアン空港につくと、ここから、乗り物に乗って約一時間かけてバンコク市街まで行くことになる。渋滞などを考えると、空港のすぐそばから出ている(鉄道)列車を利用するのが、ダウンタウンへ行く確実な方法であり、この終点の駅が、ホアランポーン・中央駅である。日本で言えば、さしずめ東京駅と言うところか。

ホアランポーン駅の西横には、真っ黒で悪臭を放つ泥水が流れている運河がある。この運河の橋を渡り、チャイナタウンの方に、向かって歩いていくと、ロータリーがあり、近くにジュライという名のホテルがあったそうだ。
ここの住人は日本人が多く、それも長期滞在の旅行者が住み着いていたようである。

 この話は此のジュライホテルを舞台にして、タイ人女性・ポーンとそれを取り巻く日本人旅行者の織りなす人間模様である。
聞いたところによると、このホテルは、ぼくがバンコクへ、通い始めたころには、すでに閉鎖され、撤去されていたので、そこで繰り広げられた物語は想像の域を脱することはできない。
 谷恒生の小説「バンコク楽宮ホテル」には、このジュライ、ホテルの日本人、貧乏旅行者の生活ぶりが、描写されている。それとダブるようにして、僕がバンコクに長期滞在している、バックッパッカーから聞いた話とは、ほぼ一致しているから多分実話か、それに近いものだろう。

 この、ジュライホテル周辺を舞台に生活していたポーンという名の女が、エイズのために、今年二月、二十八歳の生涯を閉じたという話だ。
死ぬ2,3ヶ月前から下痢や吐き気を繰り返し、体はやせ細り彼女は、間もなく死ぬだろうというのが、おおかたの見方であった。

身勝手なもので、さんざん彼女と遊んでおきながら、誰も彼女を助けてやろうとはしなかった。勿論それには訳がある。

 彼女は以前、日本人男性と、結婚した経験があり、来日して、名古屋近辺に住んでいたということだ。だから日本語はとても上手で、離婚してバンコクに帰国してから後は、ここに住みつき、何人もの日本人貧乏旅行者を相手にしては、生活していた。

このポーンを相手にした日本人男性の数はかなりにのぼるらしい。
彼女は、身売りのほかに、麻薬をやっていたようだ。人生に絶望していたのだろう。やけのやんぱちで、挙げ句の果てには、彼女は日本人男性に、麻薬を勧めては、警察へ密告して、褒賞金を得ていたという噂もたっていた。

この地域で、警察とグルになっていれば、たれ込みによって、金が稼げたのだろうか。このことを知らなかった日本人は、かなりの数の男がカモになったらしい。刑務所へ入るか、それがいやだったら高額のワイロを払って、見逃してもらうかどちらかだ。
 
犯罪者が罰を受けるのは当然のことだが、こんな目に遭わした張本人として、噂では、これはポーンの仕業に違いないと、彼女はいつもやり玉に挙げられていた。もしこれが本当だったら、彼女は悪女だったのだ。

彼女自身も、麻薬のために、警察に捕まって、刑務所暮らしをしたことがあるらしいが、その中で、彼女は、日本人の麻薬使用者を
カモにして、金を稼ぐことを思いついたのかも知れない。あるいはたちの悪い警官から話を持ちかけられて、端役を引き受けていたのかも知れない。おかげで、何人かの日本人が、刑務所に、放りこまれたということである。日本人情報ノートには断定的に、そう書いてある。

彼女はチェンマイに近い郡部の出身で、父はビルマ人、母はタイ人のハーフで、バンコクに出てくるまでは、純情な田舎娘であった。
ところが都会に出てきて、都会の悪風に染まったばかりに、彼女の人生が狂ってしまったのだろう。

幸せになるはずの、日本人との結婚も、それぞれの国の生活習慣や国民性の違いがもとで、長くは、続かなかったようだ。それに彼女に近づいていった日本人は誰ひとりとして、この薄幸でかわいそうな彼女をを救ってやろうとはしなかった。よってたかって利用し、結果的にはごみのように捨てたのである。それは麻薬の密告者という噂が、日本人の間に広まっていたせいでもあるのだろう。

いや、それだけではなく、日本人には、おそらくそのような、精神的なゆとりはなかったのだろう。というのは、エイズ患者のポーンの死によって、彼らはわが身が、エイズにかかっているかどうかが最大の関心事であったのだ。

だれからも見捨てられて、この薄幸な女性・ポーンは、二十八歳で生涯を閉じることになったのである。一見すると穏やかで、マンペライ精神に満ちあふれる、この大都会のど真ん中でも、掘り起こせば、このような悲劇が浮かび上がってくる。悲劇が転がっているのだ。

僕はこの話を噂話として、聞いただけだから、真偽のほどは知らないが、ありうる話だと思った。ポーンのこの話を聞いて、僕は善玉も悪玉も作りたくはなかった。
それは人間が究極のところでは、如何に孤独であるかと言うことを教えてくれる、いや感じさせてくれる話であったからだ。つまり旅先のみならず人間は誰でも、どこでも、究極のところは独りぼっちであるという人間の、宿命を思い知らせてくれた話だった。

僕が泊まる安宿の日本人情報ノートには事の顛末がかなり詳しく
書かれていたが、あるところから先は読まなかった。
年若くして死んだポーンの冥福を祈るためにも。そしてこれ以上悲しい気持ちに、包まれたくなかったからだ。

5 コメント

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タイ北部の女性たち (かわかみ たけし)
2010-11-26 13:17:18
僕は、ポンちゃんも知っているし、ジュライにも宿泊した経験があるのですが、相当に好い加減な話が流布しているようですね。

ポンちゃんが死んだのは1996年3月だったし、死因はエイズでもない。彼女は日本人に好かれていたから、彼女が亡くなる時には、東京の学生の小林くんという人が見取っています。それに、ポンちゃんが日本人を密告していたという話も根も葉もない噂話ですよ。「原罪」の文章を読んで、真面目な人だという印象を受けたので、このようなメールを送らせてもらいました。
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ポン (暇人一合)
2010-12-25 15:10:54
ポンがジュライに現れたのは86年の暮れか87年初めころ、突然黒のロングドレスでジュライ前に現れた純粋で幼い少女だったよ、その頃は売春も薬も知らなかった、悪いことは全部日本人に教えられたんだよ、それだけ彼女には学がなく、当たり前の世界になったんだよ
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本当のはなしは2人知っている。 (小林君の友達)
2016-04-25 15:36:14
皆さんがポーンの事を思い出してくれてありがとうございます。
草葉の陰で喜んでいると思います。
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Unknown (3カラット)
2016-11-03 12:37:07
ずいぶん事実と違い事を書いてますね。
ハッキリ言って不快です。
彼女は密告などしなかったし日本人たちにも可愛がられていましたよ。
そのノートを書いた人はおそらく彼女のことは全然知らなかったんでしょう。
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小林くんとは (佐久間)
2016-12-08 00:18:11
一点質問ですが、ここに出てくる''小林くん''とは、アジアン・ジャパニーズの著者でしょうか?
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