「ああ・・・俺、死ぬのかな・・・。やりたいこと、まだいっぱいあったのにな・・・助けて・・・神様!」
ガタガタと揺れ動く教室の中、長机の下に潜り込んだ私は、そう叫びたいのを「必死の思い」で、こらえていました。あの日、「地震」が起きた直後、始めは「少し揺れた」程度に感じられた「振動」は、そのまま収まる気配を見せず、やがて「大きな揺らぎ」となって、私たちがコンピュータ研修を受けていたビルを揺らしたのです。
私は「なす術」を知りませんでした。出来るのは「机の下に隠れること」だけ。それ以外に全く考えられる事も無く、ただただ「床に這いつくばって」揺れが収まるのを待つしか有りませんでした。私の隣に座っていた、京都出身の女性が「怖い・・・」といかにも関西らしい訛の混じった声を漏らすのが聞こえました。「守りたい・・・」そう思っても身体を動かすことは出来ませんでした。とにかく床に這ってしがみついているのが「やっと」で、誰かに手を差し伸べるなどと言うことは「不可能」だったのです。
その時私は冬、雪の山道を友達の車でドライブしていた際に出会った、危うい経験を思い出していました。それは、思い出せる限りにおいて「唯一『死』を覚悟した経験」でした。もう10数年前、社会人になって数年が過ぎた頃の話。「スタッドレスタイヤ」を履かせているからと、私の友人は「かなりのスピード」で車を飛ばしていました。
いくら「スタッドレス~」と言っても「こんなに飛ばして、大丈夫かな・・・」と思い、また「平気、平気」と気にも掛けない友人に、スピードを落とすよう「頼んでいた」そんな時、不安は的中してしまいました。緩やかな「カーブ」を曲がりきれなかった友人の車は、そのまま「ゆっくりと」制御を失い回転を始めたのです。
その時は「本当に『ゆっくり』と、時が流れている」ように感じられました。車の中はなんら変わらないのに「周囲の景色」だけが、スピンしてしまった車の「周囲」をぐるぐると回っている・・・本当に『回っている」のは自分達だったのですが・・・。「ゆっくり」と回転するメリーゴーランドに乗ったかのように、ゆっくり車がスピンを止めるまで・・・やはり、私たちには「なす術」はありませんでした。
幸いなことに「対向車」が来なかったこと。車体が道路を逸脱し、雪に覆われた「田んぼ」に放り出されなかったこと。二つの「幸運」により、スピンを止めた車の中で、私は自分が生命が助かったことを知りました。また同時に「全身」から力が抜け、それでも「無事」でかつ「何事もなく」事故にならなかった事に感謝しました。
2011年3月11日の午後に、突然やって来た「地震」は、その時以来2度目に「もしかしたらダメかもしれない・・・」と「覚悟」させられたものでした。あれほどの「大きな地震」を、単に「冬山でスピンした」という、ほんの小さな出来事に結び付けてしまうのは、いささか「比較」の対象として不適当なのかもしれません。
が、私にとっては「自分ではない誰か(または何か)」により、完全に「動きの自由」を奪われ、「死ぬかも」と思ったという意味では、ひどく「似通った」経験なのでした。同時に揺れに耐えている最中には大変不謹慎ながら、同年の初頭に私にも「馴染み」のある「New Zealand」にて多数の「日本人留学生」が犠牲となった「地震」のことが「頭に浮かんでいた」のも事実です。その地震で「犠牲になった、方達もこんな思いをしたのだろうか・・・」長い揺れの中(それは、本当に「長く感じられました」)「救いを求める気持ち」は様々な「想い」を私にもたらしたのです。
その頃、14箇所目の「転職先」を「ある特別な事情」で「逃げ出さざるを得なかった」私はハローワークが紹介していた「基金訓練」と呼ばれる「給付金を受給」しながら「新しい仕事の知識や技術」を身に付ける講座を受講しており、「経理・財務スタッフ」として働けるだけの「能力」を得るための「努力」をしているところでした。
また私にとって「唯一」と言って良い「資格・特技」として「英語」がありましたが、ちょうど地震のあった週の日曜日(3.11の翌々日)に「TOEIC」の試験を受けることにしていました。が、結局その回の試験は「中止」になり、地震当日の金曜日から週末(講座は平日のみ)はお休み、そして「月曜日」に予定されていた「職場見学(講座内で2回予定されていたもののうちの1回目)」も中止となったため、都合3日間は「何もすることが無い」という状況になりました。
その後、講座の開催地だった「水道橋」から自宅のある「練馬区氷川台」まで、徒歩と同じ講座の受講生の方が、ご好意で出してくれた「車」で、なんとか帰り着いたのは、その日の20時を回った頃では無かったかと思います。家に帰り着くとまず、その頃私が住んでいるマンションは「大規模修繕中」だったのですが、特に何事も起きていない様子で安心しました(それほど新しい訳では無いので心配でした)。
「ほっ」とすると同時に、今度は「部屋の中」に入って「物が散乱」していることに「驚きました」。元々綺麗に「片付けている」訳でもないのですが、明らかに「高い所にあったもの」が、床に落ちていたり、風呂場の中の「シャンプーやボディソープ」などのボトルが普段置いてある場所から、まさに「放り出された」ように「飛び散らかって」いるのを目撃し、「自宅」でも「相当揺れたのだな」ということが、容易に想像がつきました。
その後、状況を確認しようとテレビを着けたところ、各局共に「緊急報道番組」一色となっており(テレビ東京さえ「通常放送」でないのに、また驚きました)、事態の大きさが想像できました。そしてそこから「更にひどい状況」を目撃することになる・・・ということは、当時を知っている皆さんであれば、簡単に想像いただけると思います。
【簡単なまとめ】
以上が、あの日「2011/3/11」、地震発生から家に帰り着くまでの「簡単な」経緯です。本当は「もっと色々」詳細を書きたかったのですが、時間の都合で、かなり「省略版」になりました。地震が起きた時は本当に「まさか・・・」と思いましたし、その後の「徒歩」での自宅までの帰宅(途中から同じ講座の受講生の方のご好意で「車」になりましたが、大渋滞に巻き込まれ、余計に疲れました)も大変な思いをしました。
家には帰りつけたので、その後は何とかなりましたが、今度は「TVの中」で「被災地域」の「状況」を時々刻々知ることとなり、また「繰り返し放送される『津波』の映像」に「恐怖」を感じたのを覚えています。前回の記事にも書きましたが、私は「地震」については「当事者」であり、「津波」に関しては「傍観者」、そして「原発事故」については、「やはり当事者」だろうと思っています。朝、前回の記事をアップしてから仕事へ行き、その後帰宅してからテレビなどで「どのくらい『あの日』のことを伝えているかな?」と思っていましたが、割合に「通常放送」ばかりで、逆に「拍子抜け」してしまいました。
さすがにNHKや「報道番組」では取り上げてはいましたが、「発生直後」の「報道の量と密度」を知っている身としては「物足りない」とおもってしまうのは「勝手な意見」になるのでしょうか。もちろん、いつまでも「引きずってはいられない」ということなのだろう、という事は理解できるのですが、まだまだ「復興が進んでいない」という、報道に接するたびに「複雑」な思いに駆られるのも事実です。また、発生直後は「ボランティアに行きたい!」と思っていましたが、何しろ当時は「無職」の身であり、自分の「その先」も見えない状態でしたので(貯金もほぼ無かったし)、結局今に到るまで「現地」を訪れることは出来ていません。
幸い、その後に「まがりなりにも仕事」にありつき、微々たるものですが「蓄え」もできました。そうすると今度は「時間」の確保が難しくなり、また「現地」を訪れる「隙間」を見つけることが難しくなっていますが、それでも「何とか」現地を訪れる「機会」を作ろうと思っています。まだまだ、伝えたいことや、書き足りないことが多くあるのですが「時間の制約」により、今はこれが精一杯です。また「まとまった時間」がとれれば、残っている「もの」や「こと」について、まとめることが出来ればと思います(下手をすると「来年の今頃」になってしまうかも・・・)。それまでは、またしばらくお待ちいただくしかありません(個人的に興味がある方は質問していただいても構いません)。本当に簡単過ぎる「まとめ」になってしまいますが、今はここまでとさせていただきます。
最後に、あの日の「地震と津波、原発事故」によって大切な「生命」を失われた方々、また「被害」を受けられた方々、すべての関係者の方々に「哀悼の意」を表させていただきます。つたない文章でしか、表すことができませんが、これが私に出来る最大限の「誠意」です(もちろんこれで終りということではありません)。
それでは、また。