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【松岡修造という生き方】

2014-03-16 12:19:05 | 日記

「諦めんなよ!」「できるできるできるできる!」「お前ら恵まれてんじゃねえか!」

「松岡修造」氏と聞いて、あなたは何を思うだろうか?「ウィンブルドン選手権」の「62年振り日本人ベスト8進出者」か、「食いしん坊、万才!」の人か、それとも危うく「ソチ五輪」を「崩壊」寸前に追い込んだ男か…人によって様々だと思う。

けれども、僕らはきっと「この人」から、多くを学ぶべきではないだろうか?

特筆すべきは、その一貫した「ブレ」の無さだろう。「ソチ五輪…」を引くまでも無く「彼」は「ネタ」になっている、沢山。そして事実「w」な伝説も多い。比較するならかつての「レジェンド・長嶋茂雄」氏と比べても良いかもしれない。

松岡氏が「その事(ネタになっている事実)」を知っているかどうか僕は知らない。「熱く、滾りまくっている」から「そんな事に構っていられない」のかもしれないし、「知っていて」なお、変えないのなら、氏はもっと「賞賛」されていい(本当にそうなら、それはもはや「驚異的」だ)。

一つだけ言えるのは「熱く生き、歴史に残る結果」を出した男(彼は「エアK」こと錦織選手の師匠でもある)と、彼を「ネタ」にし、「笑っているだけ」の人々。100年後に「名を残している」のは「どちら」なのだろうと言うこと(どっちだって良いかもしれないけれど…)。

松岡氏のように「熱く(時にウザい程)」全力で取り組むか、そうではない道を選ぶか、それは自由だ。けれど「何かを成し遂げたい」「何かを伝えたい」、そんな気持ちがあるのなら、彼の生き様から「学べる」ことは少なくない。

ちょっとだけで良い、考えてみて欲しい。

「諦めんなよ!」「できるできるできるできる!」「お前ら恵まれてんじゃねえか!」


【松岡修造オフィシャルHP】
http://www.shuzo.co.jp/


【明日誰かに話したくなる「松岡修造」の熱すぎる伝説集】
http://matome.naver.jp/odai/2135303757212673301?pa 


【特別更新】3年前・・・「3.11」。。。私の場合

2014-03-11 22:42:08 | 日記

「ああ・・・俺、死ぬのかな・・・。やりたいこと、まだいっぱいあったのにな・・・助けて・・・神様!」

 

ガタガタと揺れ動く教室の中、長机の下に潜り込んだ私は、そう叫びたいのを「必死の思い」で、こらえていました。あの日、「地震」が起きた直後、始めは「少し揺れた」程度に感じられた「振動」は、そのまま収まる気配を見せず、やがて「大きな揺らぎ」となって、私たちがコンピュータ研修を受けていたビルを揺らしたのです。

 

私は「なす術」を知りませんでした。出来るのは「机の下に隠れること」だけ。それ以外に全く考えられる事も無く、ただただ「床に這いつくばって」揺れが収まるのを待つしか有りませんでした。私の隣に座っていた、京都出身の女性が「怖い・・・」といかにも関西らしい訛の混じった声を漏らすのが聞こえました。「守りたい・・・」そう思っても身体を動かすことは出来ませんでした。とにかく床に這ってしがみついているのが「やっと」で、誰かに手を差し伸べるなどと言うことは「不可能」だったのです。

 

その時私は冬、雪の山道を友達の車でドライブしていた際に出会った、危うい経験を思い出していました。それは、思い出せる限りにおいて「唯一『死』を覚悟した経験」でした。もう10数年前、社会人になって数年が過ぎた頃の話。「スタッドレスタイヤ」を履かせているからと、私の友人は「かなりのスピード」で車を飛ばしていました。

 

いくら「スタッドレス~」と言っても「こんなに飛ばして、大丈夫かな・・・」と思い、また「平気、平気」と気にも掛けない友人に、スピードを落とすよう「頼んでいた」そんな時、不安は的中してしまいました。緩やかな「カーブ」を曲がりきれなかった友人の車は、そのまま「ゆっくりと」制御を失い回転を始めたのです。

 

その時は「本当に『ゆっくり』と、時が流れている」ように感じられました。車の中はなんら変わらないのに「周囲の景色」だけが、スピンしてしまった車の「周囲」をぐるぐると回っている・・・本当に『回っている」のは自分達だったのですが・・・。「ゆっくり」と回転するメリーゴーランドに乗ったかのように、ゆっくり車がスピンを止めるまで・・・やはり、私たちには「なす術」はありませんでした。

 

幸いなことに「対向車」が来なかったこと。車体が道路を逸脱し、雪に覆われた「田んぼ」に放り出されなかったこと。二つの「幸運」により、スピンを止めた車の中で、私は自分が生命が助かったことを知りました。また同時に「全身」から力が抜け、それでも「無事」でかつ「何事もなく」事故にならなかった事に感謝しました。

 

 2011年3月11日の午後に、突然やって来た「地震」は、その時以来2度目に「もしかしたらダメかもしれない・・・」と「覚悟」させられたものでした。あれほどの「大きな地震」を、単に「冬山でスピンした」という、ほんの小さな出来事に結び付けてしまうのは、いささか「比較」の対象として不適当なのかもしれません。

 

が、私にとっては「自分ではない誰か(または何か)」により、完全に「動きの自由」を奪われ、「死ぬかも」と思ったという意味では、ひどく「似通った」経験なのでした。同時に揺れに耐えている最中には大変不謹慎ながら、同年の初頭に私にも「馴染み」のある「New Zealand」にて多数の「日本人留学生」が犠牲となった「地震」のことが「頭に浮かんでいた」のも事実です。その地震で「犠牲になった、方達もこんな思いをしたのだろうか・・・」長い揺れの中(それは、本当に「長く感じられました」)「救いを求める気持ち」は様々な「想い」を私にもたらしたのです。

 

その頃、14箇所目の「転職先」を「ある特別な事情」で「逃げ出さざるを得なかった」私はハローワークが紹介していた「基金訓練」と呼ばれる「給付金を受給」しながら「新しい仕事の知識や技術」を身に付ける講座を受講しており、「経理・財務スタッフ」として働けるだけの「能力」を得るための「努力」をしているところでした。

 

また私にとって「唯一」と言って良い「資格・特技」として「英語」がありましたが、ちょうど地震のあった週の日曜日(3.11の翌々日)に「TOEIC」の試験を受けることにしていました。が、結局その回の試験は「中止」になり、地震当日の金曜日から週末(講座は平日のみ)はお休み、そして「月曜日」に予定されていた「職場見学(講座内で2回予定されていたもののうちの1回目)」も中止となったため、都合3日間は「何もすることが無い」という状況になりました。

 

その後、講座の開催地だった「水道橋」から自宅のある「練馬区氷川台」まで、徒歩と同じ講座の受講生の方が、ご好意で出してくれた「車」で、なんとか帰り着いたのは、その日の20時を回った頃では無かったかと思います。家に帰り着くとまず、その頃私が住んでいるマンションは「大規模修繕中」だったのですが、特に何事も起きていない様子で安心しました(それほど新しい訳では無いので心配でした)。

 

「ほっ」とすると同時に、今度は「部屋の中」に入って「物が散乱」していることに「驚きました」。元々綺麗に「片付けている」訳でもないのですが、明らかに「高い所にあったもの」が、床に落ちていたり、風呂場の中の「シャンプーやボディソープ」などのボトルが普段置いてある場所から、まさに「放り出された」ように「飛び散らかって」いるのを目撃し、「自宅」でも「相当揺れたのだな」ということが、容易に想像がつきました。

 

その後、状況を確認しようとテレビを着けたところ、各局共に「緊急報道番組」一色となっており(テレビ東京さえ「通常放送」でないのに、また驚きました)、事態の大きさが想像できました。そしてそこから「更にひどい状況」を目撃することになる・・・ということは、当時を知っている皆さんであれば、簡単に想像いただけると思います。 

 

 【簡単なまとめ】
以上が、あの日「2011/3/11」、地震発生から家に帰り着くまでの「簡単な」経緯です。本当は「もっと色々」詳細を書きたかったのですが、時間の都合で、かなり「省略版」になりました。地震が起きた時は本当に「まさか・・・」と思いましたし、その後の「徒歩」での自宅までの帰宅(途中から同じ講座の受講生の方のご好意で「車」になりましたが、大渋滞に巻き込まれ、余計に疲れました)も大変な思いをしました。

 

家には帰りつけたので、その後は何とかなりましたが、今度は「TVの中」で「被災地域」の「状況」を時々刻々知ることとなり、また「繰り返し放送される『津波』の映像」に「恐怖」を感じたのを覚えています。前回の記事にも書きましたが、私は「地震」については「当事者」であり、「津波」に関しては「傍観者」、そして「原発事故」については、「やはり当事者」だろうと思っています。朝、前回の記事をアップしてから仕事へ行き、その後帰宅してからテレビなどで「どのくらい『あの日』のことを伝えているかな?」と思っていましたが、割合に「通常放送」ばかりで、逆に「拍子抜け」してしまいました。

 

さすがにNHKや「報道番組」では取り上げてはいましたが、「発生直後」の「報道の量と密度」を知っている身としては「物足りない」とおもってしまうのは「勝手な意見」になるのでしょうか。もちろん、いつまでも「引きずってはいられない」ということなのだろう、という事は理解できるのですが、まだまだ「復興が進んでいない」という、報道に接するたびに「複雑」な思いに駆られるのも事実です。また、発生直後は「ボランティアに行きたい!」と思っていましたが、何しろ当時は「無職」の身であり、自分の「その先」も見えない状態でしたので(貯金もほぼ無かったし)、結局今に到るまで「現地」を訪れることは出来ていません。

 

幸い、その後に「まがりなりにも仕事」にありつき、微々たるものですが「蓄え」もできました。そうすると今度は「時間」の確保が難しくなり、また「現地」を訪れる「隙間」を見つけることが難しくなっていますが、それでも「何とか」現地を訪れる「機会」を作ろうと思っています。まだまだ、伝えたいことや、書き足りないことが多くあるのですが「時間の制約」により、今はこれが精一杯です。また「まとまった時間」がとれれば、残っている「もの」や「こと」について、まとめることが出来ればと思います(下手をすると「来年の今頃」になってしまうかも・・・)。それまでは、またしばらくお待ちいただくしかありません(個人的に興味がある方は質問していただいても構いません)。本当に簡単過ぎる「まとめ」になってしまいますが、今はここまでとさせていただきます。

 

最後に、あの日の「地震と津波、原発事故」によって大切な「生命」を失われた方々、また「被害」を受けられた方々、すべての関係者の方々に「哀悼の意」を表させていただきます。つたない文章でしか、表すことができませんが、これが私に出来る最大限の「誠意」です(もちろんこれで終りということではありません)。

 

それでは、また。


【特別更新】3年前・・・「3.11」。。。当事者とは「誰か?」

2014-03-11 00:00:18 | 日記

みなさん、こんばんは。

 

昨日「もう更新しません」とお伝えしましたが、今日は「更新します」。理由はもうお分かりだと思います。実は、この間の土曜日、通学中の「講座」で「卒業制作」についての「プレゼン&講評会」がありました。その際に「東日本大震災」をテーマに、そして「当事者」である「被災者」の方々に「何が出来るのだろうか?」と思い悩んでいる「女性受講生」と「震災の当事者」に含まれるのは「誰なのか?」について、議論になりました。

 

彼女も私も、「あの日」東京にいたのは間違いありません。そして彼女は「自分は当事者ではない」と言い、私は「我々も当事者だ」という点で、見解の相違が発生しました。彼女にとって「当事者」とは「地震とその後の津波」によって、大きな「被害」を受けた「岩手・宮城・福島」の被災者の方達であり「自分はたいした被害も受けていない、とても当事者とは言えない」との意見でした。

 

それに対して、私の意見は「あの日、自分は都内の『ビル』の中におり、地震の『揺れ』が続いている間『死を覚悟』していた、だから『私たち自身も、当然当事者だと思う」というものでした。その後、講座が終り有志が集まり、「恒例の飲み会」となったのですが、卒業制作の「テーマ」決めに「悩んでいた」彼女の「相談」を受けていた私は、そのまま「飲み会への参加」を促しました。

 

本当はその席で「相談の続き」を受けるつもりだったのですが、「流れ」の中ではぐれてしまい、結局「続き」を話すことは出来なかったのですが、帰り際に「気が付いた」ことがありました。このブログで書いたことがあったかどうか「もう」忘れてしまいましたが、私は西日本にある「島根県」の出身です。そのため「東日本のみ」に親類縁者をもっている方々と「決定的な違い」を、私が抱えていることに気が付きました。

 

それは「私の両親や兄弟(=すべて西日本在住)」は「びた一文」も地震の「揺れ」を体感していない、という事実です。あの日、「揺れ」が治まり、5階(6階だったかな?)から地上へ避難したのですが、「これは『おそらくとんでもないこと』だ!携帯もすぐに通じなくなるに違いない!(私は「携帯電話」以外は「自宅のPC経由の方法」以外に家族への連絡手段を持っていません)」と思い、とにかく「無事である=生きている」と言うことを「知らせておこう」と思い「家族」へメールを送りました。

 

案の定、すぐに「携帯」および「メール」は「規制」が始まり、通じない状態となりました。その後、わずかに通じた時間に「母親」から届いたメールの内容に私は「愕然」としました。「妙なメールが来たけど、何かあったのですか?」というような「緊迫感の欠片」も無い(お母さんごめんなさい)メールが届いていたのです。とは言え、そのメールは「受信時」より「数時間も前」に出されたものである事にも同時に気づきました。

 

おそらく相当量のメールが飛び交ったことは容易に想像はつきましたので、その他に母親から届いていたそのしばらく後に出されたメールを見ると、さすがに「テレビの緊急報道」などで、状況を把握したのか「無事だとのこと、了解しました。くれぐれも気をつけて」という内容のメールも届いているのを確認しました。

 

そうです、三陸沖で発生した「地震」は「西日本」までは「届いていなかった」のです。逆に、その後に発生した「津波」が、様々な「海峡および水道」を通り抜け、狭い「日本海」で乱反射し、実家のある港町でも、わずかですが「津波」が観測されました(注意報的なものも出ていました、テレビで見ただけですが)。でも、その程度です。私の「肉親」は「誰一人」、あの「巨大な揺れ」を体感することはなかったのです(それはそれで「ひどく幸運」なことだ、ということも理解はしています)。

 

そうした「残酷なまでの落差」を味わっていたので、私には「当事者である」との意識が「強く出た」のだ、ということにその時気が付きました。その事に思い至った私は、その事を「その女性受講生」に伝え、彼女がどの程度「地震」を体感したのか、確認しました。そうすると、彼女は「自宅」にいて、私が感じた程の「身の危険」を感じはしなかったとのことでした。また、近くにいた別の受講生にも聞いてみたのですが、同じく「自宅」におり、「それほど」の恐怖を感じていなかったことが分かりました。

 

 私はよく「ほんのわずかな認識のズレ」が「決定的な見解の相違」に繋がることがある・・・のではなかろうか?と考えていたのですが、まさにその実例を得たような気がしました。「死を覚悟した私」と「それほどでもない」と感じた女性受講生。また「何のことだか、さっぱり?」という私の肉親。「体感」や「距離」などの、ちょっとした要因(距離は「ちょっと」じゃないですが)で、「同じ物事」についても「全く異なる見解」を導いてしまう。それが、私と彼女の間に「議論」という「コミュニケーション」の必要を与えた・・・という訳でした。

 

その日は「そういうことだったか・・・」で納得していた私でしたが、昨日(3/10)に、さらに別の「要因」を忘れていたことに気がつきました。確かに私は「地震」については「当事者」ですが、その後に起こった「巨大津波・・・」という、「巨大な悲劇」を経験はしていなかった・・・ということに、思い到りました。それに気が付いた時、私は「自分が間違っていた」ことに気が付きました。そうです。あの「震災」で本当に「甚大な被害」をもたらしたのは「地お震の揺れ」そのものではなく、「津波」だった・・・、その事実を私は「すっかり」忘れていたのです。

 

私がどんなに「私達も当事者だ」と訴えても、どうしても「腑に落ちない・・・」という態度が変わらなかった彼女。おそらく彼女は「そのこと」を、感覚的には「捉えていた」のだと思います。ただそれを「言葉」として「はっきり形に出来なかった」、そして私は「自分の経験したこと」に「拘り過ぎ」、「本当に被害をもたらしたもの」の存在を忘れてしまっていた(福島第一原発の事も「忘れてはいけない事実」ですね)。ギリギリのところで、彼女も私も「震災の本質」に迫ることが出来なかった、いえ正確には女性受講生は「皮膚感覚」ではそのことを「捉えて」いたので、彼女の方が、私よりもはるかに「真実」に近いところにいたのだな・・・と今は思っています。

 

 「実体験」とは恐ろしいもので、「事実だ」と思うから・・・またそれが本当に「事実」なだけに、それによって「視野狭窄」を起こさせてしまう。ある出来事の「目撃者」や「当事者」は、現象に「近過ぎる」がために、どうしても「客観視」できない。そのことを思いしらされたような気がします。

 

さて、ここまで話を連ねてきましたが、これは私が今日「本当に書きたかったことではありません」・・・残念ながら(言ってみれば「その序章」と言ったところです)。「何を書くか」だとか「構成」などを考えることなく「ノリと勢い」だけで書くので、このようなことになってしまうのですが、取り合えず今回は「ここまで」にしたいと思います。

 

ですが「本当に書きたかった」のは「あの日私が経験したこと・・・どこにいて、何をし、何を考えたのか?」を「一つの証言」として「残しておきたかった」というのが、本当に書こうと思っていたことです。筆の勢いで思わぬ方向へ行ってしまいましたが、次回(出来れば「今日(3/11)中」)に再度アップしたいと思います。

 

それでは、また。

 


人間は神ではありません・・・!

2014-03-07 23:04:32 | 日記

こんばんは、かわぽーさんです(^^)v
えー、せっかく再開したと思ったら、早速休むという・・・Orz もう何もいいません(-_-;)

 

それにしても昨日は、本当に「まったく」何も出ませんでした・・・。以前も言及した「Writer's block」というものが、また「再び」やって来た・・・のかもしれません。。。ほっんとーに!なっーんにも!「思いつかない・・・」っていう日がねえ・・・あるんですよ、ほんとに。。。

 

そんな時に備えて「ネタ帳・・・」的なものを持っておくべきなのかもしれません。。。もしくは「何か思いついた」時に、ちゃんと「手帳・・・」は最近持ち歩いていないので、「スマホ!」(いやあ実に「現代的だ・・・」)にメモをしておくべきなのかもしれません・・・(^_^;)

 

他業界の話になりますが、「お笑い芸人」さんはやっぱり「ネタ帳」を持ち歩いていて、思いついた「ネタ」を書き留めておく・・・という話を聞いたような気がしますし、作詞家さんも「いいフレーズ」が思いついたときは「紙ナプキン」とかでもいいから、書き留めたりするようです。

 

さらに凄いのは、「シンガーソングライター」とか「作曲家」さんとかだと(どちらかというと「シンガー~」の方ですけど)、「車の運転中」とか「街のど真ん中」とか、「眠りについている(もしくは夜中に突然)」、良いメロディラインが思い浮かんだとして、「運転中」だと、忘れないように「運転しなくて良い状態」になるまで、「ずっとそのメロディを歌い続ける」とかするそうです。

 

また「街のど真ん中」とかだと、かつては「公衆電話」から「自分の家」に電話を掛け、「留守番電話」にメロディを吹き込んでおく(今なら「携帯」とかに吹き込めるからラクですよね)とか、夜中寝てるときに思いついたら「飛び起きて書き留める」とかする・・・というような話をラジオか何かで聞いた覚えがあります(記憶が曖昧じゃのう・・・)。 

 

まあ、そのくらい「出なくなる」時もあるし、「出る」時は突然「降ってくる」(なんか、別の「何か」の話をしてるみたいだ・・・(笑))ようなので、「ネタ帳・・・」もしくはきちんと記録しておいて「ストック」を作ることは「大事なこと」なのかなあ・・・と気が付かされました。いやあそれにしても、ほんとに、昨日は何も「思いつかない・・・」ままにそのまま「寝落ち」してましたからね・・・。

 

と、ここまで書いた内容が全て「余談」だったことに「慄然」としている私がいるのですが、調子が良いとこの位←ここまでで「1,167字」ありました(笑)、は「あっという間」に書けてしまうので、やっぱり「調子」ってのはあるんだなあ・・・と思ってしまいます。んー「調子」という言葉が適切でなければ、何でしょうね・・・?「バイオリズム?」

 

なんて「言葉」も私が小さい頃には流行っていたような・・・?(なんかゲーセンとかデパート的なところに「それ」を測れる「ジュークボックス」ではないけれど、なんかそんな感じの機械が割りと「あちらこちら」にあったような記憶があります)ということなのか、とにかく「昨日」と「今日」とでは「気持ちの解放度」が「全く違う・・・」と、そんな風に感じております。

 

まだ「本題」に入ってない・・・w さて、やっとこ「本題」に入りましょう、ずばり!「人間は神ではありません!」とはどう言う事か・・・?といいますと。。。

 

<つづく!>

 

次回をお楽しみに~!!
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<今日の注目ニュースは以下↓>

【放送あと3回、ブログ旅で人気「ロケみつ」放送終了が決定】
http://natalie.mu/owarai/news/111431 
→本当は「佐村河内・・・」氏のニュースにしようかと思っていたけど、このニュースが飛び込んで来たから、こっちを取り上げるしかなかった。 「ロケみつ」・・・稲垣早希ちゃん、知ってます?私を「アニメオタク」開眼させた「張本人!!」。西日本ブログ旅のおしまいくらいから観なくなっちゃったけど、 それまでは「一生懸命」観てましたわ~、本もDVDも買いましたわ~、やっぱり「関西縦断」と「四国一周」が一番面白かったな・・・「西日本」の「ふり出しに戻る」辺りから、「ダレて」来て「マンネリ化」しちゃったのが残念・・・。

 

また「DVD」だと「権利関係(=番組本編はエヴァンゲリオンのBGMが『ふんだん』に使用されている)がクリアできない(=使用料が高いんだろうね)」らしく、本放送のクオリティが再現されてないのも残念だった・・・。それでも「企画」としては、もの凄く「面白い&新しい」ものだったし、また「良い意味」で「早希ちゃん」が「おバカ(=芸人さんへのものとしては「褒め言葉」)、でも一生懸命」なのが、余計に「好感」がもてた、面白い番組でした。「海外・・・」はさすがに「長期滞在経験者」としては、あまりに「痛すぎ」て観られなかったけど、長いことお疲れ様でした!

 

ところで、「早希ちゃん」は「もう30歳」になってるんではなかろうか・・・?と思ったけど、どうなんだろうか???と余計な心配をしてしまった(笑)、そして「女性」の「30」と言えば・・・ゴクリ(-_-;)

 


私ウソをついておりました・・・(-_-;)

2014-03-05 22:09:00 | 日記

こんばんは、かわぽーさんです(^^)v
えー、とりあえず「ごめんなさい・・・」、お休みは「3月2日」まで・・・のはずが「3月4日」までになってしまいました(T_T)

 

い、一応言い訳させて頂きますと、私だって「遊んでた」訳じゃないですよ・・・(-_-;) 3月1日提出の「卒業制作」のテーマ決定に頭を悩ませ、それが終った後は「ボランティア・ライター」として、参加することになったサイト向けの記事を書く為に「参考資料」をずっと視聴し続けたり・・・はい「アニメ」を観て「感想(でもないけど)」を書くだけの「簡単なお仕事」です・・・んなこたーない!!海外向けだから「英語」で記事を書かなければならないので、それなりに大変です!

 

どうしても「考える」もしくは「文章を書く」・・・のは「日本語」の方が「速い!」ので、記事を書くのには、まず「日本語」で書いて、それを「英語」に訳し直す・・・という方法を取っております。その英訳・・・に「手こずる」んですよねえ。。。

 

それがどういうことかと申しますと、さすがに私も30ウン年「日本語」を使っておりますので、それなりの「蓄積」がある訳で、それを「フル」に使って文章を書くと、なかなか「英語力」がそれに追いつかず、訳し直しに「四苦八苦」するハメになるというね・・・まあどうしようも無いんですけど、こればっかりは・・・(-_-;)

 

「英会話」を習い始めた頃(もう13年前になるのか・・・!)に、通っていた学校で教わりましたが、当時で20代半ばの「成人」が思考し発する「表現力」と、たかだか「中・高=6年」(大学の2年を入れると8年になるのか)程度の「実力」だと、ざっくり言っても「約20年弱」の開きがある訳です。そんな表現力(って言い方がダメなら「運用力」ね)に「開き」がある状態で英語を「話そう」としても「無理!」なのは・・・まあお分かりですよね。以前にも書きましたが、圧倒的にかけてる時間数が違うって言うお話です(^_^;)

 

と言っても、「やるしかない!」のも事実でしたので、なんとかやっつけましたよ、ええ、ええ、またしても「寝落ち」したその後にね・・・今朝、目が覚めたのは早朝5時くらいだったような気がします。。。今後も「週1」ペースで、記事を送ることになっているので、そっちは「落とさない」ように、頑張ります(笑)

 

ということで、再度更新再開しますのでよろしくお願いします!

 

次回もお楽しみに~!!
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<今日の注目ニュースは以下↓>

【「監督と意見が同じコーチは要らない」 異色対談 権藤博氏×エディー・ジョーンズ氏(後編)】
http://www.nikkei.com/article/DGXZZO67483880X20C14A2000000/
→権藤さんが、60年来の「ラグビーファン」だった・・・ということにまずビックリ!そして、ソニー創業の立役者・井深大さん、盛田昭夫さんの例を出して、指導論を語られているのに二度ビックリ!以前から、権藤さんの独特のスタイルに憧れていたが、野球以外のことも学んでいらっしゃるので、広いものの見方が出来るのかなと思いました。それにしてもエディー・ジョーンズさんもお母さんが「日系アメリカ人」でいらっしゃる・・・と日本にもご縁がある人だったのね、となんとなく嬉しくなった。だからなんだと言われればそれまでなのですが・・・。

【前編はこちら↓】
http://www.nikkei.com/article/DGXZZO67483510X20C14A2000000/