
「週刊朝日」。
1967年1月20日号(1月15日販売)
当時、定価60円。
特集記事は 「神々の島・久高 岡本太郎」。
カラーグラビアページには、太郎が撮影したイザイホーの写真が数点。
中面の特集記事では、久高島で、太郎が撮影したという白骨の写真。(モノクロ)
棺桶に横たわる白骨は、藍染の着物に髪の毛がはっきりとみえる姿。
大反響だった。
この週刊誌を片手に、大勢の観光客が久高島に訪れた。
当時は、ヴェトナム戦争&カウンターカルチャー真っ只中だ。
写真を撮ったり、平気でいじくり回す者はもちろん、風葬の場で放歌するもの、ヒッピー気取りで瞑想するもの、記念に持ち帰るものなど、やりたい放題だった。
そのことに島の人々が激怒して、後生(グソー)をコンクリートで固めてしまって今の形となった。
島の人々は、そんなモラルの無い観光客に対して激怒したのだという。
もちろん、その原因を作ったのは、ご本人なのだが。
実は、「週刊朝日」に掲載された白骨の写真人物とは、先代・久高ノロの親族の方だった。
家族に気のふれたものが出たとされるのは、もちろん、真っ赤なウソでたらめである。
これは、親族の方々にもすべて訊いて、確認したことだ。
池澤夏樹や、一部の人たちが得意になって、
岡本太郎をとんでもない人物として、久高島の後生(グソー)のことで吹聴しているが、
きちんと裏付けどころか、取材さえもしていないことがわかる。
ハッキリ言うが、
作家の分際でろくに調べもせず、悪い噂だけを強調して吹聴する輩は人間として最低である。
沖縄で、池澤夏樹の良い噂は一切聞いたことがない。
さて、
風葬には、段階があると記した。
最初に白骨と化すまでしばらく晒しておいて、その後、洗骨をする。
きれいに汚れを取り除いて、骨壺に納棺する。
その頃合いをみるために、棺桶の蓋は、まず家族があけて中を確認するのだ。
棺桶を開けて、親族みんなで骨を洗い、骨壺に納棺する。
久高島が最後となった儀式であるが、死者に対して愛情の籠った善き行いであったと思う。
1966年12月26日。
太郎たちが風葬の場に立ち入った日。
太郎が、勝手に棺桶を開けて、撮影したと吹聴されているが、
これも全くのデマであった。
後生(グソー)に入ってすぐは、骨壺だけがあった場所である。
いきなり、遺体がゴロゴロころがってるわけじゃない。
なんとこの場所には、太郎以外にマスコミなど10数人が入って島人に案内されていた。
太郎だけが勝手に入ったのではなく、1966年12月のイザイホーを取材に来た、
マスコミら10数人が、あらかじめ許可をもらって取材していたのだ。
その中のひとりが、太郎だった。
そのメンバーも、はっきりと記録にある。
画家の大城皓也・大嶺政寛・写真家の水島源晃・写真家の山田實・琉球新報社・琉球放送・沖縄タイムス社記者、その他研究者ら数名、共同通信社那覇支局長だった高橋氏、そして、岡本太郎と岡本敏子。
太郎が、当日に地元記者から、島に風葬の場、後生(グソー)があることを知らされたのは、
「沖縄文化論」(中公文庫)の記述にあるとおり。
それによると太郎に、「あそこ(グソー)に行ってみましたか?」と、声をかけた地元のある記者がいた。
そのある記者とは、沖縄タイムス記者のM氏である。
そのM氏は今もご健在で、本人から直接噺を訊いて確認をした事柄である。
彼らをグソーに案内した島の人物は、沖縄タイムスのM記者に促されてのことであり、あまり気が進まなかった様子だったという。
太郎がグソーに案内してほしいと懇願したわけではない。
実は、後生(グソー)の写真撮影も動画撮影も、みなに許可されていたのだ。
各者が撮影した写真はもちろん、当時の後生(グソー)の動画(16ミリモノクロフィルム)までもが遺っている。
だから、まとめると
「太郎が勝手に、後生(グソー)に入って撮影して親族に気のふれた人が出た」というのは、
全くのデマである。
そもそも撮影したものを、発表してはいけないという約束さえも無かったのだ。
実は、大問題となったのは、そこじゃない。
後生(グソー)の中でも、さらに奥の場所でのこと。
つまり、遺体が風雨にさらされていた場所だ。
そこにこそ、太郎と共同通信の記者(※)、2名だけが案内されて入ったのだ。 (※)後述
何度もいうが、太郎が勝手に後生(グソー)に入って撮影したのではない。
(また「フボー大御嶽:59年撮影」も、先代・久高ノロの長男に案内されたのであって、彼が勝手に入ったのではない。
沖縄文化論にもしっかり記述があるにも関わらず、いまだに太郎が勝手にフボー御嶽に入ったと決めつけられている)
案内した島人と太郎の間で、この後生(グソー)の奥が存在することがわかり、
それで太郎らだけがこの場所に行くことを、島人に懇願したのだろう。
案内した島人は気がすすまなかったはずだが、好奇心の塊である太郎に、
「どうしても」と、押し切られたかたちで案内したのではなかったか。
骨壺だけが散乱した手前の場所には、当時のマスコミらみなが許可されて撮影した。
撮影許可されてるのだから、もちろん発表してもよかった。
しかし、太郎らだけが入った、さらに奥の後生(グソー)だけは、別というわけだ。
この事実を知らないことが、この「後生事件」を後に出鱈目に伝えられている原因だと思う。
さらに、太郎が、勝手に棺桶の蓋を開けて撮影したという噂。
これも、デマである。
そこは、一緒に同行した写真家・山田實氏が証言している。
先述の沖縄タイムス元記者のM氏と、写真家・山田實氏。
そのおふたりから訊いた噺には非常に共通点が多い。
朽ち果てており、初めから中が丸見えの棺も多かったという。
もし、開けることがあるとすれば、それは案内した人の身内のものだけだろう。
太郎たちを案内した方が、亡くなった身内の棺桶を開けて見せたのだ。
理由は、ふたつ。
ひとつは、先述したとおり、のちに(親類一同で)洗骨の頃合いをみるため、予め家族が棺桶の中を確認する必要があるからだ。
(洗骨は、寅年もしくは羊年に行われる。イザイホーは、もちろん午年。つまり、島で最も聖なる大祭事の翌年は、最も穢れある儀式が行われていた。
また、洗骨の頃合いをみるというのは、万一お骨に肉片・髪の毛などが残っている場合に親族や家族でさえも気味のいいものではない。
だから、長男などがあらかじめ様子をみて、先にきれいに汚れを取り去り実際の洗骨を済ませておく。
そのあとで親族家族が集まり、正式に形ばかりの洗骨をするフリをするということ。)
ふたつ目は、案内した人が島の伝統をあえて公にすることで、島の発展を願う考えの持ち主であったからだ。(後述)
どういうことか?
太郎を案内した方とは、1959年と同じく先代・久高ノロの息子か、その長男か、或いは島の区長である。
大問題となった、週刊朝日に掲載された白骨写真とは、
棺桶も新しく、藍染の木綿の着物に纏った髪の毛が薄らと見えるもので、
まだ風雨に晒されて幾日も経過したという姿ではない、生々しいものだった..。
これは、その場で棺の蓋をあけて撮影したという証でもある。
太郎の写真に撮られた、その方とは、
先代・久高ノロの息子からみて、‘妹‘にあたる方の棺。
太郎を案内した方が、先代・久高ノロの孫(長男)ならば、‘叔母‘にあたる方のもの。
その方が、自分の身内の棺を開けて、太郎らにみせたのだ。
このとき、太郎のとなりにある人物がいた。
その人物とは、当時の共同通信社那覇支局長高橋氏。
太郎が島人を裏切って、勝手に撮影してしまい、週刊朝日に発表したことになっているが、
太郎と一緒に共同通信の高橋記者も、(週刊朝日の記者として)カメラ持参で撮影していたのだ。
奥の後生(グソー)で、太郎が撮影している姿(客観)を撮影できたのは、
もちろん、この高橋記者だけだ。
これは、どういうことか?
当時も、共同通信社那覇支局は、沖縄タイムス社の中に在った。
必然的に沖縄タイムスの連中とは好意に付き合いがあった。
だから、まず最初に沖縄タイムス記者M氏が太郎にグソーに行こうと声をかけ、
そのあとに共同通信社那覇支局長T氏がも、太郎と共にグソーの中に一緒にくっ付いていたのである。
当時、太郎と後生(グソー)に同行した、山田實氏(写真家)は、この共同通信社高橋氏が週刊朝日の記者だと
思っていたという。
沖縄タイムス 1966年12月27日掲載 太郎の左:共同通信那覇支局長高橋氏。
(すでに10年前に他界されている。)
この写真は沖縄タイムスのカメラマンが、グソーで撮影したもの
太郎の腕章には、「沖縄文化論」とある。
だが、不思議なのはこの写真のキャプション。
「週刊朝日特派員記者 岡本太郎(画家)」 とある。
ついでに(画家)と明記されて、よくまあ太郎は何も言わなかったもんだとも思うが、当時、久高島を取材するにあたって、
それぞれの所属を申請する必要があった。
なぜだか、画家・藝術家の肩書では許可されなかったようだ。
画家の大嶺政寛は「沖縄民芸協会長」としてるし、
同じく画家の大城皓也にいたっては、ただ住所を明記しているのみである。
ここで注目したいのは、沖縄タイムスからみたら、太郎は週刊朝日の記者であるということだ。
太郎は、朝日新聞として申請させられている。
なぜなら、
朝日新聞社・週刊朝日・沖縄タイムス社・共同通信社那覇支局。
これらは、深いつながりがあるからだ。
沖縄タイムス社は、元々朝日新聞社の記者(沖縄朝日新聞ー沖縄新報)だった豊平良顕が創刊した新聞社であり、
その2社に配信していたのが共同通信那覇支局である。
共同通信那覇支局は、沖縄タイムスを通して週刊朝日(当時朝日新聞社発刊)に写真を卸し、太郎の写真とともに掲載されるに至った。
朝日新聞ー沖縄タイムスー共同通信という順位で、3社は繋がりが深いからだ。
ほんとうに太郎本人が、太郎の意志で島人を裏切って週刊朝日に掲載したのか?
太郎ではなく、沖縄タイムスと共同通信が最初にきっかけをつくり、
その結果として、週刊朝日(朝日新聞社側)が島人との約束を破った可能性もあるのではないか?
つまり、太郎を利用したのではなかったか?
当時、1966年の週刊朝日では、「太郎の眼」というコラムを1年間に渡って掲載していた。
その締めくくりが、この特集記事 「神々の島・久高 岡本太郎」だった。
太郎とツーカーな仲だった記者から見れば、太郎を囃し立て、後生(グソー)写真を発表させることなど朝飯前のこと。
当時の週刊朝日の編集長は、牧田茂氏。彼は、後に民俗学者になった人物である。
そんな人物が当時の編集長であったことにも注目されるべきである。
当時の新聞記者は政治部が花形、以下、社会部その他で、最低なのが文芸部。その更に下なのが週刊誌出向であった。つまり、左遷扱いだった。
その牧田編集長が擁する週刊朝日側からみれば、久高島・イザイホー取材は記者としてのプライドを取り戻す謂わば必須中の必須であり、
しかもすでに評価の高かった太郎の「沖縄文化論(‘59)」に続編(’66)として掲載される予定の記事や後生写真を、
いち早く自分たちの週刊朝日で大々的にすっぱ抜いて発表してやろうとしたことは、彼らからみれば当然のことであった。
どちらにしても、後生(グソー)の白骨写真は、週刊朝日にとっても大スクープであり、どうしても掲載したかった。
なにしろ、1966年12月26日~30日まで滞在して取材したものを、1967年1月11日発売(20日号)に掲載しているのだ。
グラビアカラー数ページと、特集記事(モノクロ写真数点添付)数ページ。問題の写真は、特集記事のモノクロ写真で掲載。
この時代の入稿・校正・版下制作・印刷・全国への配本と、スケジュールを逆算すると、まず、正月休みは取れ無かったはずだ。
通常雑誌は、年内に新年号製本をし、その次号までは最低でも印刷済みとし、次々号さえも校了させておくものである。
週刊朝日側は、正月返上してでもという意気込みであり、この特集記事に固執していた証だともいえる。
前述したように、当時の週刊朝日は本社朝日新聞記者からみて左遷扱いであり、ブンヤ崩れとしてずっと下にみられていた。
そんなブンヤ崩れのレッテルを払拭し、記者のプライドを呼び戻せる絶好の取材ネタでもあったのだろう。
しかし、
そんなプライドが、卑小な勘違いを生むときがある。
太郎の死後から6年後ー。
2002年8月17日。
那覇市パレット久茂地で、あるシンポジウムが行われた。
「岡本太郎生誕90周年」。
このときに、この後生(グソー事件)のことが話にあがった。
一方的に太郎を責めたてるパネリスト達に対し、
岡本敏子は、客席から
「太郎は、他人の棺桶の蓋をあけることなどしてません!」
と、かなり激昂したという記録がある。
つまり、キレたという。
あの温和そうな、岡本敏子がである。
沖縄タイムス 2002年8月18日
琉球新報 2002年8月27日
よく考えてみてほしい。
そもそも沖縄タイムスも琉球新報も、太郎と一緒に後生(グソー)に入っておいて
その経緯を知っておきながら、なぜ太郎だけに全責任を押し付けるような記事が書けるのか?
シンポジウムで太郎を擁護する意見もあるにはあったようだが、敏子が客席から叫びだすほどに否定的な意見が飛び交い、
琉球新報にいたっては、「外来者は禁忌を侵す」と徹底して排他的に決めつけた記事を掲載している。
なんどもいうが琉球新報も太郎と一緒にグソーに入り、その写真も撮影しているのにである。
なぜ、パネリストに、どうでもいい無難な人物たち、フリージャナリストや大学教授、博物館館長などが
選ばれていたのか?
本来ならばこのシンポジウムの席に、太郎と一緒に後生(グソー)に入った山田實氏や共同通信社高橋氏、
そして太郎を後生(グソー)へとわざわざ誘った沖縄タイムスの元記者M氏を参加させて、
岡本太郎の後生(グソー)事件の真相を噺するべきだったのではないのか?
特に沖縄タイムスは、太郎のグソー写真が載った経緯や理由も十分過ぎるほどに説明出来たはずである。
しかも驚くことに、このシンポジウムの主催は、なんと沖縄タイムス社である。
まあ確かに40年ほど前のこと(当時)ではあるが、更にとんでもない記事がある。
沖縄タイムス 1966年12月29日掲載
久高島現地座談会。
沖縄タイムスの元記者M氏は、太郎と共に後生(グソー)に入った翌日に自分が司会する座長となり、
「久高島現地座談会」(太郎中心に民俗学者ら2名)なるものを開催し、見開き2ページにわたって
大きくトップ扱いで掲載していた。
太郎を後生(グソー)に誘い、一緒に後生(グソー)に入って取材をして、そして現地で座談会までもしておきながら、
なぜ、太郎に全責任を押し付け、自分たちはまったく知らない無関係者のように振舞うことが出来るのか?
新聞社の古い体質依存からくる東電と同質の「卑小なプライド」がそうさせるのか、
はたまた厚く持て成しながらも追っぱらう「面従腹背」の悲しい歴史が培った沖縄人の性根からくるものなのか。。
何故か沖縄は、このようなことが度々起こる実に摩訶不可思議な島なのだ。
しかし、
私はそれを告発がしたいわけじゃない。
沖縄の新聞社なんぞ批判したところで、いったいなんになる?
せいぜい、沖縄の新聞社を叩きたくて擦り寄ってくるエセ右翼どものネタにされるのが関の山だ。
「みなさん!実は太郎は悪くなかったんですヨ!」と、単純に擁護したいだけとも違う。
では、なにがいいたいのか。
太郎の後生(グソー)事件のもっと奥にあるもの。
そこに在るものとは、いったいなんだったのか?
そこを見極めてみたい。
そもそも、
太郎が沖縄にきた目的とは何だったのか?
太郎は、
「悠久の過去から未来にわたる因果の中で、沖縄人の生命の本質がどう運命と対決したかを見極めたい」
としている。
確かに民族学を学んだ太郎らしいとも思うが、そこは最終目的ではなかった。
では、太郎の本当の目的とはなんだったのか?
「自分自身を確かめる(再発見する)こと」。
それが、太郎が沖縄に来た真の目的であった・・。
そのとき、どうしても気になると同時に心に引っ掛かりを覚えることは、
太郎が撮影した先代・久高ノロとその家族のことである。
先代・久高ノロの息子は、
戦後、すでに島の衰退を予感していた。
島の神女になる厳格な掟は、もはや時代に即していないことを悟っていた。
いつまでも島の神事を非公開にし、盲目的に掟に従っているだけでは、神事そのものが出来なくなり、
やがて島自体が衰退すると、いち早く見抜いていた。
この息子は、師範学校卒業のエリートで島一番の博学者でもあった。
母親の世代とは違う、近代的な教育を受けてきた人だった。
あえて島の行事を公にすることで、今後の島の繁栄を願う考えの持ち主であった。
なにより、無理やり島の男と結婚させられる同世代の女の悲劇をみてきた人でもあった。
有名な島の厳格な掟とは、
①島で生まれ②島で育ち③島の男と結婚すること④結婚後も島に住み続けていくこと。
許嫁の島の男が好きになれずに、御嶽に逃げ込んだある女性がいた。
先代の外間ノロの長女である。(Macbaatyann)
本来なら率先して島の掟に従う立場にある女性でも、そんなことがあるほど昔は厳しかった。
その長女と、この先代・久高ノロの長男(Matsuo)とは同世代であり、子どもの頃から共に島で成長してきた者同志。
久高ノロの長男と外間ノロの長女。同じような境遇を背負った者同志で共鳴するところが多分にあったと思う。
もしかしたら、仄かに恋心が芽生えていたとしてもおかしくはない。
ところが、久高ノロの長男と外間ノロの長女が恋に落ちることなど、島で絶対にあってはならぬこと。
もしそんなことがあったら、ふたりは必ず引き裂かれる運命にあった。
共に成長してきた島の女性たちの悲劇には、たまらない気持ちがあったのだろう。
だからこそ、この息子は島の神女になる厳格な掟は、もはや時代に即していないことを強く訴えてきたのだった。
また、学校・就職口を探すにしても、島の外に出なければ到底無理であった。
(※映画「イザイホウ:1966年」では、この息子がナレーションを担当している。沖縄公文書館で無料で観れる。ぜひ、観てほしい)
対して、母親の先代・久高ノロ(1961年:91歳没)は、島の神事は見世物じゃないという確固たる考えだった。
興味本位だけで島の神事を取材しようとする輩は、徹底して排除してきた。
しかも先代・久高ノロの時代は、島の神事の黄金期でもあった。
そのため、息子から「このままでは島自体が衰退する」と言われても、全く取り合わなかったのだろう。
(この息子は、1959年に太郎が初めて来島したときに「フボー大御嶽」に案内して、大御嶽の中に入って撮影させている。
このときは、母親である、先代・久高ノロが許可してるわけがないから、カンカンに怒らせてしまい、かなりやり合ったのだろう。)
だから、息子と、母親の久高ノロとは相当な対立があった。
(先代・久高ノロの子供たちは、男ひとりに女5人の6人兄弟)。
この息子と、先代・久高ノロとの対立は、単なる親子喧嘩でなく、もっと以前からだったようだ。
島の古老によると、
戦時中、島の防空壕があった中央部の小高い杜(今の交流館がある場所から北へ約200m・通称キジムナーの杜)で、
防空壕で、母親の先代・久高ノロと、息子があることで激しい口論となった。 怒った久高ノロは、防空壕から出て行ってしまった。
その後、集落を歩いていると、アメリカ兵に見つかってしまったという。
だが、煙草と食べ物を貰って気を良くしたノロばあちゃん、
みんなにも食べ物を分けてあげようと、アメリカ兵を島の防空壕に案内してしまった・・。
もちろん、その後は、みな無事であったのだが、
ノロばあちゃんの堂々とした態度には、アメリカ兵らも一目置いたという。
戦時中に拘らず、そんな事件があったことを笑い噺として、島の古老は教えてくれた。
どちらにしても、先代・久高ノロも、その息子も、島を想う気持ちが強くあればこそのことだった。
そんな時代の端境期に、岡本太郎は久高島にやってきたのだ。
太郎が2回目に来沖した、1966年12月26日。
久高島のイザイホーを取材撮影したときには、
島を仕切っていた先代・久高ノロは5年前に亡くなり、その息子が島の伝統を伝承すべく活躍していた。
(最後の久高ノロは、この息子の嫁が引き継いだ。新しい外間ノロも、嫁継ぎとなって太郎の写真に納まっている)
その一環として、島の新リーダーとなった長男が、イザイホーを太郎やマスコミらに公開していたという訳だ。
だから、先代・久高ノロの時代までは、グソーはもちろん、イザイホーまでもが詳しい撮影記録にない。
正式に記録されたのは、1966年のイザイホーからである。(または、先代・久高ノロ没後1961年~)
※厳密にいうと戦前には、柳田国男・折口信夫(しのぶ)・鳥越憲三郎・湧上元雄らが来島し、取材・撮影している。
しかし、その内容は所謂民俗学主流としての内容であり(「琉球宗教史の研究」:鳥越憲三郎著のような名著もある)、
当時、折口信夫が撮影した久高ノロに就任したばかりの先代・久高ノロの貴重な写真があるが、
イザイホーのときのノロの衣装に扮した写真であった。
この写真から36年後。岡本太郎が、同じ久高ノロ(先代)を撮影した。
その写真が、写真集「岡本太郎の沖縄」の表紙のばあちゃんだ。
ところで、なぜ、
久高島の写真掲載の件で、
非難されても、太郎・敏子はなぜずっと黙っていたのだろうか?
いくらでもその経緯を話して、反論できたはずだ。
だが、もし太郎たちを後生(グソー)に案内をして、原因をつくったのが久高ノロの家族(或いは区長)であると知れたなら、
彼らやその家族が島民から責め立てられてしまう。
久高ノロ家(或いは区長)が島から追い出されるともなれば、島の大祭神事も出来ずに、大変なことになる。
それは、島の名誉にも係わる。
つまり、恥になってしまう。
だが、島としては彼らに矛先を向けないようにするのであれば、同時に誰かに責任をとらせなければ収まらない。(云ってる意味が分かるだろうか?)
岡本太郎・敏子は、そのことも分かっていたのではないか。
だからあえて、なにも明言しなかったのではないだろうか。
ただ、原因をつくってしまったのは太郎ではあるが・・。
とにもかくにも、これが岡本太郎の久高島・後生(グソー)事件の真相である。
「人は誤解を恐れる。だが、本当に生きる者は当然誤解される。
誤解される分量に応じて、強く豊かなのだ。」 ― 太郎
1959年。
ウシばあちゃん(先代の久高ノロ)は、岡本太郎に自分の写真を撮らせているが、どれも厳しい顔つきばかりだった。
ナイチャーの訳のわからん芸術家など相手にしてなかった。
しかし...。
その最後の1枚が、この写真であった。
しわくちゃだけど、瞳がうつくしい。
心を見透かされるような、まなざし..。
この先代・久高ノロの、お孫さん兄弟(83歳/78歳)のおふたりに訊くと、
「この顔は、(おばあさんが)岡本太郎先生を最後に受け入れた顔だと思います」という。
「受け入れなければ、こんな表情は絶対にしない」と。
ふたりのお孫さんたちは口をそろえて、私にそう言った。
発表された、後生(グソー)の白骨の写真は、このお孫さんたちからみれば、‘叔母さん‘にあたるひと。
太郎に対して、訝しい気持ちがありながらも、
「岡本太郎先生」と呼んでいるところに、何か複雑な心情も伺える。
お孫さんは、私にこうも言った。
「昔は、どう生きるかだったんですよ。でも、今はどう生活するか、じゃないですか・・。」
このおばあさんは、島の人達にも、めったに笑顔を見せたことがなかったという。
強いリーダーとして尊厳を集めながらも、島の神女たちには「こわいノロさん」として有名な人だった。
なにしろ、神事に参加しないで畑にいた神女には、石を投げつけて怒ったという。
あだ名は、「乃木大将」。
実は、この写真の先代・久高ノロのばあちゃんは、
大正10年の春に、先々代・久高ノロであった姑から久高ノロを引き継いだ。
数百年続く島の祭主が、娘継ぎでなく、嫁継ぎとなった最初のノロなのだ。
(ライバルの先代・外間ノロは、まだ当時娘継ぎのノロであり、琉球王朝からの直系の系譜であり、先代・久高ノロの大先輩にあたる。 あの、西銘シズさんを見込んだ人物で”ノロ中のノロ”とよばれていた逸材であった)
しかし、この久高ノロのばあちゃんは、クニチャサで有名な大里家の血筋のひと。
大里家(ウプラトゥ)は、久高根人であり、元々ノロであったのだが、
琉球王朝第一尚氏最期の王、尚徳王と大里家のノロ・クニチャサが恋仲になり、
第二尚氏に王位を奪われたと知って、二人とも海の藻屑となった。
その後大里家はノロの身分をはく奪され、新たに首里から指名を受けた外間ノロが就任した。
南北朝時代、15世紀の後半のことである。
このばあちゃんは、その大里家直系であり、クニチャサから数えて実に450年ぶり!に嫁継ぎになったがゆえに奇跡的にノロに復活した人物なのだ。
だから、「嫁にノロは務まらんさ」「他人じゃだめさ」と島で噂されないように、
外間ノロのライバルにも負けないように、
そして、450年ぶりに名誉挽回した大里家直系ノロとして、
いつも気を張って、久高ノロをしっかり務めようと、自分にも島の女にも息子にも厳しく接してきた。
女としての意地もあった。
それが、「笑顔を見たことがない」「恐いノロさん」と、島人から噂された所以だったのだ。
でも、それだけではない。
この先代・久高ノロが存命中に、長男の長男、つまり宗家の孫が結婚している。
本来ならば、この孫の嫁が久高ノロを継ぐ。
ところが、その嫁は久高島の外から迎えていた。教師同士の結婚だったが島の女ではない。
つまり、その時点で久高ノロを誰も継ぐことは出来ないのである。
そのことを、この先代・久高ノロはすでに知っていた人なのだ。
おそらく先述した息子の後押しがあったのだろう。
息子や孫や家族と、どんな話し合いが凭れたかまではわからない。
しかし、やがて消えゆくことを認めたくはないが、その一方で、
いつかは受け入れなければならないことも分かっていたのではないだろうか。
自分の次の代で、数百年以上続いた久高ノロの世襲制度も、
そしてあのイザイホーの大祭もなにもかもが終焉することを既に知っていた、
最初で最後の久高ノロでもあった…。
そのときの表情が、あの一枚の写真なのだ。
そんな時代の移りゆく端境期に、岡本太郎は久高ノロと出逢った。
そして、太郎だけがいつも厳しい顔だったこのおばあさんの
真の表情‘すっぴん‘を撮影することができたのだった。
島の人もめったに見たことのない、「久高ノロの素顔」。
太郎だけが、撮影できたのだ。
久高ノロは、柳田國男や折口信夫でさえ近づけることを許さなかった。
なのになぜ、久高ノロは岡本太郎だけを受け入れたのだろうか?
この久高ノロの美しい瞳。
その瞳の中をよく覗きこんでみると、微かに太郎と敏子が映りこんでいる。
旧久高殿の縁側で撮影した写真であることが分かる。
「太郎さんはね。沖縄で自分自身と出逢ったのよ。
そう。再発見といってもいい。だから、うれしかったのよ。」 ―岡本敏子
太郎は、沖縄に溶け込んでいった。
この久高のろの瞳を見つめていると、時間と空間を超えて
静かに波紋が揺れては消える水鏡のように、
どこかで私たちのこころの奥底に繋がっているかのようにも想える。
私たちもまた、太郎と同様にこの写真に溶け込んでいくように。
太郎が沖縄で出逢ったものとは、 なんだったのだろう。
それは、もしかすると私たち自身が自分自身を見つめることでもあり、
水鏡に映った影ではなく、生まれてきた意味の本質そのものに触れることを促す真のまなざしのようなものなのか・・。
しわくちゃだけど、
その美しい瞳は、
まるで、
当時の沖縄そのもの、
だったかのように思える。
貧しかったけど、豊かで
美しい、当時のおきなわ..。
知らないのに、 なぜだか、
とても、心になつかしい...。
それを、遺してくれたことの方が、
ずっと、大事なこと。
私は、
そう思う。
そんなことがあったからが、私のSNSでフォロワーの方が着ブログのこの記事を紹介してくれました。
非常に面白く、興味深く拝読できたことを感謝し、お礼を申し上げます。
興味深く読ませていただきました。
風葬についてのwikipediaでこの事件の話をちらと知って、それまでは全く知らなかったのですが、なぜ岡本さんはそんなことをしたのだろう?という疑問からこちらにたどり着きました。
報道側、岡本さん、案内した方、それぞれの立場がどうだったのか、手がかりを知ることができて良かったです。知らなければ、誤解に基づいた枠で岡本さんをを見ることになっていたでしょうから。
奄美の方なのですね。
必ず訪れたいと思っていた場所です。
直接連絡したいことがあるのですが、そういった窓口はありますか?
ご連絡ありがとうございます。
どのような案件でしたでしょう?
お伝え頂ければ対応致します。
私は久高島のことについて、島に何回か滞在し文章を書き残しているものです。このいわゆる事件として扱われる事柄に違和感を覚えていたところがあり、私自身もわずかながら島民に取材をしました。
ここで書かれていることは非常に興味深く、共感を覚えました。つきました、私が書いているもの中で、この記事に触れさせていただきたいと思うところがありました。
その中で、やはりデリケートな問題であると同時に、私自身の書いているもの、そして素性も明かさなければいけないという思いもあり、直接連絡を取らせていただければと思い書き残しました。
よろしくお願いいたします!
大変興味深い文章でした。この様な素敵な記事を書いて下さり、誠に有難うございます。
ありがとうございます。
他の方も書かれている通り死者の尊厳と島の風習としての葬送儀礼など余所者がアプローチするにはとてもデリケートな問題なので島の方にどう話を伺うか悩んでおりました。
まずは明日国会図書館にて週刊朝日1967年1月20日号を閲覧し予備知識を深めようと思います。
伊波普猷の南島の葬制などの文献を読むだけではなく現地に赴き話を伺わなければ何も判りませんですし。
取り敢えず、現地に赴く前に何か書き残したほうがよいかと思いこのような駄文を書かせて頂きました。
長文、失礼致しました。