
(撮影:山田實1959年)
岡本太郎は、
久高島である事件を起こしている。
「後生(グソー)事件」。
事件というわけではないが、便宜上そう呼ばれている。
グソーとは、死者の世界の意味。
当時、島では風葬が行われていて、島の西側に面する一定の土地がその場所であった。
太郎が島の人との約束を破り、その写真を週刊誌に出してしまった、というもの。
たいていは、「太郎は酷いやつ!」
などのレッテルが張られてるが、本当にそうなのか?
どういうことがあったのか?
私は、真実が知りたい。
だから、じっくり取材した。
まず、太郎が撮影した写真と、それを掲載した雑誌の確認。
1967年1月20日号:週刊朝日(当時は、朝日新聞社発刊)
タイトル:「神秘の島 久高島」
内容は、カラーグラビアがイザイホー写真(1966年)
モノクロの記事が、タイトル通りの記載。
本文内容は、「沖縄文化論」のイザイホーの件がそのまま掲載されている。
問題は、文章と共に掲載された写真(モノクロ)である。
棺桶のふたが開けられ、中には絣か木綿の模様付の着物に纏った、女性の白骨写真。
棺桶や様子から推測すると、かなり新しい。まだ、髪の毛がうっすらと残っているようにも見える。
なぜ、この写真を撮影できたのか?
太郎と一緒に同行した人の話を聞いた。
写真家:山田實さん(94歳)。
この人は本当に謙虚な方で、自分よりも太郎の写真の腕前を褒め称える。
写真家としては、他の大家(土門・木村・東松・比嘉ら)の陰になり地味な存在だが、間違いなく巨匠である。
「(後生には)10数人くらいが同行した。琉球新報・沖縄タイムス・琉球放送・写真家の水島源晃・画家の大城皓也さんら」
なんと意外にも、みんなでグソーを見学して撮影する手筈になっていたという。
このことからも太郎が勝手にグソーを撮影したとされることは、事実無根である。
全員が案内されて、その中のひとりだった。
誰が言い出したのかは解らないらしいが、太郎の「沖縄文化論」によると、地元記者に誘われたとなっている。
琉球新報か、沖縄タイムスのどちらかしかない。
その記者は、あらかじめ参加する予定だったのだろう。
さて、後生(グソー)に入って、いきなり白骨が放置してあるわけではないらしい。
手前には、骨壺が散在している場所があったという。
ほとんどの記者・写真家らは、ここで撮影して引き返している。
実は、太郎たちのみが、後生(グソー)のさらに奥に行ったのだという。
後生(グソー)のさらに奥とは、遺体が晒してある場所だ。
風葬には段階があり、まず白骨化させて、そのあとに洗骨をして、そして骨壺に納棺する。
同行した記者たち10名が見たのは、納棺された後の姿のみである。
太郎たちだけが、白骨化する手前の段階を覗いて、撮影したことになる。
太郎たち、というのは、岡本太郎と週刊朝日{共同通信}記者の2名をさす。
ここで疑問がある。
どうして、太郎たちだけが、奥の後生(グソー)に入れたのか?
一体、だれが案内したのだろうか?
案内がなければ、さらに奥にも行けないし、奥にそれがあるということも分からないはずだ。
しっかりと、取材して探ってみたら、
とんでもない真実がわかった。
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