傍聴席から

桜子の同行記

桜子の伯父より

2006年08月20日 | Weblog
地域の温かさに混ぜてもらえたら

――大学を卒業したら教職に就くのか、新聞社にはいるのかと思っていた―― 

 加藤木照公(日本芸能・和力事務所

 わたしの姪に桜子ちゃんがいる。

わたしとは一回り以上も年の離れた末弟・雅義の一人娘である。
 わたしは遠く秋田のわらび座という劇団に23才から45才までいたから、幼い頃の桜子ちゃんを知らないで過ごしてきた。

 わらび座を退座してわたしが市民生活に入ったころの10年前、わたしの母親がスーパーで買い物中に転倒し骨折して松戸市内の病院に入院していた。そのとき弟の家族3人で見舞いにきてくれたことがある。そのとき桜子ちゃんは中学生くらいであった。

 わたしが母親の見舞いを終えて外に出たら3人と出くわしたのだった。桜子ちゃんをじっくり見たのはこのときが初めてであったように思う。


 弟の一家は、居住地が遠いせいもあってあまり行き来はなかったから、桜子ちゃんを見かけることが少なく、そんなときにしか会えなかった。

 桜子ちゃんが、朝日新聞の「声欄」に投稿した記事を、わたしはたまたま手にした新聞で何気なく読んだ。
知らずに加藤木という活字に目がいった。めったにある苗字ではない。そこには「加藤木桜子」と記されてあったのだ。
 朝日新聞に採用されるなんて並大抵のことではない。大騒ぎをして親戚中に連絡を取った。病気療養をしている母親のことを書いていた…と思う。

 弟の妻、桜子ちゃんのお母さんが病気療養中だったことも、彼女がK大学という東京の著名な大学に在学しているのもこのとき初めて知った。

 その後、桜子ちゃんのお母さんの葬儀で会ったが、それからしばらくは会う機会に恵まれなかった。

 文学部の桜子ちゃんは「卒業論文」に元ハンセン病作家のFさんの作品を取り上げた。その論文が別の全国紙から取材を受け、文化欄の一面を使って大きく掲載された。わたしの愛読する新聞だったのでそのときもたまたま知らずに驚いて読んだ。

 大学を卒業したら教職に就くのか、新聞社にはいるのか、あるいはどんな大手会社に行くのだろうと思っていた。ところが福祉の勉強をするために、専門学校に入り直したという。
「あしがらさん」というホームレスのおじさんを主人公とする、ドキュメント映画の上映運動をこの福祉の学生時代に中心となって取組んだ。

 やがて「社会福祉士」の資格をとり、卒業と同時に新宿の小さなNPO法人へ勤め出したのである。

 わたしにはひとりの息子がいる。桜子ちゃんとは従兄妹の間柄だ。
日本芸能の和力という集団を主宰していて、舞台で和太鼓や舞などをして生業としている。その和力が初めての東京進出として今年のゴールデンウイークに吉祥寺公演を仕掛けた。仕掛けたのはわたしだったのだが……。

 そのときには彼女はサポーターとして協力してくれた。
 公演は当初、ゴールデンウイークの中日である5月4日の祝日公演の計画だけだった。吉祥寺には初めての進出で、準備するわたしの側に観客動員にたいする少しの不安があったためだ。最悪でも以前から和力を親しんでくれるお各様に足を運んでいただければよいだろうと、考えていた。
 そのために、4日の公演は午後4時開演と設定された。遠方の方が帰りやすい時間を選んだのだった。

桜子ちゃんが20代の半ばになって、わたしとつよい接点ができた

 そういう考えに異議を唱えたのが桜子ちゃんだった。
 昔からの和力ファンを呼び込むのだったら、何も吉祥寺ですることはないのではないか。地元でお勤めをしているような人たちに見てもらって初めて公演が成功ということになるのではないのか、と言われたのだった。

 それに励まされて5月8日(月)、平日の公演が追加された。
結果的に、この日も大入りになり成功したのだった。桜子ちゃんの提言がなければ、小規模の公演におわってしまうところだった。

 このときに桜子ちゃんが20代の半ばになって、ようやくだったがわたしとつよい接点ができたのだった。

 桜子ちゃんと向き合ってはじめて話ができたのは、それからさかのぼる4ヶ月前に、地下鉄早稲田の改札口で弟と共に待ち合わせしたときである。和力公演の打ち合わせのために会った。

 細身の身体であり、腕なども華奢(きゃしゃ)である。わたしの家系はどちらかというと「堅肥り」の傾向がある。そういう先入観でみるからその体形の細さにびっくりしたものだった。
 聞けば高校時代は和太鼓をやり、大学時代にはダンス部に所属していたというから、健康で活発に過ごして来たにちがいない。……でも細い。
 人の話しをじっくりと聞く。こちら側がゆったりと話せる雰囲気をもっているというのが最初に会っての印象だった。

 思いもかけない転身宣言に、私たちは息を呑んだ

 その彼女が、人と人を結びつけるコーディネーターになりたいと今の職を辞したと聞いたのは、吉祥寺公演の準備の真っ最中である今年の3月のことだった。
 一つの職場だと接する人に限りがある。
 福祉を必要としている人はたくさんいる。それには自分が政治の世界で活動するのがよいのではないかと思ったのだという。前から勧めてくれる人もいて有名政党の練馬区での区議公募候補になった。

 思いもかけない転身宣言に、父親である弟を含め私たちは息を呑んだ。こんな細い体で田中真紀子さんのように振舞えるのか、と。

 そのとき、桜子ちゃんは福祉を必要とする人たちの輪をつなぎあいながら、行政に結びつけていく事をライフワークにしたいという決意を口にしたのだ。
 自分の専門を活かして世のために身を挺して生涯を賭ける。それは目的をもった生き方ではないか。20代の半ばで自分の指針が明確になる生き方は羨ましいとわたしはようやく思った。

 すでに来年4月の本番にむけて、今年6月からその準備に入っている。

 練馬区には最近になって移り住むようになった。公募での候補だから俗にいう「落下傘」。彼女にはなにも足がかりがない地域である。これまでの活動から、後押しをしてくれる人がいるけれど、地元には友人・知人はいない。

 桜子ちゃんの最新のブログを読んだ。

「わたしは転居が多かったから、ふるさとと呼べるところはない。練馬に移ってきて駅頭で話をしていると、『資料をください』と声を掛けてくれる人がいる。あるいは盆踊りなどで話し込んだりする人も出てきている。いろいろな人との繋がりができて、この土地で将来につながっていくような思いがする」という主旨のことを書いている。

 知らない土地に降りたって、自らの少しづつの行動で、人々との繋がりをつくっていくことをわたしはかつて所属したわらび座の営業で数多く経験してきた。営業というのは、数ヶ月前に公演予定地を先乗りして公演準備、観客動員をするのが役割りだった。
「わたしはこの土地でなにができるのだろうか。はたして人々との関係が築けるのか」。あのときわたしの心には高揚と同時に不安が交錯したものだ。

 桜子ちゃんは一歩踏み出した。
実践のなかで人々との繋がりが少しずつ深まっていく。
「この土地でこの人たちと将来に亘って手を携えていきたい」とそのブログで言っている。
なにもない所から形あるものに作り上げていくのは、わらび座の営業時代のわたしたちと同じであるが、根本的にちがうものがある。

 それは、わたしたちは一つの興行がおわるとその土地を去って行く者であった。
桜子ちゃんは「未来永劫にこの土地の人々と共に」切り拓いていく事にある。ブログでは次のように言っている。
「職種など、属性を超えて、どんな形であれずっと練馬の大泉学園に根をおろして、福祉の活動をしていき、少しずつ地域の中の温かさに私も混ぜてもらえたら嬉しなあ、と思います」

 若き知性の未来に幸多かれと願う。

(かとうぎてるまさ 桜子の伯父・和力のブログより 06.07)

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