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傍聴席から

桜子の同行記

選挙カー同乗記2

2007年05月04日 | Weblog
町の人を好きになる旅だった

桜子は、母親を19の歳に病気で亡くしています。

化粧映えがしないのは、亡くなったその母親も同じでした。
下地をつくり、目張りをして口紅をつけても、いつも、取って付けたような顔しかできあがりません。

 時間がかかる割に労力に見合わないのでしょう。
桜子の母親も早いうちから化粧をするのをあきらめていた気配があります。あの当時、「すっぴんですね」と友人からよく声をかけられていました。
 それにどんな意味があるのか、わたしには当時はわかりませんでした。

 ずっと以前に、わたしは桜子に化粧のことを聞いたことがあります。そうしたら母親と同じことをいうのです。

「化粧水をばっとつけて、鼻毛が出ていないか鏡を見ておわり」。

告示日の朝。

 スーツで決めた桜子は、薄化粧をして選挙事務所に現れます。
 化粧をしているから、わたしには、いつもより何だか顔色が白っぽく見えます。見慣れないせいなのかもしれません。

桜子の元々の顔立ちは、ちょっと下ぶくれ傾向にあります。そこに白い化粧。

わたしは後ろの肩口から、桜子の横顔を見ていましたけれど、本人には申し訳ありませんが、大福餅が白い粉を吹いているのを想像していました。

事務所で待ちかまえていた、野上事務所の美人秘書さんが、ハンカチーフを桜子の首に小粋に巻いてくれます。
手馴れた方にちょっと手を入れていただくだけで、見違えるような出で立ちになってしまうのが不思議です。
 クビ元だけを見ると、リカちゃん人形のようです。しかし、ちょっと目を上げると、大福餅。



(出陣する選挙カー)


ボランティアスタッフに見送られて、選挙カーの出陣です。
選挙カーの中から、音量をあげて呼びかけます。

和力という日本芸能のビデオがHPに掲載されていますが、そこで演じている加藤木朗の発声はすごいものがあります。声だけで見ているものを引きつける魅力があるのです。それが芸の力なのでしょう。
加藤木朗は桜子の従兄弟にあたります。

桜子は民主党の公募試験の時に、声のか細さを審査員の方から懸念されていました。発声は政治家の命です。そのことは当人も充分、承知しています。
「もし、練馬区議選に落選してしまったら……」と桜子がわたしに言ったことがあります。
「どうするの?」とわたし。
「落選したら、朗さんの和力に入れてもらって、発声の修行をしようかと思っている」。

10ヶ月前から始めた活動は、朝の駅頭演説からとりかかりました。
桜子は、毎日駅で声を張り上げることで、発声がたくましくなり、それに平行して病弱だった体が丈夫になってしまったのです。
これが、選挙に出ることになって、一番、良かったことではないかとわたしは思っています。

「こちらは民主党公認・かとうぎ桜子です」という目白通りからの第一声は、以前のか弱さとは様変わりしています。

今まで選挙と関係ない生活をしていたようなお母さんに手を振られると、とても嬉しい

日曜のお昼前。

ちょっと風が冷たいのが気になりますが、天気は良好です。
学園通りに出ると、道行くみなさんがこちらの呼びかけに応えて手を振ってくれます。
こんな無名の候補者なのに、温かい声援をくれます。

「手を振ってくれても、それが票に結びつくと思っちゃダメだよ」とわれわれは前もって民主党関係者に注意を受けていました。

それにしても、です。
道で手を振ってくださる方たちは温かい笑顔なのです。かりに票にならなくてもそれで充分です。

選挙カーが角を曲がろうとしたとき、その先に年配の男性が立っていました。
手をあげて髪の毛をいじっているようですが、手を振っているようにも見えます。
選挙カーが男性を通り過ぎていきます。
桜子が気になって振り返ると、今度は選挙カーにむけて思い切り手を振っているのがみえます。面とむかっては恥ずかしかったのかもしれません。

自転車の前部座席に1歳くらいお子さんが乗っています。お父さんがそばに立っていて、その子の手を取ってそれを振ってくれています。
当たり前ですが、当人は小さすぎてあらぬ方向へ目を向けているだけです。

「小さな子供さんを自転車に乗せた若いお母さんがいるでしょ。今まで選挙と関係ない生活をしていたような方。そんなお母さんに手を振られると、とても嬉しい」と助手席で桜子が感想を述べます。

「今までのことを考えたら、こうして車に座ってマイクでしゃべっているだけだからすごい楽」とまたしても言います。

彼女がずっと続けていた駅頭演説というのは、朝の早い時間から準備を始めなければなりません。
化粧に時間をかけないまでも、起きたらシャワーを浴びて髪の毛を整えたい気持ちはわかります。少ない種類しかありませんが洋服を選ぶのも仕事です。

したがって少なくとも駅にたつ2時間前に起床しなければ間に合わなくなります。
血圧が低いために、本人は、この朝起きが大きな仕事となっていたようです。

それが終われば、気の遠くなるような訪問の仕事が待ち受けていました。その繰り返しをずっと続けていたのです。
おまけに、3ヶ月前は仕事までしていたのですから、いくら自分が選んだ道とはいえいえ、苛酷であることは間違いありませんでした。

そのことを考えれば、車に乗って座っているだけの選挙活動は「楽」であることは確かです。



(辻立ちでうったえる)


福祉の極みがここにあるかもしれない

ボランティアスタッフも多彩な方たちが集まってきました。桜子自身が練馬区出身でないので、ほとんどは区外の方でしたけれど。

M子さんは、パソコンでつくるデザインにくわしい方でそんなことに疎(うと)い人ばかりだったので彼女の存在は、とても歓迎されました。
しかし、こちらから連絡が取れない。
携帯電話を持っていないうえに、こちらから自宅にFAXしても届かないのです。
「FAX電話機が故障して動かない」というのです。事情を聞くと、どうもインクが切れているだけらしいのですが、それの処置がどうしてよいのかわからない。
パソコンにあれだけ堪能なのに、インクのことはわからないのです。

H岡さんは、電話かけでお手伝いをしてくださいました。電話はどんな人が出てきてくれるのかわからないので、みんなが苦手にしている分野なのです。

それをH岡さんは黙々とかけ続けスタッフの尊敬を集めたりします。
しかし、こちらからH岡さんのご自宅に電話をかけて連絡をしょうにも電話に出てきてくれません。そばに当人がいるのですが、お母さんが代わりに出てきてこちらの用件を伝えてもらいます。
電話かけができるのに、こちらから電話をすると出ることができないのです。

スタッフは、何でも出来る人が集まったのではなかったのです。

かく言うわたしも、こうして文章は書くことはできますが、対人恐怖症で訪問ができません。選挙活動で訪問ができないというのは、何の役にも立たないと同等です。玄関先で、インターホンをを押して相手が出てくると逃げてしまうような人間でした。

何でもできる人もいたのですよ。
でも、スタッフの多くは何かを欠かしている中で、自分のできることを出し合って協力してきたのでした。
「福祉の極みがここにあるかもしれない」と、どなたかのスタッフが言っていたのが印象的でした。

 ラーメン屋さんの奥さんも前掛けのままでにこにこと笑って聞き入ってくれます

「福祉だけを言っていたのじゃダメだぞ。みんなにアピールすることを言うんだ。わかったか。もっと背筋をピンと伸ばして」。
富士街道近くのお風呂屋さんのご主人は、演説を終えた桜子に熱く、演説指導をしてくれました。

去年の夏ころ、初めてここに訪れた桜子を、ずっと気にかけてくださったのです。江戸っ子気質でしゃきしゃきとものを言う人です。
広大な駐車場の中に、お風呂屋さんがそびえています。その駐車場の片隅におでん屋さんの屋台が駐まっていて、そこで仲間と一緒に語らっているのが常でした。

選挙戦の最終日、そして最後の辻立ちの場所に選んだのは、このお風呂屋さんだったのです。
あたりが薄暗くなった中で、お風呂屋さんの駐車場に選挙カーが乗り込んでいきます。
おでん屋さんの屋台に腰をかけて食べていたご主人が、すぐに飛んできてくれます。

桜子が演説を始めると、もうすでに顔なじみになった、となりのお団子屋さんのお母さんがあねさんかぶりのままでやってきます。そして、ラーメン屋さんの奥さんも前掛けのままでにこにこと笑って聞き入ってくれます。

「おーし、よくやった。いままでよくがんばった」と最後の演説を終えた桜子を、お風呂屋さんが拍手で迎えてくれました。

こうして、長かった桜子の選挙戦は幕を閉じていったのです。

事務所に帰ると、票読みの結果を知らされました。「読めたのは1,000票です」。
当選ラインは3,000票です。票読みを倍増させても2,000でしかありません。これでは当選ラインにとうてい届きません。
どうなるか。不安ですが明日の審判を待つだけです。

去年の初夏から準備をはじめていました。
膨大な家庭訪問の数。朝の駅頭演説。
桜子にとって、みんなこれまでの人生でなかったような経験でした。

最終日が終わって、ボランティアさん達のお見送りをしてから、学園駅の近くの飲み屋さんで小さな慰労をしました。

そこで、桜子がつぶやいたのは、「今までの10ヶ月間は何だったのか、と常々、考えることがある」ということでした。

「これまでの苦労は、練馬の人たちを好きになる旅だったのではないかと思っている」とわたしに語ったのです。

これはもう、桜子がわたしの住む町に戻ってこないと宣言しているに等しいものです。


(かとうぎまさよし さくらこの父)

選挙カー同乗記

2007年04月30日 | Weblog
選挙カー同乗記

大泉郵便局の裏手の路地を選挙カーで流していたら、3,4人の下校途中の女子中学生が「キャー」と喚声をあげるのです。
車窓から顔を出すと、彼女たちは自分たちと一緒に歩いているひとりのお嬢さんを指さして、「この子も桜子というのよ!」と叫びます。「そうなの。だったら、この車の中においで」とこちらに手招きをすると、「イヤダーッ」と恥ずかしがっています。
そうして選挙カーはそのまま、学園通りの信号にさしかかります。

何なのだろう。

選挙というのはお祭りと感じて、小さな子たちの胸をワクワクさせるのかもしれません。選挙カーがスピーカーで呼びかけると、小さな子たちが、みんな群がってやってくるのです。「群がって」という言葉がぴったり。

保育園の子供たちを散歩に連れ出している保母さん。そこに選挙カーがさしかかるとみんなが顔をこちらに向け、小さな手を振っています。すかさず後部座席の選対部長がマイクで「ちいさなご声援ありがとうございます」。

公園わきの都営住宅まえに車を停めて、辻立ち演説をしたときには、そこで遊んでいる子供たちが集まってしまい、演説になりません。保母さんの制止を聞かずに演説する桜子の周りに子供たちが集まって何かを口々に言い始めたので、早々に退散したりします。

「かとうぎさくらこッ!」と叫びながら、生意気盛りの中学生男の子の数人が、自転車のふたり乗りをしながら選挙カーを追い抜いていきます。
「呼び捨てにするな」と私が車の中でつぶやくのを制止して、桜子がマイクを持って「どうもありがとう」と手を振ると、はにかんで手をふりかえしてきます。

「どうも、選挙権のない人たちばかりに人気があるな」と選対部長がつぶやいていると、後ろのほうで「あっ、かわいい!」という女子中学生の黄色い声があがります。
「看板にある桜子の写真を見て言っているぞ」とわたしがいうものだから、車の中の全員が後ろを振り向いてみると、彼女たちは道ばたにつながれた子犬をみているところでした。

チャンスだから、がんばったら

桜子から「練馬で議員になりたい」と相談されたとき、周囲に賛成する者はいませんでした。政治家など別世界のことです。親戚中、そんなことをしている人はだれもいません。
「そんな大それたことを考えて、当選するわけがないでしょ」というのがすべての反応だったのです。
そして、「もっと手堅い勤め先を選ぶべきだ」が大方の意見だったのです。
父親のわたし以外、賛成する者のいない中での船出でした。


しかし、たったひとりだけ賛成してくれた人がいたのです。
それは、かつて千葉県松戸市で革新系の市議を三期勤めたTさんという女性の方でした。Tさんは私の兄の友人で、松戸市議を三期とも上位で当選された方です。
Tさんが桜子のことを心配して、大泉学園にやってきたのは昨年の夏のことでした。

桜子がTさんに語った区議選立候補の思いはこうでした。

「四年間、NPOの介護現場に飛び込んでみたが、自分のやりたいことと、実際の現場ではたくさんのギャップがあった。
自分は地域福祉の仕事をしたいと色々悩みながら、以前から知り合いだった民主党の関係者に話していたら、『そういうことを実現するなら議員になるのが早道だと』知らされた。

それで、民主党の公募に応募して議員になることを決心した」というものでした。

それを黙って聞いていたTさんは、「議員というのは、ひとりでなりたいと言っても出来るものではない。応援する人がいて実現できるものだ。
しかし、応援する人がいても本人がその気にならなければできない。

 今回は、応援する人がいて、それで本人がやる気になっている。

 そんなことはめったにないことだ。チャンスなのだからがんばったら」と励ましてくれたのです。

 桜子が選挙に出る決心をして二ヶ月がたっていました。
そんな前向きな意見に出会ったのは初めてでした。Tさんご自身がかつて議員活動をしていた方であるということが、励ましにいっそうの重みを持っていました。

「(選挙活動は)有権者のみなさんにお願いをして、お願いをして、最後は電信柱にまでお辞儀をしてしまうくらいなのよ」とその時、言っていたのが思い出されます。



(街道を走る選挙カー)

石神井郵便局のある富士街道に選挙カーが差しかかると、たくさんの学校帰りの中学生が歩道を絶え間なく歩いています。みんながそれぞれに手を振って、「がんばってッ」と言ってくれています。
助手席にすわる桜子も懸命になって手を振り、声援に応えます。
クラブ活動が終わった後なのか、みんなはジャージ姿で、大きな鞄(かばん)を肩からさげています。
周囲はもう薄暮になっています。

西武線の踏切で電車待ちをしていると、どこからともなく小さな女の子が選挙カーに走り寄ってきました。息を弾ませて助手席に座る桜子のそばに立ちます。車のドアから少し飛び出るくらいの背丈。
びっくりした桜子が振り向いて、「来てくれたの?」と問うと、「そうなんです」と子役がセリフを言うようにぎこちない答えを返してきます。
桜子が白い手袋をとってその娘さんにそっと握手をすると、満足そうな顔をして、またもと来た道に帰って行きます。
みると、その先に待っているお母さんの胸元に飛び込んでいます。ちょっと恥ずかしかったのかもしれません。

車は商店街を過ぎ、住宅地に入っていきます。薄暮の時間は短く、あっという間に辺りは暗くなっていきます。
暗くなったと同時に、車は住宅街に入り込み。道に迷ってしまいました。
それでも桜子は懸命に道行く人に手をふり続けます。
ライトを点けた車が私道に入ってUターンです。その光の先に動くものがあります。桜子が思わずそこに向かって手をふると、柴犬がこちらを見ているのがライトに浮かび上がってきました。
Tさんが「電信柱にお辞儀をしてしまう」と言ったことが思い出されます。桜子は犬にまで手を振ったのですから。

落下傘候補なのに

俗に言う「落下傘候補」。
大泉学園で立候補の準備を始めましたが、知り合いが誰もいない中での活動開始でした。
他の議員さんたちのプロフィールをみると「練馬で生まれ、練馬で育ち」という売り文句が目につきます。
「そういう人ばかりで政(まつりごと)をするよりも、外から来た人も含めてするのが良いのではないの」と本人はその時に言いましたが、知り合いがいないというのは、無名からの出発に他ならない現実でもあったのです。

民主党から与えられた選挙区の世帯数は、1万数千軒です。

 選挙までの10ヶ月で、その一軒一軒を訪ねて歩くことが桜子に課せられた仕事でした。
自分の選挙区に、いったい誰が住み、どんな人がいるのか、それを自らの手で見て回るのが政治家の最初の使命だと知らされたからです。

地方の人が大学を卒業し、たとえば新宿に就職をして大泉学園に住まいを構えたのだとしたら、こうも急速に地域の人とは知り合いになれないのかもしれません。
桜子は地域の人と知り合いになるのが仕事だったのです。
最初は、いつもの食べ物屋に行くと、「桜子ちゃん来てくれたの」とご主人が声をかけてくださるようになりました。

朝の駅頭演説を終えると、大泉学園の駅前の喫茶店で軽い朝食を摂(と)る習わしになっていたのですが、いつの間にかそのママさんが気にしてくれるようになってもいました。

学園町1丁目のトンカツ屋さんの人の良い頑固なご主人も、そのそばにある小さな居酒屋のご夫婦もみなさんが、声をかけてくださるようになっていたのです。


元都議の中山さんから指令が入ります。「選挙カーで流しているだけでは票にならない。選挙カーを停めて辻立ちをするように」

もう、選挙戦が始まって3日目のことです。

それで戦術を転換します。候補者の声が嗄(か)れるまで辻で立つことになったのです。

「応援するけれど、何を主張したいのかがわからない。すまないけれど、自分のお店の前で何か演説してもらえないか」と昨夜の晩ご飯の時に、「頑固な」トンカツ屋のご主人に言われたので、昼の出発はそのお店の前での演説から始まりました。

学園通りを流していると、ドンキーの先の沖縄料理店のみなさんが、白いコック姿のままで外に飛び出して手をふってくれています。

スピーカーで流しながら路地に入ると、はるか向こうの方でおばあちゃんが門の前で何気なく立っています。ここは桜子の居住地の近くです。

「あのおばあちゃんはぜったい、この車を待っている」とわたしが後ろで言うと、桜子が「まさか」という横顔を見せます。
車がそろそろとおばあちゃんに近づき、通り過ぎたところでストップ。
桜子が車を降りておばあちゃんと握手します。
車に戻ってきた桜子が、「やっぱり私を待っていてくれたみたい」と言います。何か言葉をくれたわけではないのに、握手をした手の感覚でおばあちゃんの気持ちがわかったらしい。


(手をふる かとうぎ候補)


もっと買い物客がたくさん来る時間帯に来ないとダメだよ

住宅地の中の小さなスーパー前を行き過ぎた所で、「ここで辻立ちをします」とわたしが提案します。

桜子が車の中でそのスーパーをのぞき込む仕草を見せたからです。
スーパーから50メートルいった地点で、辻立ちの準備を始めます。
スピーカーを車から降ろし、演説の開始。その間、スーパーの中から恰幅の良い女性が前掛け姿のままで外に出て、こちらを見ているのがわかります。
4分間の演説を終えた桜子がタスキをとり、マイクをわたしに預けてその女性のもとへ走り寄ります。
なにやら話をして再び選挙カーの中へ。

「去年の夏ごろ、こちらに引っ越しをしてきて、あのスーパーで買い物をしたの。そのときあの方がレジをやっていたので、『自分はこれからこういうことをしたいのです』と話したことがある。
あれから私自身が忙しくなって買い物ができなくなったのに、わたしのことを覚えていてくれたの。それで、あの時の娘なのではないかと見てくれていたらしい。」

『あんた、もっと買い物客がたくさん来る時間帯に来ないとダメだよ』と声をかけてくれたといいます。
選挙カーが来たのは午後2時くらいだったのです。

「選挙が終わったら、これからあの店でもっとお買い物しようと思った」と助手席の桜子が決心しています。買い物をするということは、これからは外食をしないようにして、家で料理を作って食べるということです。

 選挙後の、桜子の小さな公約がこうしてできあがりました。


つづく

(さくらこの父)




桜子という名前

2007年01月27日 | Weblog
 政治は私たちとは縁のない特別な世界だと思っていましたから、桜子から突然、「練馬区で政治活動をしたい」と知らされた時には、わたしはもの凄くびっくりしたのです。

 たくさんの不安があったのですが、彼女にはひとつだけ政治家に向いていることがあると思いました。

 それは「加藤木桜子」という名前です。

 新しく出す商品で一番たいせつなのはネーミングだと聞いたことがあります。いくらその製品が良い性能を持っていてもネーミングに失敗すると売れないという現実があるようです。
 政治家は名前を売るのが商売です。簡単な名前ではすぐに覚えてくれません。名前を聞いた相手が「一体どんな字?」と聞いてくるくらいの方がぎゃくに覚えてもらえると思ったのです。

 昔々、当時、共産党の若きプリンスといわれた「不破哲三」さんが国会議員に立候補して初当選しました。不破さんなんてどこにもない姓です。一度聞いたら忘れられません。
 実はこれはペンネームで、本当のお名前は「上田」さんだったというのは後の新聞報道で知ったのです。これにクレームをつけたのが与党のみなさんでした。立候補するのに「ペンネームでもいいのか」と。

 その後の論議はどうなったのかわかりませんが、不破さんはいまも不破さんなので、それでよいことになったのでしょうね。

 ことほど左様に、この世界ではネームは重要視されるのかもしれません。

 ですから、桜子が政治活動をしたいと言ってきたとき、わたしは思わず、彼女の持っている名前は政治家になるためにうってつけだと、ひとりで納得してしまったのです。

 姓は「加藤木」名は「桜子」。どちらも簡単ではありません。

 姓について、よく「木が多すぎる」といわれます。
 世間に出てもあまりお目にかかれない姓です。茨城県の北部、福島県境に分布している姓だと云われています。私の父親が北茨城の出身です。

 東京のデパートで「加藤木様」と呼び出しがあれば自分たちしかいないので行かなくてはいけないのですが、茨城県の大洗海岸で泳いでいて「加藤木様」と放送で云われたら、他にもそういう方たちがいると覚悟をしていた方が良いのです。

 桜子にとって有利だったのは、民主党から与えられた練馬区における政治活動の拠点が「加藤さん」というお家がたくさんあるということでした。
 加藤さんにとって、候補予定者が「加藤」なら覚えにくいですが、「加藤木」となれば、「どんな字を書くの?」といわれてすぐに頭に入ってしまします。
 名前を覚えてもらったとしてもすぐに応援していただけるとは思いませんが、その以前に印象を持っていただかなくてはなりません。


 名前の方の「桜子」も去年9月までNHK、朝の連ドラの主人だった名前です。

 今でこそ女のお子さんに、「花恋(かれん)」と付けたり、「沙羅紗(さらさ)」と名付けたり、趣向を凝らした名前を付けることが流行していますが、それはここ10年くらいの傾向なのだと思われます。

 そのずっと前の時代では、突拍子もない名前は、タレントの芸名か、夜の世界で働く女性たちの「源氏名(げんじな)」に限られたものです。

 今は60歳を過ぎた「小百合さん」がいてもおかしくはないけれど、昔は、生まれた女の子に可愛い名前を命名しても、それはその子がおばあちゃんになるまでついて回るものだからとして、平凡な名前を付けるのがよしとされたところがありました。

 夜の世界で働く女性は、本当は「昭子」とか「啓子」とか堅気の本名を持っています。お店に出るときに芸名(源氏名)として別の名前を名乗る習慣があったのです。現実世界と浮世の世界を、別な名前を名乗ることで区別していたのではないかと思うのです。

 私の勤める会社で慰安旅行がありました。
 宴会がはじまると、今でいう「コンパニオン」の方が私の同僚にお酒をつぎに回ります。
 私の前に座った女性の胸に名札があります。その名札には「栞」とだけ書いてあります。

 10年くらい前にサザンオールスターズが「栞のテーマ」という歌をヒットさせたのでそれ以降、この漢字は世間では認知されるようになってしまいましたが、その慰安旅行はそのもっと10年前です。
 だから、そんな字は読める人は少なかったのです。

 私は漢字が好きな人間でしたから、その女性に向かって「(栞)しおりちゃんて云うのね」と言ったら、相手は喜んで、「この字を読んでくださったのはお客さんが初めてです」なんて言ってくれたのです。
 そんなことはあり得ない。
 でも、そのことがきっかけで、その座は大いに盛り上がったのでした……。

 変わった名前は夜の世界で、堅気は平凡な名前。というのが長い間、世の中では固く守られてきたルールだったのです。ですから、生まれた女の子の名前に派手やかさは求めない傾向がずっと続いていたのでした。

 桜子は小学校を卒業すると、世田谷区にある桐朋女子中学というところに入ります。逆算すれば14年くらい前のことです。
 入学式の日、講堂に集められた生徒は中央に整列し、その保護者は後列に並びます。わたしはその後列の中にいました。
 
 儀式として担任の先生がクラスごとの生徒の名前を呼びます。
 桜子の番になって「加藤木桜子」とコールされます。そうすると、後ろの列に並んでいた生徒さんたちがざわつき、顔を見合わせて「桜子だって」と笑っていたのをわたしは思い出すことができます。

 ですから14年前までは、「桜子」という名前は珍しかったのです。または、特別な名前を付ける習慣は世間にはまだなかったのでしょう。

「桜子という名前、長くない。ただでさえ姓が長いのだから。桜だけでいいじゃないの」と私の母親に言われたことがあります。
「桜だけじゃ、寅さんの妹になっちゃうでしょ」とその時にわたしは答えましたが、その時代には、「桜子」という名前はまだ異様な感じがあったのだと思います。

 それなら、どうして「桜子」と名付けたのか、ということがあります。

 桜子の生まれたのは4月10日です。このところから話さなくてはならないでしょう。

 そして地球温暖化のことにも触れなくてはなりません。


 小学校の6年生が卒業するときに代表者が答辞というのを読みます。
 その決まり文句は、「私たちがお父さんお母さんに手を引かれて、初めて学校の門をくぐったときには校庭の桜の木が満開でした……」というものです。自分たちが新一年生の時の回想のシーンです。

 小学校の入学式は4月8日に行われます。
 その時の情景をいっているのです。ですから、関東では、長い間、4月8日の入学式の時期に桜の木が満開になるということが続いたのです。

 桜子の誕生はその2日後の10日です。

 今は、桜の満開時期は3月の下旬となっています。桜だけをみると、地球の温暖化が進んでいることがよくわかります。

 
 そして、桜子の4月10日です。
 通常の満開が8日だとすると、少し遅くなります。桜子の生まれたのは1980年の4月。
 この年は、4月だというのに寒い日が続いたのでした。

 9日の夜、産気づいた母親は、かねてお世話になったお産婆さんの産院に入院します。冷たい雨の降っている夕刻のことでした。春なのに寒いのです。
 人生最大の出来事を前にして、私たちは桜の木が蕾のままでいることなど知ることもありません。

 出産は、困難を極めました。

「妊娠中毒症の気配がある」と通告されて、お産婆さんでは手に負えないと母親は近くの産科病院に転送されます。産気づいているのに子が出てこない。
 夜半になって雨がやみます。
 
 夜ですが、雨がやむにしたがって気温が上昇します。

 その時に産声を聞いたのでした。

 看病していたわたしは、ほっとして、病院に与えられた部屋に戻って仮眠をとります。朝、目覚めると、急にポカポカしていて、空をみると昨夜と打って変わって快晴です。
 病院の庭にある桜の木が満開になっているのがみえます。寒かった夜から急に春の気温になって、桜も一気に咲いたのでした。

 温かい日が何日も続いて桜が咲く、というのとは違うのです。3分咲きがあって、5分咲きになって満開になるのとは異なるのです。桜の時期になっているのにずっと寒い日が続いて蕾がかたくなっていたところに、気温が急に温かくなって蕾から一気に満開になったという様相でした。
その日の桜は、暴動のように一気に咲いたのです。


 安堵して病院のベットに横たわる母親。生まれた子はまだ別室の保育器の中です。

 朝早く、昨晩、お世話になったお産婆さんがお見舞いに来てくれました。

「すごいよ、どこを通っても桜が満開で、怖いくらい」と言います。

 怖いくらいの桜は、どれだけすごいのか病室にいる私たちには想像ができません。


「この病院に来る途中に公園があるの。私はそこを通ってきた。歩いていると道の先に昨夜の雨で水たまりが出来ている。だから私はそれをぴょんととびこしたの。飛び越した時に下を見たら、その水たまりに咲き乱れている桜が映っていた」。


 そのお産婆さんに命名をお願いしていたのですが、4日後、半紙が病室に届けられました。

 それを広げるととそこには墨痕、鮮やかに新しい生命の名がしたためられていたのです。
 
 
 それで名は桜子。


イブになると

2006年12月24日 | Weblog
 クリスマスイブになるとわたしには思い出すことがあります。

 桜子がまだ幼稚園に入っていなかったので、たぶん4歳か5歳のころだったと思います。クリスマスイブの日に彼女が、「サンタさんの写真が欲しい」と言い出したのです。

 サンタさんのプレゼントに何が欲しいのかという親のわたしたちの前で、「写真」だといったのです。桜子の母親とわたしは思わず顔を見合わせていました。

 桜子のお願いは念入りに考えたものでした。

 それは「自分(桜子)の写っている写真を枕元に置くので、それと引き替えにサンタさんが写っている写真も置いていって欲しい」というものでした。そういうものが世の中に存在するのかわかりませんが、「交換写真」というものかもしれません。

 
 でも、私たちには桜子の思いがよく理解できません。

「サンタの写真が欲しい」というストレートな願いならよくわかるが、「自分の写真を枕元に置いておくから、それと取り替えて……」というところが大人のわたしたちにはよくわからない。

「サンタさんの写真をもらうのに、どうしてサッコ(桜子をわたしたちはそう呼んでいた)の写真をサンタさんにあげなくてはならないの?」とわたしが母親の代わりにおそるおそる聞く役になったのです。

「だって、サンタさんはわたしが寝ている時に来るから。わたしが目をつむっている顔しか見ることができないでしょ。だからわたしの起きている写真をあげたいの」。

「ふーん。……そうだよね、そういえばサンタさんはサッコの寝ている顔しか知らないものね」とわたし。

 なるほど、なるほど。

「そうだって……」と、わたしはふたりのやりとりを息を呑んで聞き入っていた母親を振り返って、桜子の気持ちを伝えました。

 飼っている猫が子猫を生むと、飼い主は対処に困って、小さいうちに余所(よそ)にあげてしまいます。生まれたての子猫は最初、目があいていません。それが1週間もすると、ぱっちりと目をあけます。目があいたら可愛くて、飼い主はもう子猫をあげることができなくなります。
 近所のおばさんたちは、経験でそのことをよく知っています。
 だから、「子猫の目が開かないうちに、余所にあげなさい」と言われていたのを、わたしは桜子の小さなお願いで思い出していました。

 そういえば世のサンタは深夜、目のあいていない子供たちにクリスマスプレゼントを届けていたのです。
 目をあけた桜子の写真を見たらびっくりするだろうな。子猫だったら余所にあげられなくなってしまうはずです。

 かくして、クリスマスイブの夜は更けていきました。

 

 翌朝、びっくりした顔の桜子が手紙をもってわたしのところに飛んできたのです。

「サンタさんからお手紙がきたの。なんて書いてあるの?」と桜子がわたしに手紙を差し出します。

「サンタさんは、写真を置いってくれた?」とその前に気になっていたことをわたしは聞きます。

「ううん。そのかわり、このお手紙があったの」。

「サッコの写真は?」

「なくなっていた」。

 その手紙は、フィンランドの言葉で書かれていました。まだ字が読めない年齢ですが、手紙に書かれている字が見慣れないものだということは、桜子にもわかります。


「桜子ちゃん、お写真ありがとう。

 桜子ちゃんはとっても可愛いのですね。

 サンタさんは、ずっと遠いところにひとりで住んでいます。一緒にいるのはトナカイだけです。

 桜子ちゃんに写真を贈りたくてトナカイに写真を撮ってもらうように頼んだのだけれど、トナカイには指がないので、カメラをかまえてもシャッターが押せないのです。

 だから、写真を撮ることができませんでした。

ごめんね」

というものでした。
 そういえばそうだ、とわたしは感心をしながら桜子に手紙を読んできかせました。

 しかし、黙ってそれを聞いていた目のあいた子猫は、次に怖ろし気なことを口にするのです。

 わたしから戻された手紙に目を落としながら、「トナカイが写真をとれないなら、サンタさんがトナカイをとったら良いのにね」とつぶやいたのです。

 やっぱり納得がいかなかったのかもしれません。

 この言葉でわたしは、おとぎ噺の世界から現実に引き戻されてしまいました。次の年のイブに、この子はいったい何を言ってくるのでしょう。それから2~3年の間は戦々恐々だったのです。

 
 クリスマスイブになるといまでもその時のことを思い出します。





 

それでは桜子の支援にならない

2006年09月10日 | Weblog
手には「発信力」と「受信力」があるのかも

 今日は平日なのですがわたしの勤める会社が交代休みなので、郵送に使う封筒やパソコンの用紙を買いに商店街のお店に出かけました。
 そこは問屋さんで、たくさんの袋物や用紙が棚に並んでいます。一般のお客さんよりもお店や会社の方が買いにくることが多いようすで、事務服を着た女性が駆け込んできたり、店用の前掛けをしたままで品物を見ている方が見受けられるお店です。

 わたしが開店時間を待って棚を見上げていると、そこで働いているパートのおばちゃんたちが棚に商品を入れながら、いつも元気にお話をしている声が聞こえるのです。

 間口がシャッター3枚を並べたほどで、奥行きもシャッターが4枚あれば足りるくらいの広さですから決して大きくない店なのに、そこで働いているおばちゃんの人数は結構、多いのです。
 商品の動きがよいのかもしれません。

「……衛生を考えてあんなことをするのだろうけれど、ビニールの手袋をしてお結びをつくるのと、素手で握るのとではおいしさの味が違うらしいのよね。手でお結びを作るからおいしいの。何かよくわからないけれど、手からおいしさが出るらしい」。
 棚に商品を補充しながら、隣の同僚にしきりに話しかけている声が聞こえます。狭い店ですから話は店中に筒抜けです。
どうも今日は、お結びの講釈をしている様子です。

「そうそう。それもね……」
ともうひとりのおばちゃんがそれを引き継ぎます。わたしは目の前の棚に阻まれて声の主が誰なのかわかりません。

「21,2歳の女の子が握るのと、お母さんがお結びを作るのとでは同じ材料なのに味が違うのだって。お母さんのほうがおいしいらしいよ」。
「ふーん、不思議だね」。

 あまり説得力のある話に感心して、「良い話をしていますね」とわたしはA4の用紙をカゴに入れながら、そばで棚の整理をしながらやはり向こう側の話を聞いていたおばちゃんに思わず話しかけてしまいました。

 いきなり話しかけられてびっくりしながら、わたしを見上げたおばちゃんは、「だからね、お母さんは大事にしないといけないのよ」と応じてくれます。

 わたしは若いころに東洋医学の勉強をしたことがあります。
 医療には、その原点に「手当て」という言葉があるのを教えられたのを、今朝のおばちゃんのお話で思い出していました。

 身体(からだ)を何かにぶつけて痛い思いをすると、知らずに自分の手を当ててしまうことがあります。
 そうだ……、
 歯が痛いときにも思わず痛い頬に手を当ててしまいます。

 手を当てると楽になるのを身体が知っているからなのでしょう。
 医療というのは切ったり貼ったりするだけではなく、この「手当て」が原点だと教わったような記憶がありました。応急処置を「手当てをする」とも言います。

 人間関係が壊れて、それを再構築しに行くことを「手当て」するという言い方もありました。

 今のお結びの話と良い、手当てのことにしても、もしかして、わたしたちの手には不思議な「発信力」があるのかもしれません。

 今朝、会ったお店のおばちゃんは、わたしをお母さんと同居している若者として対していましたが、実はわたしが親から独立して就職をしたのはもう35年以上前のはなしだったのです。

母親と娘では味がちがう?

 下町の精肉店。わたしが最初に就職をしたお店です。
 毎朝、新入りのわたしがするのは、肉を解体する先輩の板前さんのために練炭に火を熾(おこ)すことからはじまったのでした。

 真冬でも、お客さんが入りやすいようにいつもお店は空け放しで、そこで働く者にすればまるで外にいるようです。おまけに扱う商品は冷蔵庫で冷えている肉で手は氷のように凍えます。床下は肉の脂が落ちても流せるようにコンクリートで出来ていてさらに足から冷えが襲ってきます。

 冬場になれば、働く者の身体も手足も冷え込んでくるのです。

 そういう時に、わたしの熾(おこ)した練炭が活躍するのでした。板前さんも新入りのわたしも、掌(てのひら)をあぶってひと時の暖をとります。

 物質が豊かになって、暖房は部屋全体を温めてしまえという現在と違い、江戸時代の昔からわたしの丁稚(でっち)時代まで、人々は火鉢や七輪に炭をくべて、掌を温める方法で暖かさを感じていたのです。
 古来より体の一部を温めると体全体が暖まるすべが発見されていたのだと思われます。その場所が掌(てのひら)だったのかもしれません。

 そういえば焚火(たきび)にあたるときに人は誰しも手の平を返して掌を温める態勢をとります。もし仮にそうはせずに体だけを焚火にさらしていたら体の表面のみが温かくなるだけでしょう。
 掌(てのひら)を温めるから体の内部に熱が伝わってくるのです。

 先ほどわたしは「人間の掌には不思議な『発信力』があるのかもしれない」と申しましたが、別の面で、外部の情報を体の奥に伝える「受信力」もあるのかもしれないのです。

 今日のお話でやはり不思議だったのは、お結びを握る手が娘さんとお母さんでは味に違いが出るということでした。

 手に付くにおいを嫌って、糠みそをかき回す時にビニール手袋をする人がいると聞いたことがあります。しかし、素手でかき回すことにくらべて味が落ちるということが実際にはあるらしいのです。

 しかし、その手による味が娘さんとお母さんでは微妙に違うとは思いもかけませんでした。

 同じ女性でも子供を育てたお母さんは、子供に心を育てられてやさしい気持ちになります。そのやさしさが年若い娘さんとは違うのものを出すのでしょうか。

 桜子が区議選に出たいと言ってきた時には、突拍子もない話でわたしは、知り合いの大物にその決意の成否を訊いたことがあります。
 その方は、選挙戦を数多(あまた)、経験して周囲から一目置かれるような人だったのです。

「年はいくつだ?」
      と訊いてくるので、
「26歳です」
      と桜子の年齢を伝えました。

「結婚はしているのか?」
「まだです」。

 それだけのやり取りで、その人はすぐに結論を出しました。

「(当選は)無理だな」。

 歳と、既婚かどうかを訊いただけで、そんな簡単に結論を出すなよ、とその当時わたしは思っていました。

 でも今日のお結びの話を聞いて納得するものもあります。
 歳が若くて未婚なら、まだその手からおいしい味が出ない。それを一般的に世間では判断材料にしてしまうのかもしれない、と。

 でも、わたしがそのことに納得してしまったら、この文章を書いてもちっとも桜子の支援にはなりません。

 それが悩みのタネです。

(桜子本人のコメントが載っています)

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桜子の伯父より

2006年08月20日 | Weblog
地域の温かさに混ぜてもらえたら

――大学を卒業したら教職に就くのか、新聞社にはいるのかと思っていた―― 

 加藤木照公(日本芸能・和力事務所

 わたしの姪に桜子ちゃんがいる。

わたしとは一回り以上も年の離れた末弟・雅義の一人娘である。
 わたしは遠く秋田のわらび座という劇団に23才から45才までいたから、幼い頃の桜子ちゃんを知らないで過ごしてきた。

 わらび座を退座してわたしが市民生活に入ったころの10年前、わたしの母親がスーパーで買い物中に転倒し骨折して松戸市内の病院に入院していた。そのとき弟の家族3人で見舞いにきてくれたことがある。そのとき桜子ちゃんは中学生くらいであった。

 わたしが母親の見舞いを終えて外に出たら3人と出くわしたのだった。桜子ちゃんをじっくり見たのはこのときが初めてであったように思う。


 弟の一家は、居住地が遠いせいもあってあまり行き来はなかったから、桜子ちゃんを見かけることが少なく、そんなときにしか会えなかった。

 桜子ちゃんが、朝日新聞の「声欄」に投稿した記事を、わたしはたまたま手にした新聞で何気なく読んだ。
知らずに加藤木という活字に目がいった。めったにある苗字ではない。そこには「加藤木桜子」と記されてあったのだ。
 朝日新聞に採用されるなんて並大抵のことではない。大騒ぎをして親戚中に連絡を取った。病気療養をしている母親のことを書いていた…と思う。

 弟の妻、桜子ちゃんのお母さんが病気療養中だったことも、彼女がK大学という東京の著名な大学に在学しているのもこのとき初めて知った。

 その後、桜子ちゃんのお母さんの葬儀で会ったが、それからしばらくは会う機会に恵まれなかった。

 文学部の桜子ちゃんは「卒業論文」に元ハンセン病作家のFさんの作品を取り上げた。その論文が別の全国紙から取材を受け、文化欄の一面を使って大きく掲載された。わたしの愛読する新聞だったのでそのときもたまたま知らずに驚いて読んだ。

 大学を卒業したら教職に就くのか、新聞社にはいるのか、あるいはどんな大手会社に行くのだろうと思っていた。ところが福祉の勉強をするために、専門学校に入り直したという。
「あしがらさん」というホームレスのおじさんを主人公とする、ドキュメント映画の上映運動をこの福祉の学生時代に中心となって取組んだ。

 やがて「社会福祉士」の資格をとり、卒業と同時に新宿の小さなNPO法人へ勤め出したのである。

 わたしにはひとりの息子がいる。桜子ちゃんとは従兄妹の間柄だ。
日本芸能の和力という集団を主宰していて、舞台で和太鼓や舞などをして生業としている。その和力が初めての東京進出として今年のゴールデンウイークに吉祥寺公演を仕掛けた。仕掛けたのはわたしだったのだが……。

 そのときには彼女はサポーターとして協力してくれた。
 公演は当初、ゴールデンウイークの中日である5月4日の祝日公演の計画だけだった。吉祥寺には初めての進出で、準備するわたしの側に観客動員にたいする少しの不安があったためだ。最悪でも以前から和力を親しんでくれるお各様に足を運んでいただければよいだろうと、考えていた。
 そのために、4日の公演は午後4時開演と設定された。遠方の方が帰りやすい時間を選んだのだった。

桜子ちゃんが20代の半ばになって、わたしとつよい接点ができた

 そういう考えに異議を唱えたのが桜子ちゃんだった。
 昔からの和力ファンを呼び込むのだったら、何も吉祥寺ですることはないのではないか。地元でお勤めをしているような人たちに見てもらって初めて公演が成功ということになるのではないのか、と言われたのだった。

 それに励まされて5月8日(月)、平日の公演が追加された。
結果的に、この日も大入りになり成功したのだった。桜子ちゃんの提言がなければ、小規模の公演におわってしまうところだった。

 このときに桜子ちゃんが20代の半ばになって、ようやくだったがわたしとつよい接点ができたのだった。

 桜子ちゃんと向き合ってはじめて話ができたのは、それからさかのぼる4ヶ月前に、地下鉄早稲田の改札口で弟と共に待ち合わせしたときである。和力公演の打ち合わせのために会った。

 細身の身体であり、腕なども華奢(きゃしゃ)である。わたしの家系はどちらかというと「堅肥り」の傾向がある。そういう先入観でみるからその体形の細さにびっくりしたものだった。
 聞けば高校時代は和太鼓をやり、大学時代にはダンス部に所属していたというから、健康で活発に過ごして来たにちがいない。……でも細い。
 人の話しをじっくりと聞く。こちら側がゆったりと話せる雰囲気をもっているというのが最初に会っての印象だった。

 思いもかけない転身宣言に、私たちは息を呑んだ

 その彼女が、人と人を結びつけるコーディネーターになりたいと今の職を辞したと聞いたのは、吉祥寺公演の準備の真っ最中である今年の3月のことだった。
 一つの職場だと接する人に限りがある。
 福祉を必要としている人はたくさんいる。それには自分が政治の世界で活動するのがよいのではないかと思ったのだという。前から勧めてくれる人もいて有名政党の練馬区での区議公募候補になった。

 思いもかけない転身宣言に、父親である弟を含め私たちは息を呑んだ。こんな細い体で田中真紀子さんのように振舞えるのか、と。

 そのとき、桜子ちゃんは福祉を必要とする人たちの輪をつなぎあいながら、行政に結びつけていく事をライフワークにしたいという決意を口にしたのだ。
 自分の専門を活かして世のために身を挺して生涯を賭ける。それは目的をもった生き方ではないか。20代の半ばで自分の指針が明確になる生き方は羨ましいとわたしはようやく思った。

 すでに来年4月の本番にむけて、今年6月からその準備に入っている。

 練馬区には最近になって移り住むようになった。公募での候補だから俗にいう「落下傘」。彼女にはなにも足がかりがない地域である。これまでの活動から、後押しをしてくれる人がいるけれど、地元には友人・知人はいない。

 桜子ちゃんの最新のブログを読んだ。

「わたしは転居が多かったから、ふるさとと呼べるところはない。練馬に移ってきて駅頭で話をしていると、『資料をください』と声を掛けてくれる人がいる。あるいは盆踊りなどで話し込んだりする人も出てきている。いろいろな人との繋がりができて、この土地で将来につながっていくような思いがする」という主旨のことを書いている。

 知らない土地に降りたって、自らの少しづつの行動で、人々との繋がりをつくっていくことをわたしはかつて所属したわらび座の営業で数多く経験してきた。営業というのは、数ヶ月前に公演予定地を先乗りして公演準備、観客動員をするのが役割りだった。
「わたしはこの土地でなにができるのだろうか。はたして人々との関係が築けるのか」。あのときわたしの心には高揚と同時に不安が交錯したものだ。

 桜子ちゃんは一歩踏み出した。
実践のなかで人々との繋がりが少しずつ深まっていく。
「この土地でこの人たちと将来に亘って手を携えていきたい」とそのブログで言っている。
なにもない所から形あるものに作り上げていくのは、わらび座の営業時代のわたしたちと同じであるが、根本的にちがうものがある。

 それは、わたしたちは一つの興行がおわるとその土地を去って行く者であった。
桜子ちゃんは「未来永劫にこの土地の人々と共に」切り拓いていく事にある。ブログでは次のように言っている。
「職種など、属性を超えて、どんな形であれずっと練馬の大泉学園に根をおろして、福祉の活動をしていき、少しずつ地域の中の温かさに私も混ぜてもらえたら嬉しなあ、と思います」

 若き知性の未来に幸多かれと願う。

(かとうぎてるまさ 桜子の伯父・和力のブログより 06.07)

初めての駅頭演説

2006年07月09日 | Weblog
初めての駅頭演説



 桜子から「区議選に立候補したい」と打ち明けられたのは、呼び出されて行った居酒屋でのことでした。

 素人にとって選挙でわからないのは財政問題です。そのことを聞くと、「選挙にかかる費用はほぼ個人負担」。「スピーカーもポスターの費用も全部自分持ち」と答えました。「そうすると、個人商店だということ?」と聞く私に「そうだ」と答えます。

 そうであるなら選挙費用というのは商店を立ち上げる資本だと考えられます。それで落選すれば、個人商店は「倒産」ととらえてよいのかもしれません。

 そういってくれれば私にもわかりやすい話です。

 それなら資本のお手伝いくらいは、微力でも私がサポートできる余地があります。



 しかし、考えなくてはならない課題があります。これは個人の問題なのですが、選挙をするということは私がサポートできないことが大部分なのです。これが問題となります。

 まずひとつは、選挙というのは人に会うことが仕事であります。他人様から票をいただこうとするのですから、当たり前のことです。駅頭で立って演説をしなくてはなりません。選挙ポスターを貼りに家々を訪れて見ず知らずの方にお願いをしなくてはならない場面もでてきます。

 そういうことが私にはできないのです。私は人と対するときに異常に緊張するという性癖を持っているからです。

 幸いにして現在、私が働いているのは人と話さなくともできる仕事です。ですからこんな人間でもどうにか職に就けて月々の収入が得ることができます。でも、どちらかといえば、部屋に引きこもって出てこない人たちの心情に近いものが私にはあるのです。そんな私が、いくら桜子に相談されてもできることとできないことがあるのです。



 先日、私用で郵便物を出すことがありました。出そうとする郵便は定形外でさらに重量のあるものですから、窓口に行かなければなりません。窓口にいる担当者は必ず「普通ですか?」と聞いてきます。「普通郵便」なのか「速達」なのかを聞いてくるのです。相手は業務で聞いているだけなのに、こちらは緊張してうまく受け答えができません。そのとき聞かれて言葉に詰まる自分がいやなのです。

 対策のために練習をしようと思い、私は郵便局に行く前に会社のトイレの個室に入って「普通でお願いします」と口に出してみました。ところが後から入ってきた同僚にそれを聞きとがめられてしまったのです。

「あいつはトイレの中で『普通でお願いします』と言っている。あれは何だ」と。

 健全にお育ちになった方には苦もなくできることが、私の場合、うまくやることができません。



 やがて、桜子は民主党の公認が決まり、ポスターも出来上がります。ポスターを貼るための両面テープの裏貼り作業もたくさんのみなさんのご協力で次々と進みます。そこまでは良いのです。裏方の仕事ですから。私にもできます。



もっとやさしくできないのか



 次には初めての駅頭演説が決まります。とうとう私の関わりたくないメニューが日程にのぼってきました。

 7月3日、西武池袋線・大泉学園駅北口が桜子の駅頭での初陣です。時間を聞けば「朝6時半から8時半まで」。演説が終われば、高田馬場にある彼女の職場に10時までに出勤という予定です。



 あいにくというか運が良いのか、その初演説の日は私の勤務はたまたま休みだったのです。応援に行くかどうか躊躇をしましたが、異常に緊張する親の血を分けた娘の初陣でもあります。彼女は民主党の公認審査を受けるときに声の小ささを心配されたこともありました。

 ひとりで演説するなんてできるのか、やっぱり気になって行くことに。

 その朝、私が大泉学園駅に着いたのは予定どおりの朝6時半です。



 やっています。

 歩道のガードレールそばで、ハンドマイクを片手にひとりで立っています。小さい声が心配だったのですが、かなり、いい声でしゃべっています。声を出しながら道行く人に自分のリーフレットを配っている最中です。案の定、通勤客はそれをよけて通っていきます。歩道の向こう側にある椅子にホームレス風のおじさんが腰をかけて、遠目で演説を見ています。



 私は、おじさんの反対側の歩道橋階段に位置を取り、デジカメで写真を撮る体制。

 このままで2時間を過ごす算段だったのです。私が人前に出ることなど想像もしていません。すると私の存在に気が付いた桜子が演説をやめてこちらにやって来ます。リーフの束を私の胸に押し付け、「やってね」と言って元の位置に戻っていきます。これを配れというのでしょう。なんと遠慮のない。人にものを頼むときにはもっとやさしくできないのか。



 そのころになると元都議会議員の中山さんがいらっしゃいます。すでに引退した中山さんは後継者をつくるために飛び回っているのです。

 中山さんは、「桜子さんはここで演説をして、お父さんは向こうの歩道でリーフを配ってください」と指示を出され、ご自身もリーフを配り始めます。

 指定された場所で立ちますが私はおどおどとリーフを差し出すので、誰も受け取る人はいません。中山さんを振り返ると、凛として手渡していますから、相手が圧倒されて思わず受け取ってしまいます。



 歩道を歩く人を川の流れとすれば、川上から駅の方へ流れてくる人の左岸に私は立っています。通勤客にすれば朝からビラなど受け取りたくもありません。人はリーフを手渡そうとする私をよけて、ちょっと右側に蛇行するよう流れを変えます。

 すぐにリーフの手渡しはあきらめました。

 私はそんなことができる人間ではないのです。今度はリーフを自分の手で掲げて、「おはようございます」と連呼することに戦術を変えたのです。リーフのタイトルには「かとうぎ桜子」という文字が書かれています。これさえ認識してもらえばよいのですから。



「おはっ、おはようございます」



 しかし私は、「普通でお願いします」と言うのに練習をするような人間です。当然のように「おはようございます」がうまく声になりません。

 最初に「おはっ」という言葉が出るのですが、緊張しすぎてそのあとの言葉が続かないのです。「おはっ」と言ってつまづいて、そうしてようやく「おはようございます」という声が出るのです。

「おはっ、おはようございます」。このままではただのへんなヤツです。

 一度、発声をやめて口の中でつばを飲み込んで呼吸を整えるのですが、やっぱり言い始めると「おはっ」でいったん止まらないと次が出てきません。

 でもチラシを配っていないことがわかると安心して、通勤客の流れはこの「へんなやつ」のそばまでやってきて通り過ぎます。



 元都議の中山さんがマイクを代わって演説を始めてくれます。その間、桜子は喉を休めてリーフを配り始めているようすです。

 私が懸命に「おはっ、おはようございます」と言っていると、背中から桜子が飛んできてリーフの追加を手渡そうとします。どうも、私が配りきって、仕方がないので朝の挨拶に切り替えたものと思ったらしいのです。

「みんな受け取らないから、挨拶だけしているんだ」という私に、「でも配って」と強く言い残して桜子は自分の持ち場に戻ります。



 午前8時近くになると、渋谷にいるようなジーパンにおへそを出したお嬢さんたち3,4人が、大きなダンボールを持って私の向こう岸に到着してきました。それで、取り出したティッシュを配り始めたのです。どうやら予備校の宣伝です。

 流れの右岸におねえさんのティッシュ隊。その対岸に私がリーフを持って「おはっ、おはようございます」と連呼しています。

 通勤客は右岸のティッシュ隊を避けるように動きますので、当然、流れは左岸に体勢を変えます。その目の正面に「かとうぎ桜子」のリーフを掲げた私が立っている図になります。しめしめ効果的。



 このころになると私でも慣れてきます。

 私の手元にチラッと目を走らせた通勤客を見つける要領を会得したのです。その人だけにむかって「おはようございます」と言えばスムーズだということを発見しました。何もわからないで、ただ集団に挨拶をしなくてはならないと思ったときにはストレスだったものが、要領がわかれば気にならなくなってきました。

 スムーズに「おはようございます」が言えるようになってきたのが不思議です。

 いつのまにか2時間の長丁場が終了。

 気が付けば、党関係の方が中山さんを含めて2人。それから桜子の職場の女性が1人。私と桜子の合計5人での初の駅頭演説だったのでした。



 応援の皆さんと別れると、私と桜子は池袋に出て、駅前の喫茶店に入り、遅い朝食を摂(と)ります。

 朝の6時半に駅頭に立つには何時に起きるの?

 練馬の住民である桜子に質問すると、「5時には起きる。髪の毛をきれいにしたいし、服装も考えないと」と答えます。「起きたままパジャマで演説はできないしね」と桜子。当たり前だ。

「これから暑くなるけれど、スーツでなくては駄目なのかしら」と今度は聞いてきます。「他人にお願いをするのだから、服装はきちんとしなくては」と私はこの時だけ普通の親らしく常識を説いたのです。

「汗が流れるから、タオルを首に巻いて演説しちゃったりしてね」と桜子。サザエさんじゃあるまいし。今日のことでこちらは言葉が出ないほど緊張していたのに、きみには緊張というものがないのか。

 嘆きたいのはこちらの方だ。

社会の幇間(ほうかん)として

2006年07月01日 | Weblog

社会の幇間として

 出来上がったポスターの横に掲げてある「社会福祉士」という資格がそもそも素人にはわからない。「介護する人なの?」と聞けば、「それは介護福祉士だ」なのだという。

 どうも、窓口にきた人たちの相談を受けるのが「社会福祉士」の役割らしい。



 でも、それは何も福祉事務所にきた方たちのみを相手にすることでもないだろう、と桜子は第1回目のチラシで主張する。「現代社会は人と人との関係が希薄だといわれていますが、そのつながりを作り直すのも、福祉の大きな仕事といえます。」とそこには書いてある。立ちたい大きな動機がそこにあるらしい。

「ふーん、福祉活動を社会全体に、というわけだ」物事を飛躍して考えるくせのある自分にはすぐにわかるが、果たしてこの「飛躍」が他の人々に理解してもらえるのかどうか。

「どうも、そこの所がみんなにはわかってもらえないようなの。ひとつの言葉でみんなに理解できるようなものはないかしらね」と桜子。



「かとうぎ桜子を応援する」という第1回の打ち合わせ会が終わった後の、池袋の飲み屋での話だった。「答えになるかどうかわからないけれど、ふた通りのことは考えられる」と私。

「ひとつは……、人の話をよく聞けるかどうか。」



 昔、幇間(ほうかん)という人たちがいた。お座敷で太鼓持ちといわれた人だった。この間、亡くなった古今亭志ん朝の落語をCDで聞いていたら、その幇間の話が枕話(まくらばなし)で出てきた。

 太鼓持ちといえば、その座を賑やかにするものだが、志ん朝の目撃したその幇間は決して騒がず、お座敷を主催した旦那のそばに座ったきり自分ではなにも喋らないという。

 お座敷は他の人たちが賑やかしくしているのだが、旦那とその幇間の所だけが静かになっている。みていると時々、幇間が主人の話に頷いているだけだ。

 志ん朝の観察によれば、日常に悩みがあるのは貧しい人だけではなく、こうしてお座敷を持てるような旦那にも等しくあるようだ。幇間は旦那のその訴えをただ聞いているだけである。人間というのは、相手が答えを用意してくれなくても、訴えるだけで満足してしまう所があるらしい。ある程度、話し終わって旦那が満足した頃になると、「ところで、このことについてはどうなのですか?」と幇間が訊ねる。「そうなのです、そこなのですよ」と旦那はよくぞ聞いてくれたとばかりにもっと深い話を始める。

 そうして旦那は満足をして帰る。一等の幇間は自ら騒ぐことなく、相手の訴えを、それも興味深く聞くだけで座敷を持たせてしまう、ということらしい。



「だからね……」と私。「福祉活動は社会全体に、という言葉が通じないなら、『私は社会の幇間としてがんばりたい』と言ったらどうかね。みんなの訴えを興味深く聞く役割として……」。

「そんなもので、通じるわけがないでしょ」と桜子の強い目が待っている。



 駄目か。それならこっちの方はどうか。と、もうひとつの話を切り出す。

 私の知り合いだった男にすごく女性に持てる者がいた。この男のために家庭を捨てて北海道から上京してしまった女性もいた。男の顔はジャガイモのようなのに、どうして持てるのかわからない。

 それで、私はその理由を訊いたのだった。

 すると、当人が応えて曰く。人間は、どんな境遇の人でもこの世に生まれてきた理由がある。たとえ容姿に恵まれなくても、お金がなくても、その人にとって、ひそかに他人には引けをとらないと思っている自負がきっとあるというのだ。

 それは、当人の心の奥底に秘やかにしまわれている。



駄目にきまってるでしょ

 それをさっと掴み取ってしまう能力がその男にはあった。つかまれた当人は「あなただけが私をわかってくれる」とついてきてしまう。「その自負が何なのか、自分にはすぐにわかってしまった」。あの時、この男は確かにそう言ったのだった。

 彼はその才能を世のためでなく、自分の欲望のためだけに使った。下世話にいえば女性をそそのかし、次から次へと女性を乗り替えていったのだった。

「おんな詐欺師」と私は彼をそう呼んだ。

 しかし、自分の秘かな自負を認められることが人にどんな救いをもたらすのかを、その「おんな詐欺師」に教えられたということもあった。



 黙ってこの話を聞いていた桜子に私は新たな提案をした。

「社会の『おんな詐欺師』としてがんばりたい、というのは……、きっと、駄目だろうね?」

「駄目にきまってるでしょ」。

 かくして、福祉の現場だけでなく「社会のコーディネーターになりたい」という桜子の思いを伝える言葉探しの旅に、私は立たなくてはならないハメになってしまったのだ。