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聖トマス・アクィナスの藁(わら)くず発言について

2022-09-04 14:10:10 | 日記
聖トマス・アクィナスの藁(わら)くず発言について


トマス・アクィナスは1273年12月6日、聖ニコラウス礼拝堂でのミサ中に何らかの体験をし、その後、執筆も口述も絶った。このため『神学大全』は第三部の聖体の秘跡の項から悔悛の秘跡の項に移ったところで中断され未完となる。兄弟僧レギナルドゥスがなぜ著作を続けないかと尋ねたところ、「私が見たものにくらべれば、私がこれまで書いたものはすべてわらくずのように見えるからだ」と答えたと伝えられている。

以後、この発言に対して様々なことが言われてきた。それはまず、アクィナスが実際に何を「見た」のか、ミサ中に何があったのかという体験に関してのことである。稲垣良典はS=タグヴェルの節を敷衍して、パウロが「そのときには顔と顔とを合わせて見ることになる」(第一コリント 13:12)という言葉で指示しているような「神の直視」のことではないかと推測している(稲垣良典『トマス=アクィナス』、清水書院、1992年、p.191)。そうした神秘主義的解釈を認めたうえで、仕事のしすぎで生じた脳腫瘍のような何らかの疾患による物理身体的原因を示唆する人もいる(かりに何らかの神秘体験をしたとしても、それが断筆の主原因とは考えがたい。なぜなら、同様の(あるいはそれ以上の)神秘体験をしたと見られる諸聖人がみな、アクィナスと同じ行動をとったわけではないからである。それゆえ、断筆の主原因は病気によるものではないかと思う。

しかし、いずれにせよ体験そのものについては結局憶測の域を出ないのだから、問題として重要なのはむしろ、この言葉の解釈の方だ。非常によくあるのは、この言葉を「神学の限界」と見なすことである。もちろん、文字通りにはその通りなのだが、ここから神や信仰に対する言語による知的作業をすべて無意味と見なし、「神学無用論」まで行きつく者がいるが、それはあまりに極端過ぎる。

神学、あるいは人間の知の営みが、神の神秘を把握し尽すことなどできない、というだけのことなら、アクィナスはこの発言以前に既に表明している(たとえば『神学大全』第一部第三問序文「われわれは神について、その「何であるか」を知りえず、ただ「何でないか」を知りうるのみである」(山田晶訳))。ヨゼフ・ピーパーなどは、こうした否定神学的態度を『神学大全』にもともと内在する断片的(非組織的)性質とし、件の発言をそれをはっきりとした形で言い表したものだと見なしている。

「わらくず」発言そのものは、たしかに神学に対する何らかの否定性の表明なのであるが、それを単純に「神学の否定」と見なすよりも、否定的な形での肯定性の表現だと見なす方が、アクィナスの全神学に対する評価としては相応しいのではないか。ヨゼフ・ピーパーが言うように、アクィナスの神学に対する限界の意識は、決して「反知性主義」に結びつくわけではないのだから。

前教皇ベネディクト16世がある説教(国際神学委員会総会閉会ミサ説教(2006/10/6))において、この「わらくず」発言について興味深い考察をしているので、見ておこう。

【聖トマス・アクィナスは、長い伝統を踏まえて、神学において神は私たちの語る対象ではない、と言います。これは私たち自身の規範的考えです。

事実、神は神学の対象なのではなく、神学の主体です。神学を通して語る主体、それは神でなくてはなりません。私たちの言葉と思想は常に、神の語ること、神の言葉が世界において聞かれ場所を持つことを保証することに役立つのでなければなりません。

それゆえ、あらためて私たちは、自らの言葉を捨てること、純化の過程へと招かれていることを知ります。それによって私たちの言葉は神が語りうるための道具に過ぎなくなり、その結果、真に神が神学の客体でなく主体となるのです。】

この文脈から、聖ペトロの第一の手紙の美しいフレーズが心に浮かびます。第1章22節です。「あなたがたは真理への従順のうちにその魂を浄めています」。真理への従順はわたしたちの魂を必ず「浄め」、そうして、私たちを正しいことば、正しい行いへと導きます。

別の言い方をすれば、一般に流通している意見の指示に従い、人びとが聞きたいと思っていることに支配されて、称賛を受けることを期待して語ることは、一種の、言葉と魂の売春と言えます。
 
使徒ペトロがいう「浄め」は、このような基準に従うこと、称賛を求めることではなく、むしろ、真理への従順を求めることです。
(中略)
神の偉大さの前で私たちは沈黙します。私たちの言葉が取るに足りないものだからです。このことは聖トマスの生涯の最晩年を想起させます。人生最期の時、彼はもはや何も書かず、何も語りません。友人が「先生、なぜもはや何も語らないのですか? なぜ何も書かないのですか?」と尋ねました。彼は言いました、「私が見たものに比べたら、今や私のすべての言葉はわらくずに思える」。

偉大な聖トマス専門家、ジャン=ピエール・トレル神父は、この言葉を間違って理解しないようにと教えてます。藁(わら)とは無のことではありません。藁は麦の実をつけます。このことは藁にとって大変価値あることです。言葉の藁でさえ価値あるものです。麦を生むからです。

しかしながら、私が言いたいのは次のことです。これは私たちの仕事を相対化するものです。しかし、同時にそれは私たちの仕事を評価するものです。それは、私たちの仕事のやり方、私たちの藁が真実に、神の言葉という麦をつけるための指示でもあるのです。】
 
教皇ベネディクト16世によれば、アクィナスの「わらくず」発言は、神学それ自体の否定というよりも、ある種の神学的姿勢の否定と理解できる。否定されるべきなのは、神に栄光を帰すことなく、神を真の主体とすることなく行われる、他人の称賛を期待した、言葉と魂の売春としての神学的営みであって、神学そのものではない。アクィナスの「沈黙」は、神についての言葉による知的作業の全否定などではなく、むしろ、神学が神を前にして本当に価値ある言葉を紡ぎ出すために必要な条件なのである。

 (サイト:金田一輝のWaby - Saby より転載)

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