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【シスター・コンソラータ ー 愛の最も小さい道 ー】(第2部・第5章)

2022-09-04 15:27:31 | 日記
【シスター・コンソラータ ー 愛の最も小さい道 ー】(第2部・第5章)

第二部 コンソラータと「愛の最も小さい道」

いよいよこれからくわしく「愛の最も小さい道」についてイエズスがコンソラータに語りたもうたことを聞こう。サーレス師は「イエズスの聖心の世界への福音」という本の中で、そのことをくわしく述べ、更に神学、修徳学上の説明を加えている。本書においては、その説明は十分参照するが、割愛もするつもりである。

簡単にいえば、「愛の最も小さい道」とは、幼きイエズスの聖テレジアの「愛の小さい道」の教えを、ある意味で補ったもので、この道に召されているすべての霊魂が、それを実行して、成し遂げることができるように、もっと具体的な形を与えたものである。この教えは、次の三点に要約される。

(一)絶え間なく愛の心を起こすこと。
(二)どの人の中にもイエズスを見、その人をイエズスのように取り扱い、
   積極的に愛のほほえみを与えること。
 (三)なんにでも感謝の心をもち、それを神のおぼしめしとみなすこと。


この三点はまた、「あるご聖体拝領から次のご聖体拝領までの間、イエズスが勧めたもう神に対する愛、隣人に対する愛、犠牲の機会をひとつも怠らないこと」と言いかえられる。

この道の土台は、心を常にイエズスと一致させている絶え間ない愛の心である。それによって霊魂はイエズスのために、隣人を真実に愛し、神によって与えられた犠牲の機会を有効に使うことができる。

絶え間なく愛の心を起こす愛の祈りは、イエズスがご自分でコンソラータに教えられた。

「イエズス、マリア、あなたを愛します。霊魂を救ってください!」

これをできるだけたびたび、否、自分の務めが許す限り、ある意味で絶え間なく祈るよう、イエズスは願われたのである。この方法は、非常に効果的なものだが、すべての人にあてはまるとはいえない。むしろある限られた霊魂──完全に愛の生活を生きるよう召されている司祭、修道者、あるいは世俗の人に適する方法であり、彼らを愛の完成に導くものである。

またこの方法は、観想的、活動的を問わず、あらゆる修道会の精神に反するところは少しもなく、それどころか、その精神をますます生き生きとさかんにするものである。そして信心生活と完徳の本質的要素である、神への愛、隣人愛、キリスト教的抑制の完全な実行を助けるものである。

イエズスは霊魂内の超自然的生命をもっと生き生きとさせることにより、世界を精神的に刷新したいと望んでおられる。特に、神にささげられた霊魂のうちの超自然的生命を一新させることにより、神のパン種を造り、全世界というパンを、神への愛、隣人愛にふくれ上がるようにさせたいおぼしめしなのである。(マタイ13-33)

第五章 霊的幼児と愛の生活

〈霊的幼児とは〉

霊的幼児の道は、新しい教えではない。それは完全に福音書に基づいている。それについて書かれたものは十分あり、また幼きイエズスの聖テレジアの霊魂や、使徒職や、現代のカトリック生活に及ぼした影響について書かれたものも十分ある。カルメルの小さい花が、その「愛の小さい道」によって神へ導いた霊魂は無数である。そしてコンソラータもその中のひとりであった。まだ若かったころ、コンソラータは、小さい聖テレジアの「ある霊魂の記録」を読み、すっかり魂を奪われ、神にわが身を全くささげたいとの熱望に燃えた。小さい聖テレジアは、「私はすべての小さい霊魂たちに、ことばでは言い表わせぬ主の御慈愛について話したいと望んでいます。とても私より弱い者を見つけることはできないでしょうが、もし万一見当たるならば、そのかたが、全き信頼心をもって、主の限りない御慈悲に任しさえすれば、主は私よりもいっそう大きな御恵みを喜んでお与えになることを深く感じております。」(十一章)と書いているが、イエズスは仰せられた。

「私の限りない慈愛に全く信頼して、すべてを任せてくれる一番弱い霊魂を見つけた。コンソラータ、それはあなただ。私はあなたが最も強く望んでいるよりも、ずっと大きな、奇跡的なことを、あなたのためにしとげよう。」コンソラータは小さい聖テレジアによって「愛の最も小さい道」に導かれ、聖テレジアに栄誉を与えた。神は小さい聖テレジアの「愛の小さな道」を確証し、具体的に、また実行しやすくするために、コンソラータを選びたもうたのである。

コンソラータはいろいろな特別の賜もの、示現、神からの御ことばを賜わった。これらは、霊魂が拒むことも、欲することもできぬ神からの無償の賜ものである。したがって、賜ものを受けた人は、この賜ものにあまり愛着せず、それを自己聖化に用いなければならない。

コンソラータは、それらの賜ものを恵まれた間、自分は全くふさわしくないと感じ、むしろはずかしめられたように思っていた。のちに賜ものを受けなくなっても、心を乱さず、神のみ旨に対する英雄的な忠実は微動もしなかった。コンソラータは書いている。

「けさ(一九三五年八月二日)私はお聞きしました。『イエズスよ、なぜ主は、小さい霊魂に、このように大きな愛をもって、御身をお与えになり、こまやかな心づかいで霊魂を包んで、小さい事柄のひとつひとつまでよくしてくださるのでしょうか。ほんとうになぜでしょう。』その時、私の霊魂に光がはいってきました。聖福音書の中で『幼児らが私に来るのを許せ。止めるな。神の国はこのような者たちのためである。』(マルコ10-14)とあなたは仰せられました。それに続いてあなたの母としての心を示すことばがあります。『そして幼児をいだき、手をおいて祝したもうた』(マルコ10-16)主は幼児らを祝したもうたことで満足なさらず、急に波のようにわき上がってきた御愛のあふれ出るままに、いだきたもうたのであります!

ここに私は心の目で、絵のように、大きな人類という一家族を見ました。年上の子どもたちは働いて生活の糧を得ております。彼らが善良であれば両親の誇りとなります。しかし母親の心の大部分を占めているのは、愛するほかに実際何もすることができない最も小さい者たちです。

イエズスよ、聞かせてください。むすこが学校でよい成績をとって母に栄誉をもたらす時と、そのむすこがまだ小さく、全く母の所有で、着せてあげたり脱がせたり、思うさまかわいがっている時と、いったいどちらが母を喜ばせるのでしょうか。母が愛する子どものゆりかごのそばで感ずる喜びはことばに表わせぬものです。愛撫を受ける子どもと、惜しみなく愛撫をそそぐ母と、どちらがいったい大きな喜びを感ずるか、だれがいうことができましょう。母は小さい子どものために、一番美しくかわいい服を欲し、一番喜ぶものを望み、もし万一いつまでも小さいままでいることができるなら、生涯の終わりまで、決して疲れずに、子どもに対してあらゆる心づかいと愛とをささげ続けることでしょう。

この母と子の愛を信心生活にあてはめますと、それはイエズスと小さい霊魂の間柄の生き生きとした写しのように思えます。小さい霊魂はイエズスの所有、完全にイエズスのものです。そこでイエズスは母としての優しい心づかいで、その子どもたちに、もっとも美しい美徳という服を着せたり脱がせたりなさいます。小さい霊魂は乳児のように、少しも反対しないので、イエズスは胸に抱きしめたり、おいたりなさいます。そのどちらの場合にも、彼らは満足しております。なぜなら彼らはイエズスを愛して、救霊のためいくらかでもイエズスに協力することができるし、イエズスはいつも彼らにほほえみかけておられるからです。この地上で味わうことができる最も大きな喜びは、神のみをもつことです。その時、地上にありながら、天国の喜びを味わいます。そして小さい霊魂は、神とともに、その喜びを味わうのです。……」

小さい霊魂の中には、小さい聖テレジアのような全く清い霊魂だけではなく、不熱心に過ごした時間を、愛によって、償い埋め合わせたいという霊魂もはいっている。コンソラータは自分を後者の仲間に入れている。「私のように希望だけ多く、残念ながら主にそむいたことのある霊魂でも、もし主の御目に小さく映りたいと望むならば、イエズスは彼らになんと優しいかたなのでしょう。母の心づかいで御腕にいだいてくださるのです! 小さい霊魂の希望をすべて満足させてやろうと身をかがめてくださるのです!イエズスのみ罪を全部忘れてくださり、あり余るほどの罪のあったところへ、あり余るほどのお恵みを喜んでそそいでくださるのです。『罪が増したところには、それ以上に恩恵がゆたかになった。』(ローマ5-20)」

コンソラータの修道生活におけるひとつの逸話は、聖フランシスコの姿を思い浮かばせる。

「ある日の午後、少し休もうと思って野菜畑の近くのベンチに腰をおろしました。その時えさをやるとでも思ったのか、ひよこがいっぱい、あっとい間に私を囲み、ひざのところへ飛びつき、ベンチの後にずらりと並びました。私は師父フランシスコのことを思い、追い払いませんでした。ひざの上にいた一羽のひよこをなでようとしますと、びっくりして、小さい心臓が激しく動悸を打ち始めました。それで安心させようと思い抱きしめてやると、静かになりました。まもなくそのひよこを他の仲間へ返し、聖堂にもどりました。……この小さなでき事について、私は別に何も考えませんでした。しかし恵みの光に照らされ、その意味がわかってまいりました。もし私がかわいそうなひよこにあわれみを感じ、ただこわがったというだけの理由で、安心させるために胸に抱きしめる必要を感じたなら、まして人間の心にほかならないイエズスの聖心は、私の霊魂をあわれみ、胸に抱きしめる必要を感じられぬはずがありません!

その朝私は愛徳にそむく罪を犯しました。それで神の御愛にふさわしくないと感じていました。でも別の考えが私を慰めてくれました。あのひよこがどんな功績があったから、胸に抱きしめる気になったのでしょうか? 全くあのひよこにはなんの功績もありません。あわれみにかられてただそうしただけです。それならイエズスも同じ理由で私の弱い心をあわれんでくださるでしょう。イエズスよ、私はあなたのあわれなひよこです! ですからイエズスの聖心に近づき、聖心のすぐそばでイエズスを愛し続けるのが、あわれなひよこにとって自然だと思います。」

このコンソラータのことばの中に霊的幼児の道の本質が明らかに表わされている。それは愛、信頼、自己放棄によって、直接イエズスの聖心に近づくことである。

〈イエズスの好みたもうもの〉

イエズスはコンソラータの心を霊的幼児の道へ導くために、御自ら、いろいろなやり方で努力したもうた。コンソラータは知的直観において、イエズスが聖心に抱きしめてくださる自分自身──というより自分の霊魂を見たが、それはいつも非常に小さい幼児の姿であった。またコンソラータの心に、愛を完成させるため、やがてイエズスは直接コンソラータの心の中に働き、神と隣人に対する完全な愛から、完全な犠牲愛を生じ、その三倍の愛によって、他のすべての徳も完成させたもうのである。

「カプチン修道院にはいったばかりの数年間、私はただイエズスのために一生懸命働くことによってのみ、主への愛を表わしておりました。けれども初誓願(一九三一年四月六日)の前の黙想会の始めころ、イエズスは私に語りかけ、『あなたはいろいろなことに思い煩います。しかし必要なことはただ一つです。ただ私を愛しなさい。』(ルカ10-41~42)と仰せられました。」

「一九三一年の聖霊降臨の祝日に、聖堂で黙想しておりました時、イエズスは次の誓いを立てるよう、私に要求なさいました。『イエズスよ、私はあなたに誓います。私が歩むべき道は愛の道であることを確信します。全くあなたに信頼しながら、この道を歩み、今から臨終に至るまで、ただ愛のためにだけ生きること、絶え間なく愛の心を保つことを約束いたします。』」

 「このようにして私の道は、はっきり定められたので、この道を歩む間全く光に満たされておりました。しかし特別な苦業(注)をする好みに負けるたびごとに、その光はうすれていって、私は暗やみと恐怖におちてしまいました。そのころ私はほんとうに苦業を熱望していました。それでそれを実行する許可をいただきました。幸いにして、私の心のうちのイエズスが指導してくださいました。イエズスがいらっしゃらなかったら自分の健康を非常にそこねたでしょう。特に血を流すまでからだを鞭打つことを好み、屋根裏で鋭い角のある鎖で実行しました。過去の罪を血をもって洗いたいと希望したのです。イエズスは私の希望を満たし、見つけられないように助けてくださいましたが、やがてそれらの苦業は主のおぼしめしではないこと、もっと簡単な生活によって霊魂を救い、完徳に達するのであることを、いろいろなできごとにより、最後にははっきりした命令によって明らかにしてくださいました。」

「もう六十年以上も告解もご聖体拝領もしない霊魂のために私はイエズスに祈り、一週間寝床として板を使うことにしました。また毎日からだを鞭打ち、一週間じゅう二本の苦業帯を用いることを決心しました。院長様は許可を与えてくださり、もしイエズスがその霊魂を改心させてくださったら、この特別な苦業の道を続けてもよい、改心しないならやめなければならない、と定めてくださいました。院長様は霊魂が改心するかしないかによって神のおぼしめしを悟りたいと思っておられたのです。改心のためと定めた日が近づきましたが、その霊魂は、地獄も恐れない、改心しないと強調しました。(その霊魂とは、コンソラータの伯父フェリチェ・ビアノだった。ずっとのちに、コンソラータの絶え間ない愛の祈りによって、イエズスが改心させてくださった。)その日の朝、すぐに院長様に苦業の道具を全部渡して、その時から用いたことはありません。このはずかしめによってイエズスは、私を決定的に愛の道へ導いてくださいました。」

「一九三四年のご降誕祭が近づいたころ、また私は何か特別の苦業、少なくとも苦業帯を使って心の準備をしたいと強く望みました。しかしイエズスは、私の苦業帯は愛の祈りをひとつも怠らないことである、と仰せられて、それをお許しになりませんでした。」

「特別のお恵みをうるための九日間の特別の断食をしたいと思いました。その結果は、会則に命じられた普通の断食をも二十日間守ってはならぬという禁則をいただきました。」

イエズスの好みたもうものは、苦業そのものではなく、その中に含まれる愛の精神である。たびたび肉体的苦業の中にさえもごう慢、虚栄心、自己満足がはいってくる危険がある。ゆえにその危険を避けるため、霊魂を直接神と一致させ、特に精神的苦業に励ませる霊的幼児の道という、より安全な方法へ導かれたのである。コンソラータが、この霊的幼児の道を歩み続けているのを見て、イエズスはしばしば満足の意を表わされた。そのためコンソラータは、確かに神から大きな賜ものと特別のお恵みをいただいた。それがなぜだったかについてイエズスがご自身答えておられる。

「見よ、コンソラータ、人々は、私が霊魂に与えた恩恵の多少によって徳の程度を量るならわしである。しかしそれはまちがいである。私は意のままに、自由に行なう。例えば私があなたに与えた大きな恵みは、あなたの徳に値するであろうか? かわいそうなコンソラータ、あなたは何も徳をもっていない。功績もない。あなたは何ももっていないのだ! あなたは前に罪をもっていたが、私が永遠にその罪を忘れたから、今では、その罪は存在しない。なぜ私はあなたに対して特別に、非常に多くの恵みを与えたのだろうか? 私は意のままに恵みを与えることができるし、それに私にはひとつの弱点があるのだよ、小さい霊魂が特に大好きだということ! 小さい霊魂があんまり大好きだから……だれも私を不公平だといって責めることはできない。最高位の主はその欲するままに、欲する人に、王のように豊かに、自分の宝物を与えることができるのだから。」(一九三五年一二月一五日)

コンソラータは欠点をもっていた。だから神から賜ものをいただくのはふさわしくない、と思う人がいるかもしれない。だがその結論の仕方はまちがっている。特別の賜ものはほうびとしてではなく、イエズスの御ことばどおり、全く無償に、全く自由に、与えられるのである。

一九三五年三月十九日聖ヨゼフの祝日に、イエズスは聖ヨゼフの聖性に関する大きな啓示を、コンソラータに与えられた。それに対してこのつつましい修道女は驚き、また深く感動して答えた。

「イエズスよ、なぜこんなに何もすることのできぬ無力な私に、そういうことを全部お話しくださるのですか。なぜたくさんのことがおできになる偉大なかたがたに、それらのことを隠しておおきになるのですか。」

─イエズス─「小さい者に、私は全部を話す。」

主はまたコンソラータの死後における、未来の使徒職について預言したもうた。コンソラータはあまりのもったいなさにすっかり当惑して、ある日のこと、主はあまりに多くのことを語りたもうのではないかと、遠慮しながら、申し上げた。一九三五年十二月十二日イエズスは仰せられた。

「あなたの未来について私はあまり話しすぎるだろうか? あなたに全部いっているのだろうか? そう、そのとおり。だが、心があふれてくるからどうにもならない。あなたはほんとうに小さい者だね。だから私の言ったことをみな書きとめておくことで満足している。何もかも書きとめておきなさい。私はそうしてほしい。それだから、あなたにみんな話すことができるのだよ。」

「母が一番小さい子を抱いて愛撫するとき、大きい子どもに話さないようなことをいっぱい話すものだということに気づいたことがあろうか? 母の心はあふれてどうにもならないので、ただ母に笑いかけることしか知らぬ小さい者に、その未来について大切に心にしまいこんでいるいろいろな計画をみんな話さずにはいられないのだ。母は子にみんな、ほんとうに何もかも話すだろう。ちょうど、今、私があなたにしているように。しかし子どもが話せるようになり、『だれにそのきれいな服を作っていただいたの』と聞かれれば、うれしそうに、『おかあさん』と答え、その服を持っていること、ほめられたことを喜ぶようになるだろう。

 「あなたは大きな霊魂と小さな霊魂の相違に気づいただろうか。小さい霊魂は、その霊魂を飾る善徳を喜ぶ。なぜなら善徳を与えたのは神だから。一方、大きな霊魂は、善徳を得ようとして非常な努力をしたのであるから、ごう慢のために失くしはせぬかと恐れるあまり、善徳を隠す。コンソラータわかりましたか。小さい霊魂にすべてを話す理由はそこなのだよ。小さい霊魂は、賞賛、名誉、光栄を全部私にだけ帰して、私から何も奪わないからね。」


コンソラータは愛と真心をもって、小さい霊魂を聖とする神の御働きにすべてを任せた。

コンソラータは神の御ことばをよく理解した。単純で完全な信仰を持っている霊魂なら、同じようによく理解するだろう。もちろんその信仰はいつも教会の不謬性に基づいていなければならない。本書に集められたイエズスの、コンソラータに対する個人的天啓の正否を判定する権利は教会のみにある。

─イエズス─「書きのこしておくように要求する理由は、私のことばが多くの実を結ぶからだよ。時として私の考え方が子どもっぽく思われるかもしれない。しかしそれは、ほんとうに小さい者であるあなたに、私のことばを合わせるためだ。よく覚えておきなさい。私のすべてのことばは、霊であり、生命である!」(一九三五年一一月九日)

言い表わせぬほど困難な仕事の連続で息もつけなかったある一日の終わりに、コンソラータはイエズスに向かい、こんなに多くの仕事に圧倒されて、イエズスに対し愛を絶え間なくささげることができなかったから、ゆるしてくださるようお願いしたが、主は慰めて仰せられた。

「大きな霊魂にとっては、欠点となることも、小さい霊魂にとっては欠点とならない。そしてあなたは小さい霊魂だね。私は欠点をみな、善いものに変えてもよろしい。私が
 あなたのうちで愛したのだから、あなたのきょうの一日を、ひとつの絶え間ない愛の祈りとして数えよう。」


またある時、指導司祭の連続説教が成功するように祈っていた時、イエズスは仰せられた。

「よろしい。この説教は永遠の生命への豊かな実を結ぶであろう。小さい霊魂に私はすべてを与える!あなたは私に何も拒まないから、私もあなたに何も拒まない。」(一九三五年十月十六日)

これが恵みを与えたもう時、特に霊魂の聖化を求める時、必ずなさるやり方である。すなわち霊魂が自分の弱さを感じても、少しも妨げにならない。自分の弱さを認めて、イエズスにすべてを信頼すれば、イエズスは、必ず神としての全能の御力によって、強め、助けてくださるのである。

─イエズス─「私の力はあなたのために、いつまでも、全然なくなるということがない。いつもあなたに私の力を与えることを、よく覚えておきなさい。あなたに私の徳を与えるわけは、あなたが全く弱さそのものだから!」(一九三五年十一月十三日)

コンソラータは、自分の弱さと、神のみ前の小ささを深く確信していたので、神はご自分の召使のいやしさを愛した。そしてそれほどしみじみ自分の弱さを感じたがために心の中でいっしょに働いてくださったのである。ゆえに神の恵みを呼び下したものこそは霊的幼児の道であった。


注)苦行とは、情欲を抑制するため、あるいは自分または他人の罪を償うため、精神がいっそう効果的に神意にそうようにするために、人びとが自分自身に科す厳しい態度や生活様式をいいます。鞭や鎖を使用する肉体的苦行は、カトリック教会においては非常に伝統的であり、かつ現代でも行われていることです。使用される鞭は、紐(ひも)を編んだ物で、金属やその他固い部分はなく、体に傷跡が残るような使い方ができないものです。通常、週一回、「主の祈り」などカトリックの代表的な短い祈りを唱える間、自らが加減して使用します。苦行帯として使用する鎖も、血を流すほどの苦痛を与えるものではなく、日に1 度、わずかの時間(数時間)、使用するだけです。いずれの犠牲も、日曜日やカトリックの暦上の祝日には行いません。しかしながら、いわゆる苦行を行わず、毎日の仕事や家庭生活の中で出あう様々な小さな困難や矛盾を利用して、神様のため、人々のために喜んで明るく感謝して生きるように努めることこそが、本質的な「苦行」であると考える人たちもいます。(現代カトリック事典およびオプス・デイのサイトから編集掲載)

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