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【シスター・コンソラータ ー 愛の最も小さい道 ー】(第1部・第4章)

2022-09-04 15:27:15 | 日記
【シスター・コンソラータ ー 愛の最も小さい道 ー】(第1部・第4章)




第四章 神は指導司祭をつかわす

〈霊父〉

一九三〇年二月二八日、ピエリナは着衣して、コンソラータという修道名を与えられた。四年間ぐらいは特別の霊的指導を受けず、修道会付きの聴罪司祭の指導に従った。「その時、私は非常に困りましたが、一度も他の指導司祭をお願いしませんでした。自己犠牲のひとつとみなして、その聴罪司祭の指導に従い、それをとうとい神のみ旨とする契約を立てました。告解の時、通常四、五分以上話しませんでした。それで十分でしたし、神父様のお勧めは私の心の適当な糧でした。いくらか不満を感じても、そのようにいたしますと、イエズスは満足しておられ、それによって私の心も満足いたしました。」

シスター・コンソラータは特別の指導を願わなかったが、神が、そのご計画に応じて、ある指導司祭を定めたもうた。だんだん特別な指導がどうしても必要になってきたからである。一九三三年、コンソラータは以前よりも光と指導の必要を強く感じ、自分の心をよく知っている院長に相談した。院長は、悪魔にだまされぬよう神の御助けを願いなさい、と勧めた。その年の秋、熱心な司祭が黙想会の指導をしたが、コンソラータはその司祭の指導を願った。一年間ほどその司祭の指導を受けたが、非常にきびしい苦業を好む人で、愛の単純な道に導かれていくコンソラータには適当でなかった。イエズスは、適当な司祭をご自分で定め、つかわすと約束され、一九三四年五月、その約束を果たされた。それはロレンツォ・サーレス師であった。コンソラータはサーレス師の協力を得て、いくつかの家庭をイエズスの聖心にささげたが、その関係で、時々師に手紙を書いた。神の御恵みに勧められ、ある時、心のベールを少しかかげて、イエズスが心のうちに働いておられることを師に話した。師から来る返事には、コンソラータの意見と違うところがあって、それによってはずかしめられるような思いをしたが、同時に、その手紙はコンソラータにとって非常に有益なものだった。そこで、コンソラータはサーレス師を深く信用するようになっていった。一年後、コンソラータは手紙ではっきり霊的指導を願った。サーレス師は
短く、しかし固く断わった。だが神のみ摂理によって、断わったにもかかわらず、実際には指導することになった。

一九三五年七月二六日イエズスは仰せられた。「きょうからサーレス神父は、あなたにとってイエズスと同じだ。私のことばと神父のことばに違うことがあってもだいじょうぶだから、いつでも神父のことばに従いなさい。」

サーレス師は総告解のように、現在までの霊的自伝を書くことを、コンソラータに命じた。それは修道生活上の祈りと働きの義務を果たした夜おそくでなければ書けなかったから、非常な努力を要した。ようやくにして聖マリアのご誕生の祝日にでき上がった。それを院長の所へ持って行くと、院長はサーレス師からコンソラータへの、「全部焼いてしまうように。」という命令を受け取っていた。だが、院長には、「その自伝を受け取って保管しておいてください。」と頼んであった。

コンソラータはサーレス師に手紙を書いた。「けさ早く、神父様から頼まれました仕事を終わり、日記、ノート、その他私の書きましたもの全部とともに袋に入れ、先ほど院長様にお渡ししました。院長様はあなたのお手紙をくださいました。完全に自分をおささげしておりますので、書いたものになんの愛着もございません。どうぞご安心ください。院長様は、何もお読みにならないで袋ごと焼いてくださるでしょう。コンソラータも、その書いたものもほんの毛筋一本残っておりません。ご満足していただけると思います。わが神よ、わがすべてよ。」

あれほど苦労して書いたもの全部を焼いてしまうことに、犠牲を感じなかったはずはない。謙遜に満ちた総告解を、指導司祭が読んで、心の必要をよく理解し、罪のゆるしを与えてくれるだろうと望んでいたのに。そのころ、イエズスは黙っておしまいになっていたので、コンソラータの霊魂の中に起きた嵐は、非常に心を苦しめた。だが、たとえその嵐の最中に孤独でいようとも、悪魔に負けず、雄々しく善徳の道を歩み続けた。二日後、指導司祭に書いた。

「イエズスは、私のあわれな霊魂を、最も深い暗やみに落とし、戦うべき悪魔の声のほか、何も聞えません。神の沈黙と、この恐ろしい暗やみにもかかわらず、私は完全に満足しております。嵐の中で、私は義務と、神に約束したことを忠実に果たすことに、かかりきっております。絶え間なく神と隣人を愛することによって、慈悲深い神への完全な自己献身をお見せできますように、今のままの生活を、いつまでも続けられましたら、幸いと存じます。イエズスのこと、私のかわいそうな兄弟姉妹(迷える聖職者たち)のこと、世界の平和、イエズスの聖心がすべての人の心を治めたもうように、ということばかり考えております。その目的に達するためには、神の御助けによって、あらゆることを覚悟しております。自分の義務を完全に果たすことによって、神と隣人を心から愛します。最後まで。」

翌日、指導司祭は修道院へ来て、告解場で、全生涯の罪のゆるしを与え、これから、神のみ前にコンソラータの霊魂の責任を持つ、と言った。

ずっとあとになってサーレス師は、実際は焼かずに、院長に保管を頼んでおいたコンソラータの霊的自伝その他の書きもの全部を、院長を通してコンソラータに返した。その時再び、コンソラータはイエズスを心に感じた。

〈イエズスのみ〉

このように、神は、コンソラータに対して、特別な指導司祭をつかわされたが、霊魂の指導についてイエズスは教えられた。

第一に、そういう特別な指導は例外である。修道者たちは教会法に定められた聴罪司祭に従えば十分召し出しの目的に達しうる。

 第二に、すべての修道者の直接的、最高位の指導者はイエズスである。イエズスこそは、霊魂が聖となることを無限に望み、それぞれの必要に応じて、あらゆる司祭よりも、直接、完全に助けることができる。一九三五年十一月五日、イエズスは、コンソラータに仰せられた。「なぜ私が霊魂を指導してあげたいかというと、私だけが霊魂について、根本的に、完全に知っているから。私はあらゆる霊魂のうちに生きているので、どんなことにも気がつく。私は自分が聖なる者であるから、あらゆる霊魂が、私と一致して聖となってくれることを、飢えかわくように望んでいる。」

特別に選ばれた霊魂の指導者が、特別につかわされ、それぞれ特別の賜ものをいただくのは、その特別の指導者と被指導者二人自身のためばかりでなく、そういう特別な指導と賜ものによって、神は他の霊魂をも恵み、助けたいおぼしめしである。神はそういう賜ものを全く自由に与え、指導司祭をも全く自由に選んでつかわす。神が、指導司祭を定めてつかわしたことが明らかだったら、つかわされた者は、ある意味で、盲目的にその指導司祭を信用して、従わねばならぬ。そうすれば、神の望みたもう完徳の果実を収穫することができるだろう。

なぜ、コンソラータは特別な指導を与えられたのだろうか。第一の理由は、心の暗やみの中で、残酷な試練を受ける時、悪魔ではなく、聖霊に導かれているという安心をうるため、どうしても必要であった。一九三五年十月二十日イエズスは仰せられた。「心が暗やみの間、何が心を平和にし、進歩させるだろうか。神父様が『安心してください。あなたの中に働いておられる御方はイエズスです。』と書いてくださることば以外はない。」

第二の理由は、次のイエズスの御ことばに表われている。「あなたが盲目的に、私に信頼しているのでほんとうにうれしい。だがあなたは、現代のことしか見ず、今のことしか気がつかない。私は将来のことを見ている。だから、この神父様を最後の息をひきとるまで、あなたの指導司祭ときめたのだ。」コンソラータはイエズスが心のうちにおられることを感じなくなり、御声も聞けなくなるが、全くひとりで、暗やみの中を、ただ指導司祭のことばだけを頼りに、自分に定められた道を進んで行かねばならなかった。

第三の理由は、コンソラータの生涯が終わりを告げる時、イエズスがお示しくださったことを、その書いたものの中から集め、全世界の霊魂に伝えるために、この指導者を定められたのである。

同時に多くの指導司祭を持つことは、同時にいろいろな指導に従わねばならぬから、混乱を招くし、事実、従順は不可能となる。イエズスが指導司祭を定めてくださったならば、そのただひとりの司祭を通してのみ、必要な心の照らしと助けが与えられる。

─イエズス─「あなたはただ盲目的に神父様に従いなさい。なぜ? 私は他の人ではなく、この神父様を通してだけ、あなたの霊魂に光を与える。だから心がどんな状態にあっても、必要な照らしは、この神父様を通してだけ与えられることを忘れてはいけない。この神父様の指導と、毎週告解の時の聴罪司祭の指導が違うことがある。告解の時には、霊的指導ではなく、主に罪のゆるしをいただき、霊的進歩のためには、指導司祭にだけ従いなさい。」(一九三五年十月二一日)

聴罪司祭は変わっても、指導司祭は最後まで変わらなかった。聴罪司祭から非常によい勧めを受けても、時に、霊魂が特別必要とする勧めでない場合があったが、指導司祭のことばは、いつもまさに適切であった。

─イエズス─「毎週あなたが聞く聴罪司祭の勧めが、たとえ私があなたに望むところと違っていても、そのままそのことばを受け入れなさい。特別な照らしは私が定めた指導
 司祭からだけいただきなさい。」(一九三五年十二月三日)


〈指導司祭に従うこと〉

指導司祭に従うために必要なことは、(一)人間的に指導司祭に愛着しないこと、(二)盲目的な従順である。イエズスはコンソラータの霊魂を指導司祭に任せる前に、司祭のペルソナに全然愛着しないように十分準備されたが、任せてからもそのことについては非常にきびしかった。毎月一度指導司祭に心の状態を報告することは許したが、その司祭を呼ぶことは絶対に禁じた。

─イエズス─「神父様が来ることを一度も望んではいけない。必要な時に私がつかわすから。神父様の返事によって、あなたの霊魂に必要な栄養を与えてあげよう。それは一月に一度で十分である。そうすればあなたは特別目だつことがなく、他の修道女たちとの共同生活にさしさわりがないから、私も満足する。」(一九三五年十月二六日)

修道生活という共同生活において、賢明に身を処し、他の姉妹たちに愛を示すため、また司祭は非常に多忙なため、一月一度だけ心の報告をすることが許され、そのうえ、どうしても必要なことばだけあっさり短く書くよう要求された。指導司祭からの返事は、霊魂に役だつ限り保存することは許されたが、愛着することは堅く禁じられた。そのため、指導司祭に少しも愛着することなく、イエズスの御恵みによって、純粋な愛への道を急速度で進むことができた。

完徳とは、根本的に、神の御愛につながることだが、そこへ達する方法が霊的指導である。コンソラータは、完全な自己奉献と神に対する絶え間ない愛において、最高の完徳に達するよう特別召されていたので、完成を妨げ、心を乱すすべてのことを遠ざけ、犠牲にすることを要求された。だから指導司祭のペルソナに愛着しないよう要求されたのも当然である。したがって司祭のうちにペルソナを見ず、イエズスのみを見るよう非常に努力した。

─イエズス─「サーレス神父様はまるで全然存在していないように、神父様を見ないで私だけを見なさい。神父様に対して愛や尊敬など全然持たないでよい。そうしないなら私に対して不忠実になるのだよ。そのように完全に絶対的に、神父様そのものを見ることをあきらめないなら、神父様はあなたを愛の頂上まで導いてくださる助け手となるかわりに妨げとなり、愛着する時間は全くむだな時間となる。」指導司祭に報告を書く時も、返事をもらっても、司祭の中に常にイエズスのみを見、ほんの少しでも思い、望み、ことばにおいて、司祭に、人間的な愛着を持つことは許されなかった。だから指導司祭が修道院へ来るようにとか、返事を書いてくれるようにという望みを持つことも禁じられたのだ。

─イエズス─「あなたの霊魂に指導司祭からのたったひとつのことばでも必要ならば、私の考えで神父様に書かせよう。またあなたも神父様にどう書いたらいいかと考えなくともよい。ちょうどいい時に書くべきことを知らせてあげよう。」

このような指導には、人間的満足は全然なく、絶え間ない自己犠牲があるばかりである。

─イエズス─「私はよくわかっている。あなたにとって、指導司祭がいなければ、どんなに楽だろう。だがそうしてあげれば、もう苦しい十字架でも、心の殉教でもなくなるだろう。」

全く霊的指導を受けることは、絶え間なく激しく自己をささげることであり、真に十字架そのものであった。言い換えれば霊的指導は、心の慰めのためではなく、まちがった考えや妨げに勝って、完全な愛に反するものはすべて遠ざけ、ついに完徳に達するため、心の照らしを受けることである。

ある日、コンソラータはひどくのどがかわいたが、一日じゅう全然水を飲まなかった。それに対してイエズスは仰せられた。「その犠牲よりも、思いとことばにおいて完全に沈黙すること、と絶え間なく愛の心を起こすことのほうがずっとよかった。あなたは心のうちで神父様が旅行から帰って来たかどうか聞きたいと思ったでしょう? ただ私だけのことを考えなさい。あなたはただ、私が、与えたいものを、与えたい時に、与えるのを受けるだけ。」

コンソラータに対する、イエズスのこのような要求は、すべての修道者にあてはまるわけではない。けれども自己献身なしに、霊的指導が、神のご計画に定められた結実を
もたらすことは不可能であるし、また、霊的指導が純粋でなければ、心の成聖と平安に達することはできない。

イエズスは、「私と御父は一つである。」(ヨハネ10-30)と仰せられたが、コンソラータに対しても、繰り返し「私とサーレス師は一つである。」と言って、師を使って直接コンソラータを指導された。更に「しかし私とコンソラータも一つである。」と加えられた。

─イエズス─「十字架上で死ぬ前に、私はあなたたちを孤児として残さず、あなたたちのために、ご聖体を与えた。同じように私は今、あなたから去り、あなたはもう私を全然感じなくなるが、この神父様によって、私は、私自身、私の神としての心、私のことばをあなたに与えよう。だから、この神父様にどこまでも熱心に従いなさい。」(一九三五年十月二五日)

─イエズス─「私の計画を成就するため、あなたに一つの要求をしよう。約束を忠実に守り、指導司祭に対して盲目的──もし必要ならば、英雄的に従いなさい。……盲目的に従っている間、あなたは愛の道を、巨人のように歩むばかりでなく、巨人のように飛び進むだろう。だが万一、盲目的に従わないなら、あなたは滅びるだろう。」(一九三五年十月十一日)

盲目的な従順とは、神の照らしもなく、良心に逆らっても従うという意味ではない。人間的、自然的な考えの代わりに、神のあふれてくる光に導かれ、良心が神に対する愛によって、従うことで、つまり、神がご自分で、上長や指導司祭を通して私たちを指導してくださることが、信仰の光によってはっきり見えるので、完全な超自然的な考え方で従う、という意味である。

─イエズス─「私があなたの心から離れる前に、私に次の堅い約束をしてほしい。あなたはいつも『私は従う』ということばで自分を捨てなければいけない。『私は従う』ということばは、今も将来も、あなたの行ないのすべてを表わすことばにしてほしい。この従順は、ほんとうに英雄的にならなければならない。英雄的な従順により、すべての善徳は英雄的な程度にまで達するだろう。それを私は約束する。これからは、誓願を立てたためではなく、私を愛するために、私を喜ばせたいために、確信をもって神父様に従いなさい。」(一九三五年十二月五日)

この誓約とは、一九三五年十月二二日イエズスのとうとい聖心にささげられたもので、コンソラータはそれを真に英雄的に、忠実に守った。だからイエズスの御約束は完全に成就された。

─イエズス─「コンソラータ、私はあなたのうちにいる。将来のことを預言しよう。私は、指導司祭に対する英雄的な従順を、あなたに与えよう。そうすれば、深い暗やみの真最中にも、愛、苦しみ、喜びの最高頂に達するまで、無事に進むことができるだろう。」

この霊的指導は、実際上どのように行なわれただろうか。その司祭はだんだん修道院へ来なくなり、コンソラータは一度も訪問してくれと頼まなかったから、ほとんど手紙の往復だけになった。そのため、その司祭は神のご計画を実行するための貴重な資料をうることができた。またコンソラータにとっても、司祭の返事は一月間の心の糧として十分だった。

この霊的指導が、コンソラータにとり、十字架と殉教となる、との預言は文字どおり成就した。まず司祭のペルソナに愛着するな、とのご命令を実行することは、悪魔の猛烈な反撃のため、特にその司祭に対する反感のため非常に苦しかった。

この指導司祭は、コンソラータを深い思いやりをもって、ていねいに取り扱っただろうか? 全然反対である。父のような同情は持っていたが、きびしく取り扱って、厳格をきわめた。コンソラータも決して柔弱な霊魂ではなかった。ある手紙に書いている。「どうぞお返事を投函なさらないでください。ほんとうに聖人になるため、私のような感じやすい霊魂には、絶えざる自己献身が糧としてどうしても必要です。……ひとつだけ望みがあります。どうぞ私の欠点を切りとって、なくしてください。けずったり、やめたりすることに、全然遠慮しないでください。……繰り返して申し上げますが、遠慮なく私に注意してください。神父様がコンソラータの自己心に重傷を与えた手紙は最も私に役だちました。」

その望みに、文字どおり応じた指導司祭は、コンソラータの最後の年、あまりきびしく取り扱いすぎたのではないかと、良心の呵責を感じた。それをいうと、コンソラータは答えて、「あなたのきびしさのために、町にたつ埃にすぎぬ私に、おあやまりになるのですか。神父様、そのきびしいやり方なしには、コンソラータの心は、無事永遠の岸べに到着できなかったでしょう。コンソラータが、ほんとうに、全く、いつも神のみのものであるために、そのきびしいやり方はみ摂理の道でした。もしあのように取り扱ってくださらなかったら、私の心は、人間的に愛し、それによって生じた損害はだれにも量ることのできないたいへんなものだったでしょう。イエズスはすべて非常によくしてくださいました。」

 実際、イエズスのみが、すべてを、なしたもうたのである。

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