10月29日は「手袋の日」だそうで、片手袋研究家としては何かしら発信しないとまずいだろう。ということで、最近見た映画に出てきた手袋について少し書いておきたいと思う。映画のタイトルは『最後の決闘裁判』という。以下、ネタバレ含むのでご注意ください。
舞台は1386年のフランス。タイトルの通りフランス史上最後に行われた決闘裁判の映画化で、監督はリドリー・スコット。公式ホームページに掲載されているあらすじは以下の通り。
歴史的なスキャンダルを映画化!衝撃の実話ミステリー。 リドリー・スコット監督がジョディ・カマー、マット・デイモン、アダム・ドライバー、ベン・アフレックという豪華キャストを迎え、実話を元に、歴史を変えた世紀のスキャンダルを描くエピック・ミステリー。《STORY》 中世フランス──騎士の妻マルグリットが、夫の旧友に乱暴されたと訴えるが、彼は無実を主張し、目撃者もいない。真実の行方は、夫と被告による生死を賭けた“決闘裁判”に委ねられる。それは、神による絶対的な裁き── 勝者は正義と栄光を手に入れ、敗者はたとえ決闘で命拾いしても罪人として死罪になる。そして、もしも夫が負ければ、マルグリットまでもが偽証の罪で火あぶりの刑を受けるのだ。 果たして、裁かれるべきは誰なのか?あなたが、 この裁判の証人となる。
本作は三部構成なのだが、基本的に「旧友同士であったカルージュ(マット・デイモン)とル・グリ(アダム・ドライバー)が仲違いしていく過程→ル・グリがカルージュの妻であるマルグリット(ジョディ・カマー)に暴行→マルグリットの訴えは軽視され、遂にはカルージュとル・グリによる決闘裁判までもつれこむ」という過程が三回繰り返して描かれる。
しかし、第一部はカルージュ、第二部はル・グリ、第三部はマルグリットと視点を変えて描かれるため、同じ出来事でも微妙に言葉や行動のニュアンスが変化していくのである。このような形式を「羅生門形式」と呼ぶが、本作は第三部のマルグリットの視点こそ”真実”としてはっきり提示されるため、「真相は藪の中」にはならない。
第三部、被害者であり最大の当事者である筈のマルグリットの視点を通して浮かび上がってくるのは、徹底的に物、あるいは空気のような存在として扱われる当時の女性の立場であり、またそれが2021年の現在においても理解出来る恐ろしさこそ、本作が現代に作られなければならなかった理由だろう。
本作への優秀な論考や背景解説はネット上に沢山あるので、当ブログでは本作における「手袋」について触れておきたい。
ご存知の方もおられるかもしれないが、決闘といえば手袋である。以前調べてはみたのだけれど確実な由来にはたどり着けなかったのだが、ヨーロッパでは決闘が成立する合図として「手袋を片方脱ぐ→相手がそれを拾い上げる(あるいは片手袋で相手の頬を叩く)」という動作が用いられる。映画の中でも度々目にするが、例えば91年版の『美女と野獣』のラスト、いつも喧嘩ばかりしている従者二人がそれを行うのが確認できる。
1386年、フランス、決闘裁判…。これらのキーワードから、私が映画鑑賞前から「出るぞ出るぞ、片手袋出るぞ」と胸躍らせていたのは言うまでもない。果たしてそのシーンは当然のように描かれていた。第一章、国王を前にした裁判において片手袋を地面に置いて決闘を申し込むカルージュ。マントを翻しそれを颯爽と拾い上げ受け入れるル・グリ。
しかし、映画を見ていくと、実はカルージュより先に手袋を脱ぎ捨てる人物がいた事に気付く。それは決闘を申し込まれた側のル・グリである。
第二章。ル・グリがマルグリットに乱暴をはたらく問題のシーン(ちなみにかなり凄惨な描写がされるので、ある種のトリガーになり得る。鑑賞の際には気をつけて頂きたい)。屋敷に急に訪ねてきたル・グリに迫られ、二階に逃げるマルグリット。その際、ル・グリの視点では階段を前にしたマルグリットは、靴を脱いでから上っていく。しかし、マルグリットの視点から同じシーンが描かれる第三章では少々違う。階段を上って逃げるマルグリットは靴を自ら脱いだのではなく、逃げる拍子に脱げてしまうのだ。「靴を自ら脱いだ」と認識しているル・グリは、その行為をマルグリットも自分を誘っていると認識していたのだから本当に都合の良い話だ。
寝室に逃げ込むマルグリット。扉をこじ開け押し入るル・グリ。ここで部屋に入ったル・グリは手袋を脱ぎ捨ててから行為に及ぶのである(第三章、マルグリットの視点からはル・グリの手袋がどのように描かれていたか分からなかった。どなたか教えて下さい)。
この描写。私は明らかに監督が意図的に決闘を申し込む際のカルージュの手袋と重ねていると感じた。つまりル・グリは「聡明でハンサムだと持て囃され自惚れているが故に、マルグリットも他の多くの女性と同じく自分を愛していると思い込み、その思いと性欲の暴発によって暴行に及んだ」だけではないという事だ。恐らくル・グリはマルグリットが”カルージュの妻だから”行為に及んだのである。
領土も地位も名誉もカルージュが手にする可能性があったものはことごとく、ピエール伯の寵愛を受けるル・グリが手にする。映画内では表面上、ル・グリは友であるカルージュの事を思っているようにも描かれていたが、彼はそのことに快感も得ていたに違いない。
しかし、美しいマルグリットだけは自分のものではない。(何故カルージュが…)。その思いがル・グリをあのような行為に駆り立てた。マルグリットに乱暴をはたらくことは、カルージュに対するはっきりとした宣戦布告でもあった。ル・グリはマルグリットだけでなく、カルージュのプライドも同時に犯していたのだ。だからこそ、手袋は脱ぎ捨てられなければならなかった。決闘は既にこの時点でル・グリの側から申し込まれていたのである。
快楽と性欲におぼれた凶行のみならず、恐らくそこには”男同士のプライドのぶつかり合い”という心底どうでも良いファクターまで上乗せされ、マルグリットは傷つけられた。
私はここに「相手も自分を愛していると思った」という都合の良さ以上の醜悪さを感じ取るのである。
まだご覧になっていない方は、是非手袋にも注目してご覧になって下さい。
ちなみに『燃えよ剣』公開中の原田監督のブログに書かれた『最後の決闘裁判』評が悪い意味で話題になっている。『燃えよ剣』は秀作だったので見ていない人まで批判してるのは残念。ただ、私は偶然『最後の決闘裁判』の後、同じ日に見た影響からか「“幕末の志士達の信念”とか言うけど、暴れられた料亭の女将や花魁とか、妻達とか、女性の目からはどう見えてたんだろうな?」と考えてしまったのだった。