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仏道

SRKWブッダによる内容を主になぞるものとなります。

(5)HP(理法)

2020-01-22 12:30:40 | 日記
今回は、ホームページの理法を見てみたいと思います。

理法はホームページトップの正法の一つ下のアイコンを押すと出てきます。



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初めてSRKWブッダのホームページを見る方などを想定し、ブログを初め、その全ては、令和2年1月2日から9日にかけて書いた5回分となります。(^^)
1回目
https://blog.goo.ne.jp/kassii/e/75047f9bda8af97e353ade6cdc27745b
その上で、それ以外のブログに興味をお持ちいただき御覧いただければ、幸いです。m(_ _)m
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開いたページの一番上にある「理法精選」の文字をクリックすると次の説明が出てきます。

ここに、ホームページの内容をそのまま掲載します。

⭕ホームページの引用始まり⭕

【理法】

理法のページは、現代に生きるブッダ(如来)である私(SRKWブッダ)が現代の人々に向けて現代における理法を列記し、現代に生きる人々(衆生)を覚りの境地にいざなうことを目的として設置したものです。 しかしながら、このページに掲載したそれぞれの理法項目を読み、勉強し、努力したとしても、ただそのことによって人々(衆生)が覚りの境地に至るわけではありません。なぜならば、覚りの境地に至るプロセスの真実は、次のようなものであるからです。

● 人をして安穏の境地に至らせ、そこに安住せしめる不滅の法(ダルマ)の存在とその威力についての正しい信仰があり、その法を知って自らがブッダになろうと決心する正しい発心を起こした人が、徳行において精励し、聡明であって、真実の教えを聞こうと熱望し、善知識が発する法の句を聞いてそれが正法そのものであることに気づき理解し、諸仏の智慧を一つでも自らのものとするならば、ついに覚りの境地に至る。

すなわち、人が覚りの境地に至るために本当に必要なのは、正しい発心を起こすこと、善知識と巡り会うこと、(一大事因縁によって)正法を理解することの3つのことであり、知識や学問によるのではないからです。 したがって、覚り以前において現代のブッダ(如来)が語る(あるいは過去のブッダが語った)理法を多く少なく知っていて、それらを頭で理解していることは必ずしも必要なことではありません。つまり、(少なくとも言葉で示されたところの)理法など知らなくても覚りの境地に至ることはできるのです。そして、これら3つのことについては、サイトのメインページの左側に対応するボタン(素質、正法、善知識)を個別に用意しており、その中でそれぞれの真意を説明するとともに、過去の如来の言葉として釈尊の原始経典や大乗経典から、および慧能の六祖壇教から必要充分な引用をし尽くしています。したがって、このサイトを閲覧する人が覚りの境地に至ろうと欲するときには、これら3つのボタン、すなわち素質、正法、善知識のボタンを適宜押してその内容を参照することで、文字として表し得る必要充分な情報を手に入れることができるでしょう。

しかしながら、実際には、発心、正法、善知識についてその内容を何となく理解することは出来ても、それらの本当のところを領解して、それを心から信じることはやはり難しいであろうと思います。なぜならば、覚りの境地について微かなことさえも実感せず、あるいは覚りの境地について微かなことさえ思い至っていない人にとって、これら3つのことをそのままに信じ切ることは理性的にも心情的にもほとんど不可能であろうと思うからです。

そこで、私は、現代に生きるブッダ(覚者,如来)である私自身が現代の人々に向けて現代における理法を語ることで、それらを読んだ人が法(ダルマ)が本当に存在するということを信じ、また人は誰でも欲するならば覚りの境地に自ら至り得るということを信じられるようになって欲しいと考えるようになりました。勿論、過去の如来が語った理法については、現存する原始経典や多くの大乗経典、あるいは主要な論典として膨大な記述が残っており、その中で理法は漢訳、和訳を含めて言葉としては正しく伝えられていると言ってよいでしょう。したがって、人が単に(過去の仏が語った)理法を知りたいと思うのであるならば、それらの文献を精読することでそれを達成できることでしょう。しかしながら、そうは言っても、やはりそれらの文献をそのまま現代の人が読んで理解するには難があろうと思えます。その理由は、それらの経典や論典が書かれた時代と現代とでは、時代背景の違いなどが無視できないほど大きいからです。そのために、そこで記述されている方便、すなわちいろいろな譬え話やモチーフ、テーマ、登場人物のキャラクターなどが現代人にはそぐわないものになっていると思えます。このようなことを鑑みて、私は、ここに現代に生きるブッダ(如来)が現代の人々に向けて現代における理法を敢えて列記することに意義があると考え、それを実行することにしました。

ところで、先に述べたように、理法は法の句(智慧:仏智:無分別智)そのものではありません。それゆえ、繰り返しになりますが、(如来が語る)理法自体は覚りの境地に至るために必ずしも必要なものではありません。したがって、このページに列記した理法は、あくまでも皆さんが覚りの境地に至る正しい道を歩むための補助となるものに過ぎないのです。とは言え、理法はそれを語ることに意味も意義のある方便であって、虚論,空論ではありませんが、これにとらわれてしまうと本当のこと(智慧:仏智:無分別智)が分からなくなってしまう危惧があります。 それは、例えば自転車に補助輪を装着したままでは、自転車を本当の意味で乗りこなすことはついに出来ないことに似ています。なぜならば、補助とは、極めて初期の段階にのみ有効・有益なものであり、その行為に対する恐怖心が克服されたならば不要になったもの、邪魔以外の何ものでもないということを忘れてはならないのです。そのような意味合いから、この理法のページに書かれたことがらを(直ちに)理解できないからといって、それを一々悲観するにはあたりません。ただし、ここに書かれた理法に根本的な疑義を生じた場合には、そのことについて原始経典や大乗経典、および論典などを読み、その上で疑義事項についての観を行って、それを解決すべきであるとは言えるのです。

人がそのようにしてついに覚りの境地に至ったとき、その人はここに列記した理法のすべてについて心から納得が行き、合点するに至ることは間違いありません。言ってみれば、理法のもう一つの役割とは、人が覚りの境地に正しく至ったことを本人が自己確認するためのチェックリストであるのだと言ってよいでしょう。

[追伸]
実は、覚りのチェックリストにあたるものも、いくつかの代表的経典の記述として残され、伝えられています。それらの一部を、引用してここに列記しておきます。

● まさに住するところ無くして、しかも其の心を生ずべし の其の心であること
● 覚れる人は争うことが無い
● ニルヴァーナの境地とは、貪瞋痴の滅した境地である
● 覚りとは、三毒(貪瞋痴)が三学(戒定慧)に変わった境地である
● 功徳とは、見性することに巧みであり、素直なこころが徳そのものであることを云う
● 智慧によって解脱した人には、迷いが存在しない
● 識別作用が止滅するのである
● いろいろのことについて明らかな智慧を得る
● すべての苦しみから脱れる


⭕ホームページの引用終わり⭕

理法についての記述が書いてありました。

仮に、この内容がよく分からなかったとしても、個別の理法ですら、引用中にあるように、

「(如来が語る)理法自体は覚りの境地に至るために必ずしも必要なものではありません。」

とあるので、気にしなくて良いのだと思います。

お読みになる方にとって肝心だと思うところだけ、お読みになる方が押さえておけば良いのだと思います。

また、仮にここで、肝心なことがお読みになった方の中に見当たらなかったとしても、それも問題ありません。

理法の中や、別の経典の中などに見出すことが十分にありえるからです。

難しい文章に出会って、それで自分の気持ちが折れてしまっては、大変残念です。

チューラ・パンタカの例があるように、一般的に世間で言われる学力等と、この道は異なるのであれば、文章の難しさに気持ち(志し)が惑わされる必要は全くないことになります。

今後、このブログで紹介する個別の理法についても全て同じスタンスでいるべきだと私は思います。


「難しくて気持ちが折れそうになるなら、パス! とりあえず次に!」

「難しくて、挑戦しがいがあるなと思ったら、更にその内容を探求へ!」

などなど

やり方はきっと人の数だけあるのだと思いますが、道の歩みを皆様ごとに、進め続けていただきたく思います。

(4)HP(素質)

2020-01-17 08:07:17 | 日記
今回は、ホームページの素質を見てみたいと思います。

素質はホームページトップの善知識の一つ右のアイコンを押すと出てきます。

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ここに、ホームページの内容をそのまま掲載します。

⭕ホームページの引用始まり⭕

【素質】

 人は、それをこころから望むならば、誰でも覚りの境地(=ニルヴァーナ)に至り得る。したがって、覚りの素質などというものは何ら存在していない。しかしながら、実際には、世において覚りの境地にすみやかに至る人とそうでない人がいるのは厳然たる事実である。この事実を鑑みて、すみやかに覚りの境地に至った人には何らかの素質があったのだと後づけで認められ、(死ぬよりも前に)ついに覚りの境地に至らなかった人には素質が無かったのだと認めざるを得ないであろうと言うのであるならば、その時に限り、その意味においてのみ<覚りの素質>ということを論じることができるのである。

 <覚りの素質>とは、一言で言えば素直な人であるかどうかということである。なんとなれば、素直な人だけが、ことに臨んでその素直さゆえに善なる行為を 為し遂げるのであると言えるからである。かれのその行為は、自分ならざる如何なるものにも依拠することなく為されたものであり、それは(強いて言えば)かれ自身のこころの奥深くから突き上げてくる「それ(=真如)」によって発動したものである。それは、およそ人(=衆生)なれば誰しもが執著するところのあらゆる心理的障礙を超えて為される行為である。それは、人を超えた真実の行為に他ならない。それゆえに、それを為し遂げた本人でさえ、行為の本当の理由 (行為の動機たる潜在的素因とも言うべき「それ(=真如)」)の真実を説明することは出来ないのである。それどころか、かれは、自分が為し遂げた行為の本当の意味に気づくことさえない。「それ(=真如)」の発動は、不可思議なる因縁によるものであるからである。

 <覚りの素質>に関する具体的記述は、例えば法華経-方便品第二の中に見ることができる。そこでは、生まれながらにしてすでに発心している人、あるいはこの世において発心し、今生において間違いなく覚りの境地に至るであろう<素質ゆたかな人>の特徴を次のように記している。


******************
*** 引用(法華経-方便品第二の和訳経典から)
******************

{前を略}

 ── 生ける者達の中で、諸々の過去の仏に出会って、教えを聞いて布施し、戒を守ることや、忍耐や、精進や禅定や智慧などによって種々に福徳を修めた、 かかる諸々の人々は皆、仏道を完成するであろう。諸仏がこの世を去っていても、もし人に善軟の心があれば、この様な諸々の生ける者達は皆、仏道を完成するであろう。諸仏がこの世を去っていても、その遺骨を供養する者があって、万億種の塔を建てて、金・銀・頗梨と、しゃこと瑠璃と、攻魂(朱色の珠)と流璃珠とをもって、諸々の塔を清浄に広く美しく飾り立て、或いは石造の廟を建て、栴檀と沈香、木椅その他の香木や瓦や泥土で塔を建てるとしよう。 もしくは、広野の中で、土を積んで仏の廟を建立し、或いは童子がたわむれに砂を集めて仏の塔をつくるとしよう。これらの諸々の人らは皆、仏道を完成することであろう。 もし人、仏の為に諸々の像を建立し、彫刻して三十二相を備えた像を完成すれば皆、仏道を完成するであろう。 或いは七宝でつくり、銅、赤白銅、白銅、鎗、錫、鉄、木、陀土、或いは膠や漆を染ました布によって美しく飾って仏像を作った人々、この様な諸々の人らは皆、仏道を完成するであろう。 三十二相の一々を百の福相によって飾った仏画を壁に自ら描き、もしくは人に描かせた人々は皆、仏道を完成するであろう。 或いは童子の戯れに、或いは草木及び筆、或いは指の爪で仏像を描いた人々、 この様な諸々の人らは皆、次第次第に功徳を積み、大悲の心を備えて皆、仏道を完成し、ただ諸々の菩薩のみを教化して、無量の人々を救うであろう。 もし人、塔や廟の宝像や仏像に花や、香や、幡や、天蓋を、心から尊敬して供養し、もしくは人をして音楽を奏させ、鼓を打ち、角笛や法螺貝を吹き、斎や、笛 や、琴や、竪琴や、琵琶や、鏡や、鋼鉄など、この様な諸々の妙音を悉く鳴らして供養し、或いは歓喜の心をもって仏の徳を讃える唄を歌い、ないしは、一つの 小音をもってしても皆、仏道を完成するであろう。 もし人散乱した心で、しかも、たった一本の花で仏像を供養したとしても、次第に無数の仏を見るであろう。 或いは人あって礼拝し、或いはまた、ただ合掌のみし、ないしは、片手のみを挙げ、或いはまた少し頭を下げて、これによって像を供養したとしても、次第に無量の仏を見、自ら無上道を完成して、広く無数の人々を救い、心も体も余す処なく滅した永遠の平安に入ること、薪が尽きて火が消える様である。 もし人、散乱した心で塔や廟の中に入り、一度南無仏と称すれば皆、仏道を完成するであろう。 諸々の過去の仏が、現在しているとき、或いは世を去られたのちに、もしこの教えを聞く事があったならば皆、仏道を完成するであろう。未来の諸々の世尊達 は、その数を量ることも出来ないが、この諸々の如来達もまた、方便して教えを説かれるであろう。 一切の諸々の如来は、無量の方便をもって、諸々の生ける者達を救って、他の汚れなき智慧に入れられるであろう。 もし教えを聞く者があれば、一人として仏にならぬ者はないであろう。諸仏の立てた誓願は、自分が実行した仏道を、普く生ける者達に、同じ様にこの道を得させたいというのである。──

{後略}

** 引用おわり

 また、六祖慧能による覚りの素質の説明は、六祖壇教に見られる。

 →  慧能(ブッダ)による<素質>の説明

⭕ホームページの引用終わり⭕

素質についてですが、SRKWブッダの著書の中に、それに関する記述があるので、下に紹介します。

【覚りの境地(2019改訂版)】
私も覚れるのか? これが三つ目の基本的な問いである。
この問いは切実である。多くの人々が周到に覚りに達する中にあって、もしも自分だけが取り残されて覚れないとしたならば……などと考えをめぐらせたとき、気後れし、恐ろしくてとても問えないだろう。しかし、勇気ある人はこの問いを果敢に発するに違いない。もちろん、この切実な問いに対しても如来は明確に答える。

『およそ言葉を解し言葉を用いることができる人であって、かれが望むならば覚れない人など一人もいない。』

これがその答えである。

(3)HP(善知識)

2020-01-15 12:35:27 | 日記
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1回目
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今回は、ホームページの善知識を見てみたいと思います。

善知識はホームページトップの正法の一つ右のアイコンを押すと出てきます。

ここに、ホームページの内容をそのまま掲載します。

⭕ホームページの引用始まり⭕

【善知識】
 この世には、世俗の中にありながら、ときとして<真理の言葉>を発する人が現れる。この<真理の言葉>は、それを聞いて、その意味するところを知る人が あるならば、かれをして不滅の安穏(=ニルヴァーナ)へといざない、導き、至らしめる働きを為す。世にも不思議な、稀有なる働きゆえに、この<真理の言葉>を<善知識>と名づけ、同時にその言葉を発したかれ自身も善知識と呼ぶのである。

 善知識は、他の人に好まれる一言を与えようと思って計らう人ではない。なぜならば、善知識は、他の人に期せずして善なる道(=覚りの境地に通じる道)を 与えてしまう人のことであるからである。そして、この善知識が発する<真理の言葉>、すなわち<善知識>それ自体も決して特別な言葉では無く、ごく平易な言葉として語られるものであり、何気ない一言として発せられるのである。したがって、<善知識>は、たといそれがまさしく発せられて、誰かがそれをまさしく聞き及んだとしても、かれに直ちに感激を与えるような言葉では無い。しかしながら、<善知識>は、「それ(=真如,=覚りの境地,=覚者)」の実在をこころに知っている信仰篤き人々に、それがそうだと知られることになるのである。なぜならば、<善知識>は、かれらにこの世における最も美味なる味わいをもたらすからである。<善知識>は、それが発せられた局面に立ち会ったすべての人々を誰一人として悲しませることの無い言葉として特徴づけられ、誰ひとりとして後悔の念を生じることの無い完全な結末をもたらす。けだし、<善知識>こそ世における法(ダルマ)の現れに他ならないからである。

 ところで、善知識は覚りの境地に至ることを目指す人が自分自身で見いださなくてはならない。他の誰かが、「あの人がそうですよ」と指し示してくれる訳で はないからである。しかしながら、もし人が、心構え正しく、よく気をつけて、善なるものの真実を知ろうと熱望するならば、かれはついにその人(=善知識) を見いだすであろう。

 こころある人は、善知識はまさしくこのようにして見いだされるのであると領解せよ。

⭕ホームページの引用終わり⭕


いかがでしたでしょうか?


やはり、正法と同じで「難しい」、「さっぱり分からない」という感想があってもいいのかなと思います。

私なりに要約すると、次のようになります。(しかし、要約は要約です。本来の書き手であるSRKWブッダの意図から、ずれる恐れがあることも含み置いた上で、お読みいただき、再度、元の記述を御覧いただきますようお願いいたします。)

【要約】
この世には、時として、<真理の言葉>(善知識という。)を発する人(やはり、善知識という。)が現れる。それを聞いて、意味するところを知る人はブッダとなる。
 善知識は、それ自体特別な言葉では無く、ごく平易な言葉であり、何げない一言である。
善知識は発せられた局面に立ち会ったすべての人々を誰一人として悲しませることの無い言葉であり、法(ダルマ)の現れに他ならない。

かなりはしょりました


この世には時として、善知識を発する人が現れる。というのは、人が突然、無から現出するという意味ではなく、

ダルマの現れである善知識を時として、口から言葉に出す人がいるという意味です。

さて、前回の正法についてのブログで、このように書きました。

→正法を正しく理解すると覚りの境地を体現(ブッダになる。)することとなると書いてあることが理解できます。


この正法と善知識はどういう関係なのでしょうか。

ツイッター(ツイログ)で、「正法」、「善知識」をキーワードにして検索すると次のようなツイートがありましたので、御参考ください。

【ツイッター】
法の句(善知識)の出現を聞いて、修行者は覚るのではない。法の句(善知識)が、まさに正法通りに世に出現する様を見て、正法への信が確立され、偉大な智慧の確かな存在を覚智したとき、覚りの機縁を生じる。


ところで、前回と今回、ホームページを見てみると、何て難しいのでしょうか、という感想があるかもしれません。

もしかして、

「仏道は難しいのか?」

「SRKWブッダがわざと難解にして、理解しないようにしているのでは?」

などなど

これから見ていくホームページの内容ですが、実際には、難しいものもあれば、平易なものもあります。

また、ツイッター(ツイログ)を見ると、かなり分かりやすい表現を採用していることが理解できると思います。(個々の単語は知らないものも出てくるかもしれませんが。)

【ツイッター(ツイログ)例】

このように、ツイッターとホームページで表現の仕方が異なっていること。また、一番最初のブログで紹介したように、ブッダとは「やさしさの究極を体現した人格完成者」とあるように、やさしいということなのであれば、

わざと理解しないようにしていることはないに違いありません。

ホームページは、覚りについての情報を体系的に構築するため、このような表現方法を取っているものと推定されます。


そのため、

ホームページの記述が難しいと感じても何ら問題なく、

分かる範囲で読み進めればいいと思います。

また、仏道が難解な文章を理解し、記憶する必要があるのかということについては、次のようなお話しがあります。

理法005-関連するもの
チューラ・パンタカ


(2)HP(正法)

2020-01-13 04:21:53 | 日記
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今回は、ホームページの正法を見てみたいと思います。

正法はホームページトップの四角囲いの中、左上のアイコンを押すと出てきます。

ここに、ホームページの内容をそのまま掲載します。

⭕ホームページの引用始まり⭕

【正法】
 正法とは、法(ダルマ)についてそれ以外には解釈しようのない言葉で綴った最も簡潔な文章のことである。それゆえに、正法は、それを真実に理解することができたならば、かれをして直ちに覚りの境地に至らしめるという働きをもっている。つまり、人は聞き知った正法によって覚りの境地に至るのである。以下 に、いくつかの代表的経典に記されている正法を列記する。これらのどれによってでも、人は覚りに至り得る。

● 諸仏世尊はただ一大事因縁によってのみ世に出現したまう(法華経) → 方便品第二
   〔諸佛世尊唯以一大事因縁故出現於世〕

● まさに住するところなくして、しかも其の心を生ずべし(金剛般若経)
   〔応無所住而生其心〕

● 衆生を完成するのに随って、その仏国土が浄らかになる(維摩経) →  詳細は「直き心」

● 真実の教え(正法)をしっかりと身につけること自体が、真実の教えである(勝鬘経) → 詳細は「六波羅 蜜」

● 諸々の尊敬さるべき人が、安らぎを得る理法を信じ、精励し、聡明であって、教えを聞こうと熱望するならば、ついに智慧を得る。(スッタニパータ)

● 尊敬さるべき真人たちに対する信仰を財とし、安らぎに至るための教えを聞こうと願うならば、聡明な人は(ついには)いろいろのことについて明らかな智慧を得る。(ウダーナヴァルガ)

● ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。 ── このように理解した者の形態 (rupa)は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起こるからである。(スッタニパータ)

● ひとは、恐怖のゆえに、優れた人のことばを恕す。ひとは、争いをしたくないから、同輩のことばを恕す。しかし自分よりも劣った者のことばを恕す人がおれば、それを、聖者らはこの世における〈最上の忍耐〉と呼ぶ。(ウダーナヴァルガ)

● ── そなたらのどの詩も、すべて、順次みごとにとなえられた。しかし、わたしの詩にも耳を傾けよ。信仰をもって(与えること)が、実にいろいろと讃めたたえられた。しかし、(与えること)よりも「法の句」のほうがすぐれている。 昔の善き人々、それよりも昔の善き人々も、智慧をそなえて、ニルヴァーナにおもむいた と。(サンユッタ・ニカーヤ1)

● ── そなたらは、すべて、順次みごとに詩をとなえた。しかし、わたしの詩にも耳を傾けよ。ただ、善き人々と共に居れ。善き人々とだけ交われ。 善き人々の正しい理法を知ったならば、すべての苦しみから脱れると。(サンユッタ・ニカーヤ1)

● ── 無明が頭であると知れ。明知が信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭を裂け落とさせるものである。(スッタニパータ)

● 「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。 ── このことわりを他の人々は知っていない。 しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。 ── (ダンマパダ)

-+-
【六祖慧能による正法(六祖壇教から)】
 中国の禅宗の六祖慧能は、間違いなくブッダである。 以下に、六祖慧能が説く正法を記す。
  → 六祖慧能

【補足説明】
 覚りの境地は、いかなる哲学的見解の帰結でも無く、また人類が作為したいかなる宗教的教義に基づく規範行動でもない。もちろん、覚りの境地は本人の単なる思い込みでは無いし、またいろいろな精神障害の結果によってもたらされる病的状態を指すのでもない。なんとなれば、正法の正しい理解によって自らに体現される覚りの境地は、すでにそれを為し遂げた人にとって如実に体験される不滅のやすらぎであり、虚妄ならざるものであるからである。この円かなやすらぎは、一切の煩いと苦悩とを離れている。この円かなやすらぎは、一瞬たりともとぎれることなく体現されるものである。この円かなやすらぎは、いかなる継続的努力(いわゆる悟後の修行)をも要せずに不断に持続するものである。この円かなやすらぎは、無上のやすらぎであると覚知されるものである。

[真理]
 正法の存在、出現、およびその利益(りやく)について述べた真実の言葉が真理である。
  → 真理

[修行法]
 人々の意に反することであろうが、覚りに至る固定的な修行法などは実は何一つ存在していない。しかしながら、観を為し、観の完成を見ることは人の覚りに 役立つものであることは確かである。
  → 観
  → (久松真一氏の)基本的公案
  → (SRKWブッダの)公案: 一円の公案,(SRKWブッダ版) 黒い鏡の公案
  → (準)公案: 預流果

⭕ホームページの引用終わり⭕


いかがでしたでしょうか。
素晴らしいですね!!


さすが正法!!!



とは、難しくて、ならないのではないでしょうか。

では、どんなことが書いてあるのか少しだけ、部分的に見てみたいと思います。

まず、冒頭の部分、それと最後の方にある「補足説明」をもう一度、見てみると、

⭕ホームページの引用始まり⭕
 正法とは、法(ダルマ)についてそれ以外には解釈しようのない言葉で綴った最も簡潔な文章のことである。それゆえに、正法は、それを真実に理解することができたならば、かれをして直ちに覚りの境地に至らしめるという働きをもっている。つまり、人は聞き知った正法によって覚りの境地に至るのである。以下 に、いくつかの代表的経典に記されている正法を列記する。これらのどれによってでも、人は覚りに至り得る。

【補足説明】
 覚りの境地は、いかなる哲学的見解の帰結でも無く、また人類が作為したいかなる宗教的教義に基づく規範行動でもない。もちろん、覚りの境地は本人の単なる思い込みでは無いし、またいろいろな精神障害の結果によってもたらされる病的状態を指すのでもない。なんとなれば、正法の正しい理解によって自らに体現される覚りの境地は、すでにそれを為し遂げた人にとって如実に体験される不滅のやすらぎであり、虚妄ならざるものであるからである。この円かなやすらぎは、一切の煩いと苦悩とを離れている。この円かなやすらぎは、一瞬たりともとぎれることなく体現されるものである。この円かなやすらぎは、いかなる継続的努力(いわゆる悟後の修行)をも要せずに不断に持続するものである。この円かなやすらぎは、無上のやすらぎであると覚知されるものである。

⭕ホームページの引用終わり⭕

この説明から、正法を正しく理解すると覚りの境地を体現(ブッダになる。)することとなると書いてあることが理解できます。

大変重要なことです。

続いて、ホームページ冒頭の説明の次に、実際に列挙されている正法を見てみましょう。上から3つ再掲します。

● 諸仏世尊はただ一大事因縁によってのみ世に出現したまう(法華経) → 方便品第二
   〔諸佛世尊唯以一大事因縁故出現於世〕

● まさに住するところなくして、しかも其の心を生ずべし(金剛般若経)
   〔応無所住而生其心〕

● 衆生を完成するのに随って、その仏国土が浄らかになる(維摩経) →  詳細は「直き心」

正法は大事なのだろうと思って、その具体的な正法を見ても何が大事なのかよく分からない、という感じがします。

ただ、よく考えると、正法を正しく理解すると覚りの境地を体現し、ブッダとなるのですから、今の時点で正法を、理解しているのであれば、その時点で既にブッダになっています。

つまり、正法がよく分からない、理解できない、ということは特段問題ではない、と考えます。

でも、正法を知っておかないと、正法を正しく理解する機会はやってきません。そのため、正法のことを心に少し留めることが重要なことではないかと私は考えます。

勿論、慧能のように、正法を聞き、直ちにブッダになる方もいらっしゃるので、今ブッダになられている方もいらっしゃるかもしれませんが。


さて、話しは少しそれますが、実際のホームページ1つ目の正法の所に、「方便品第二」の文字にリンクが貼ってあります。そこに飛んで見てみましょう。すると、法華経の文章が掲載されています。が、その量がめちゃくちゃ多いのです。

しかし、実際の法華経という経典はもっともっと多いのです。では、このように文字が多い経典を見てどう思ったらいいのでしょうか。

昨年新たにブッダになられた方のうち、一人は、ブッダとなる前に、SRKWブッダのホームページに書いてある理法を読んでも難しくて、よく分からなかったとのことでした。また、慧能は正法を聞いてブッダとなったこと、これらから考えると、大事なところさえ押さえておけば良いような感じもします。

でも、もしそうであるならば、そもそもSRKWブッダがホームページにおいて、長い文章を掲載する意味が無く、そもそも法華経を書いたブッダが意味のないことをしていたこととなります。

そんなことはないに違いありません。これらから類推すると、人それぞれ、道の歩みが異なり、読みたい方は読んで、読まない方は読まない。それで、いいのかなと思います。人によっては、法華経を読むことによって道を確かにし、歩む方もいる、ということかと思います。

正法お手上げという方も、法華経が長いと感じた方でも、それはきっと仏道に適性がないのでもなく、恥ずかしいことでもなく、ひとまず置いておいて、他のものを見てみればいいかなと思います。

もちろん、それらを追求して行きたい方はそれで間違いではなく追求すればいいのかなと。

ただ、ホームページの冒頭に掲載されている
「こころある人は、他ならぬ自らによって道を見いだし、歩み行きて、因縁を生じ、この不滅のニルヴァーナに到達せよ。」
を受け、自分の歩む道の行きたい方向がぶれなければ、何も気にしなくて良いのだと思います。

【参考】
六祖壇経
(受法)
五祖は深夜になって私を室内に呼ばれ、袈裟で遮り囲み、人に見せないようにして、私のために『金剛経』をお説きになられた。ちょうど「応無処住而生其心」というところへきたとき、私は言下に悟って、あらゆる存在は自己に生まれつき具わっている本性と別なものでないことに気がついた。

(法華の持者法達の大悟)
「法達よ、〜略〜、私は文字を知らぬゆえ、君が経典を持って来て一通り誦してみてくれ、私は聞けばすぐ分かる。」
「〜略〜、いま聞いた君の読経のなかに、『諸仏も釈迦牟尼も、ただ一大事のための因縁ゆえに、この世に出でたもうた』と、正しい教えは十六字ある。〜略〜」

(1)HP

2020-01-10 04:21:06 | 日記
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初めてSRKWブッダのホームページを見る方などを想定し、ブログを初め、その全ては、令和2年1月2日から9日にかけて書いた5回分となります。(^^)
1回目
https://blog.goo.ne.jp/kassii/e/75047f9bda8af97e353ade6cdc27745b
その上で、それ以外のブログに興味をお持ちいただき御覧いただければ、幸いです。m(_ _)m
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前回、SRKWブッダのホームページを見るルートを提案しましたが、実際に、ホームページを少しずつ見ていきたいと思います。

提案したルートは正法からでしたが、貼り付けたホームページの画像を見ると、正法の上、最終更新日の下にSRKWブッダが最も言いたいことと思われる文章が、書いてあります。

たくさんの理法、感興句、ツイッターなどなど、それらは全てこの最も言いたいことのためにあると、私は考えています。

それは


覚りの境地は、虚妄ならざる安らぎである。この境地に至ったならば、一切と争うことがない。
 この境地に至ったならば、憂いがない。こころある人は、他ならぬ自らによって道を見いだし、歩み行きて、因縁を生じ、この不滅のニルヴァーナに到達せよ。       

です。
(ニルヴァーナとは、覚った人の境地、つまり、ブッダの境地ということです。)

この短い文章をそのままお読みいただき、皆さんが皆さんの思うように感じ取られるのが一番良く、そこに何か言うことはどうかなと思いつつ、少しだけ書かせていただきます。

この文章で、SRKWブッダは、

□覚りの境地はどのようなものであるか
□覚りの境地にいまだ至っていない人へのメッセージ

これらを、できるだけ簡潔に、しかし、余すところなく、言葉を慎重に選び表現されているものと、私は考えています。


さて、話しは少しそれて、
「この不滅のニルヴァーナに到達せよ。 」
とあることについてですが、

実際に、昨年(令和元年)、SRKWブッダに続いて新たに4人の方がブッダとなられました

この4人のブッダですが、SRKWブッダに関係のある方々がブッダとなったものの、SRKWブッダが、
「貴方はブッダとなった。私が認定しよう。」
「はは〜! ありがたく賜ります。」
(私の妄想です。)

となったのではなく、

4人のブッダがそれぞれ各自、別の時期に
自らがブッダとなった。
という認識を得たということです。(「解脱知見がある」という。)

この4方ですが、

法津如来(のりつ)
法捗如来(ほうちょく)
法風如来(のりかぜ)
石法如来(せきほう)

です。

皆さん、それぞれ、それまでの仏道の歩みは異なっておられ、そこに確たる、こうでなければならないというものは、見当たらない(定まった修行法がない。)ようです。

また、ブッダになる前のそれまでの生き方も当然全く異なり、既にブログで理法を説かれている如来もいれば、そうでない方もいて、それぞれ、その如来によって異なるようです。