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仏道

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(19)HP(理法【011】智慧)

2020-03-13 05:48:50 | 日記
理法【011】 智慧


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初めてSRKWブッダのホームページを見る方などを想定し、ブログを初め、その全ては、令和2年1月2日から9日にかけて書いた5回分となります。(^^)
1回目
https://blog.goo.ne.jp/kassii/e/75047f9bda8af97e353ade6cdc27745b
その上で、それ以外のブログに興味をお持ちいただき御覧いただければ、幸いです。m(_ _)m
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⭕ホームページの引用始まり⭕

「それ」を正しく理解するならば、直ちに覚りの境地に至るその知見を<智慧>と名づける。 この摩訶不思議なる働きこそが智慧の本質でありすべてである。 したがって、人をして覚りの境地に至らしめることの無いあらゆる知見、(哲学的)見解、知識、見識などは智慧ではないと知らねばならない。

智慧は、人をして一気に覚りの境地に至らしめるものである。 したがって、人をして段階的な精神的境界へも導くものであると世人が見なし信じているものは智慧ではない。 すべからく、覚りは頓悟であって漸悟ではないと知られるからである。

智慧の余韻は、完全な後味のよさを有している。 敢えて説明すれば、智慧を用いるときにはそれを用いる前も喜ばしく、用いている最中も喜ばしく、用いた後も喜ばしいという確かな認識が起こる。 また、智慧は、それを用いた本人にとっても喜ばしく、相手にとっても喜ばしく、それを目撃した人々(ギャラリー)にとっても喜ばしく、またその顛末を聞き及んだ現在の人々、および未来の人々にとっても喜ばしいものとなる。

智慧が顕わになったとき、人は生まれて初めての〈特殊な感動〉を味わう。 この特殊な感動は、世間で知られる種々さまざまな感動とは明らかに違っている。 具体的には、絵画、音楽、文学、映画、芸能、食事、飲料、香料、マッサージなどの接触、ダンスやスポーツのハイ、祭りなどの一体感などから得られる感動や情動とは違うのでそれと分かるのである。 また、この特殊な感動は、それを知る人がふと想い起こしたとき、褪せることなく何度でも繰り返し味わうことが出来るものであり、その味わいは時を経ても損なわれることがない。 それゆえに、これを〈特殊な感動〉と呼ぶのである。

智慧は、それが現出した苦の状況(シチュエーション)における唯一の完全な解決法である。 したがって、智慧よりすぐれた答えはあり得ない。 すなわち、智慧は、その状況についての一意で、一義で、最勝で、完璧で、完全なただ一つの答えである。 したがって、そうでないもの、すなわち繰り返される性質のものや使い廻しできるものは智慧ではないと知られるのである。

智慧は、対象についてのあらゆる思惟・考研の埒外にある。 したがって、何をどのように分析したり、綜合したり、統合したり、実践したり、理論づけしたりしても智慧を得ることはできない。 智慧は、科学的にも、哲学的にも、法学的にも、神学的にも導き出すことはできないものである。 すなわち、智慧は生まれてこの方、見たり、聞いたり、考えたり、想像したり、経験したり、議論したり、あるいは思い込んだりしたあらゆることがらの総体を超えている。

智慧は、あらゆる分別を超越した所から出てくるものであり、それゆえに無分別智とも名づけられる。 言い換えるならば、智慧を出すために、何かを勉強したり、話し合ったり、考えたり、経験したり、想像したり、見聞を広めたりする必要は何も無い。 なぜならば、智慧はそのようなこととは無関係に突如として人の身に顕現するものであるからである。 すなわち、智慧は人類が作為したものでは無く、人類のあらゆる経験要素を超越し、さらに集合的要素さえも超越したものであり、いわばそれらとは無関係に存在する”何か”である。

智慧は、もしそれを一つでも得れば完備(コンプリート)なる無限の智慧すべてを得ることができる。 それは、例えば赤色という色をたった一つでも知ったならば、それと同時に無数の赤色をすべて知ったことになることに似ている。 すなわち、赤色という色をすでに知った人は、(生まれて初めて見る)別の赤色を見てもそれが赤色であると正しく認識できるようになるからである。 完備なる智慧を得ることも現象論的にはそれと同じであると言って差し支えない。 すなわち、ある人がもしもたった一つでも智慧を得たならば、かれは他の状況(シチュエーション)において生まれて初めて思い浮かんだ他の知見(智慧)が、まさしく智慧であることがはっきりと分かるようになるからである。 このように、ひとたび智慧が顕現するとき、完備された智慧のすべてを漏らさず理解できるようになるゆえに、智慧を<無漏智>とも呼びならわす。 また、智慧は完備されていて何一つ付け加えるべきものが無く、逆に何一つ取り外すべきものも無いという意味で、<不増不減>とも言われる。

智慧が顕わになったとき、智慧を生じたという正しい認識(=智)が起こる。 この認識の一つは、すでに上で述べた智慧の味わい(金剛般若経に言う「応無所住而生其心」)のことであるが、それとは別にはっきりとした認識を生じるのである。 それは、自らの身に間違いなく智慧を生じたのだという直なる認識である。 人は智慧を生じたとき、智慧を生じたという疑う余地のない確信を得るのである。 それは例えば、大人には自分が間違いなく大人であるというはっきりとした直なる認識と疑う余地のない確信があるようなものである。 大人は、自分がもう子供じみたいかなる行為も出来なくなっているという事実の認識がある。 智慧を生じたという認識・確信も同様なものである。 それは、他の誰かに認定してもらう必要もないものであり、かれにとってそれは自明のこととして認知されるものである。


[補足説明]
智慧は働きであり、その根元は法華経に言う「諸仏の誓願」に他ならない。 このことを詳しく知りたい人は、法華経・方便品第二を参照するとよいであろう。

  → 諸仏の誓願(法華経 方便品第二から引用)


⭕ホームページの引用終わり⭕


ポイントを整理してみます。もっとも、文章全体がポイントであり、完備されたものなので、元の文章の方をきちんと見る必要がありますが。


○正しく理解するならば、直ちに覚りの境地に至る知見を<智慧>と名づける。 

○智慧の余韻は、完全な後味のよさを有している。(智慧を用いる者にとって、智慧を用いるときにはそれを用いる前も喜ばしく、用いている最中も喜ばしく、用いた後も喜ばしいという確かな認識が起こる。 また、相手にとっても喜ばしく、それを目撃した人々(ギャラリー)にとっても喜ばしく、またその顛末を聞き及んだ現在の人々、および未来の人々にとっても喜ばしいものとなる。)


○智慧が顕わになったとき、人は生まれて初めての〈特殊な感動〉を味わう。 


○智慧は、それが現出した苦の状況(シチュエーション)における唯一の完全な解決法である。

○智慧は、もしそれを一つでも得れば完備(コンプリート)なる無限の智慧すべてを得ることができる。ひとたび智慧が顕現するとき、完備された智慧のすべてを漏らさず理解できるようになる。

○智慧は働きであり、その根元は法華経に言う「諸仏の誓願」に他ならない。 


もう少しまとめてみます。


その根元が「諸仏の誓願」である智慧を正しく理解し、一つでも得れば智慧が顕現し、無限の智慧すべてを得、直ちに覚りの境地に至ることになる。


ここで顕現の意味をネットで検索すると、「はっきりと姿が現れること」とありました。





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3 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (ターラー)
2020-03-16 19:57:20
はじめまして、ターラーと申します。
SRKW氏の文章をいくつか拝見いたしました。
確かに悟りのレパートリーをいくつか満たしていらっしゃるように見ます。
しかしながら、見たところ慧解脱についての要件は満たしていらっしゃいません。

釈迦牟尼が最も出した弟子は慧解脱した方なので、慧解脱についての記述が原始仏典にはとても多いのです。

SRKW氏は、どうやら頓悟禅の影響が著しく見られ、誤解を多くお持ちのようです。
これは、仏教史上有名なサムエ論争というのがあります。
そこで3度論争が行われ、頓悟禅は仏教ではないという結論が出ています。
これは是非、ウィキペディアでご確認ください。

慧解脱とは、三明六通による解脱を指します。
これは釈尊が成道を果たした体験そのものを言った言葉ですね。

夜の初更に「無数の前生を想起させ、業の存在と無常を見た」宿命通
夜の中更に「様々な有情の死んで生き変わる様を見た」死生智通
夜の後更に「漏尽通を得て一切の煩悩は破壊され、明智が生じた」
これが三明です。
三明は3つの明智と言われ、智慧による解脱で、すなわち慧解脱なのです。
この三明を何度も何度も繰り返し修習します。

この体験により
一切は無常であり
一切が苦の生起する要因となり
普遍の実態はどこにも無く、
真の幸福とは完全なる安らぎである
という、四法印に気づきます。

次に、解脱後。
四聖諦に至ります。

これには、サマディーが必須の要件であり、その条件を満たすために
出家して、八正道を始めとする戎、定、慧の修道が必要になります。

サマディーについては釈迦牟尼がこのように言います。
   相応部経典 真理相応   サマディー品
「出家修行者諸君、君たちはサマディーに入りなさい。
サマディーに入れば、如実に認識し理解するであろう。
何を如実に認識し、理解するのであろうか?
それは「苦」の真理について如実に認識し、理解するのである
それは「苦の生起」に関して、如実に認識し、理解するのである
それは「苦の滅尽」に関し、如実に認識し、理解するのである
それは「苦の滅尽に至る方法論に関し、如実に認識し、理解するのである。
よって、君たちはサマディーに入りなさい」

在家のまま到達するのは精々が不還です。

出家しないブッダなど有りえませんし、出家しないで得られるのは「悟り」までなのです。
また、師無くして悟るのは「無師独覚」と言います。

出家とは何でしょうか?
食事は托鉢
一日一食
柔らかい寝具で寝てはいけない
戎を守る
経行
瞑想の実践

釈迦牟尼は出家についてこのように語ります。
ある時、世尊は出家したばかりの若いお弟子衆を集めてこう語りました。

「さあ君たち」

「はい、世尊よ」


「家々に遍歴し、じき(食)を乞う。
乞食(こつじき)とはまことに辛いものである。

所望しないものを受けることもある、またまことに僅かな食を得ることが精一杯ということもある。
私たちが所持するものは、杖と糞掃衣と托鉢の椀だけであり、横になって寝る場所といえば、往来の脇か墓場である。

勿論、心地良い寝具というものなど無い。

言ってみれば、このように乞食とは人の生活の様式の中でも最も下端と言えよう。

さて、では君たちに聞こう。

例えば、わたしたちは権力者、国の王に追い立てられて止む無くこのような生活を強いられたのであろうか?

或いは、借金のカタに家を追い立てられたのだろうか?

或いは、火災や天災などで所有するもを失ったのだろうか?

・・・いや、そうではない。

我々は、私たち自身の意思によって今ここにいるのである。


それは大いなる目的がここに存ずるが故である。

大いなる目的とは何であろうか?

わたしたちは苦に取り囲まれている、
苦に深く沈んでいる。

未だかつて、人が成し得なかった苦の滅尽を達せんがために、この大いなる目的のために今ここにわたしたちはいるのである」
慧解脱とは公案を解くことで得るようなものでは有りません。
返信する
Unknown (kassii)
2020-03-16 21:47:26
ターラー様

コメントをいただきありがとうございます。

長文のコメントをいただいたので、これを機にブログのコメントに対する私の考えを述べます。

私のこのブログは、既述の通り、主旨としては、SRKWブッダによるものを主になぞるものとなります。

私のコンセプトとしては、このブログでは、仏教に関するコメントについては、基本的に全て公開していきたいと考えています。

しかしながら、このブログの当初の方にありますとおり、SRKWブッダによるものについて、読んだばかりの方などを想定して書いていることから、仏教に関する専門的、学術的で難解な言い回しや、論争等についてのコメントの場合、ブログの対象者がずれてしまうため、公開しない場合があることを、予めご了承ください。
返信する
Unknown (kassii)
2020-03-17 17:08:45
コメントを、いくつかいただいておりますが、現時点でそれらを公開する予定はありません。

せっかくお寄せいただきましたのに、公開できず申し訳ありません。


以前のブログに【一休み(フルーツ)】があります。

誰がドリアンを食べたことがあるのでしょうか?

誰がフルーツの王様でなく女王のマンゴスチンを王様と思って食べたのでしょうか?

それを食べたことがない人が、あの人が食べたことのある人だと確定的に言えるのでしょうか?

食べたことのない人は、それぞれの歩んできた道に応じ、食べたことのあると思われる人について、その判断をすることとなります。

それは、それぞれのことになると考えます。
返信する

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