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仏道

SRKWブッダによる内容を主になぞるものとなります。

(9)HP(理法【002】一大事因縁 → 法華経では)

2020-02-03 17:45:45 | 日記
理法【002】一大事因縁
〔関連するもの〕法華経では


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初めてSRKWブッダのホームページを見る方などを想定し、ブログを初め、その全ては、令和2年1月2日から9日にかけて書いた5回分となります。(^^)
1回目
https://blog.goo.ne.jp/kassii/e/75047f9bda8af97e353ade6cdc27745b
その上で、それ以外のブログに興味をお持ちいただき御覧いただければ、幸いです。m(_ _)m
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⭕ホームページの引用始まり⭕

【法華経では】

法華経(妙法蓮華経)では、方便品第二において一大事因縁について次のように述べています。

*** 和訳経典から引用

{前を略}

 仏は舎利弗に告げられた。この様な微妙な教えは、諸仏.如来がこれを説くこと、優曇華(ウドゥンバラ)の花が三千年に一度花ひらく様なものである。舎利弗よ、仏の説く処を信ぜよ。仏の言葉に偽りはないからである。舎利弗よ、諸々の仏の自由自在な説法の意味は、理解する事が難しい。それは何故かというと、 私は無数の方便と、様々な因縁と喩えと言葉とをもって教えを説くのであるが、この教えは、思量し分別したのでは、理解する事は出来ないのであって、ただ仏だけがよくこれを知っているにすぎないからである。それはまた何故かというと、諸々の仏陀.世尊は、ただ一大事因縁によってのみ出現されるからである。それでは舎利弗よ、諸々の仏陀.世尊はただ一大事因縁によってのみ世に出現されるというが、それはどういうことなのか。諸々の仏陀.世尊は、生ける者達に仏の知見を開かせ、清浄なものとする為にこの世に出現されるのである。生ける者達に仏の知見を示そうとしてこの世に出現されるのである。生ける者達に仏の知見を悟らせようとしてこの世に出現されるのである。生ける者達を仏の知見の道に入らせようとしてこの世に出現されるのである。舎利弗よ、諸仏がただ一大事因縁によってのみこの世に出現されるという事は、こういうことなのである。

 仏はさらに舎利弗に言われた。諸々の仏陀、如来は、ただ菩薩だけを教化される。すべての行為は常にただ一つのことのためである。ただ仏の知見を生ける者達に示し悟らせるためである。舎 利弗よ、如来はただ、一なる仏の立場(一仏乗)だけで、生ける者達に教えを説かれる。第二の立場、第三の立場などはないのだ。舎利弗よ、一切十方の諸仏の教えもまたこのようである。舎利弗よ、過去の諸仏も、無量無数の方便と種々の因縁と喩えと言葉によって、生ける者達の為に教えを説かれている。これらの教えも皆、唯一の仏の立場によって説かれたのである。この諸々の生ける者達は、諸々の仏から教えを聞いて、結局、皆、一切種智を得た。舎利弗よ、未来にこの世に出現されるであろう諸仏もまた、無量無数の方便と種々の因縁と喩えと言葉によって、生ける者達の為に教えを説かれるであろう。これらの教えも皆、唯一の仏の立場によって説かれるであろう。この諸々の生ける者達も、諸々の仏から教えを聞いて、結局、皆、一切種智を得るであろう。舎利弗よ、この諸々の仏は、ただ菩薩だけを教化される。仏の知見を生ける者達に示し、仏の知見によって生ける者達を悟らせようとし、生ける者達を仏の知見の道に入れようと思うからである。

{後略}

*** 引用おわり

[補足説明]
上記に言う諸仏世尊とは、この世に現れ出た覚れる人(如来)のことではなく、善知識の言葉として世に現れ出た「法の句」を指しています。すなわち、善知識が「法の句」を発した瞬間は善知識は無我(諸仏に憑かれた状態)であり、一瞬のブッダ(化身仏)となっているのです。

⭕ホームページの引用終わり⭕

舎利弗(シャーリプトラ)に説法をしている仏と、諸々の仏陀.世尊は異なり、諸々の仏陀.世尊とは、補足説明にて、「善知識の言葉として世に現れ出た「法の句」」とのことです。



(8)HP(理法【002】一大事因縁)

2020-02-03 07:45:59 | 日記
理法【002】一大事因縁


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⭕ホームページの引用始まり⭕

【一大事因縁】

人をまさしく覚りの境地に至らしめる因縁を、〈一大事因縁〉と名づける。 人は、一大事因縁によってのみ覚りの境地に至るからである。 すなわち、人はこの因縁によって智慧を得て解脱し、ブッダとなるのである。

一大事因縁は、具体的には次のように世に出現する。

● この因縁のある人が、一大事が世に現出する様を如実に見るとき一大事因縁は現れる。

● この因縁のある人が、完全に後味のよい行為についてこころに理解し尽くしていて、ことに臨んで自らそのような行為を為そうと決心するとき一大事因縁は現れる。

● この因縁のある人が、自分を含めていかなる誰をも悲しませまいとするとき一大事因縁は現れる。

ところで、一大事因縁は如何なる手段をこうじてもそれを人為的に引き起こすことはできないものである。 一大事因縁はまさに因縁にもとづいて起こることであるゆえに、それを故意に呼び起こすことなど決してできないからである。 それだけでなく、一大事因縁はいつ、誰に、どのような形で起こるのかさえも予測できないものである。

やすらぎを求めるこころある人は、自らの縁によって一大事に臨んで、まさしく一大事因縁に立ち会う人であれ。


[補足説明]
一大事因縁という表現は、法華経(方便品第二)に特有なものであるが、同じ意味のことが言葉(語彙)を変えて他のいろいろな根本経典、大乗経典、そしてそれらの漢訳経典および和訳経典にも記されている。 例えば、釈尊の原始経典では一大事因縁について次のように記している。

● ひとびとは因縁があって善い領域(天)におもむくのである。 ひとびとは因縁があって悪い領域(地獄など)におもむくのである。 ひとびとは因縁があって完き安らぎ(ニルヴァーナ)に入るのである。 このように、これらのことは因縁にもとづいているのである。(ウダーナヴァルガ)

[補足説明(2)]
因縁は、宿命や運命とは違うものである。 これらを混同してはならない。 因縁は、人のこころの本当のあり方によって自分自身に確かに顕れ出るものであり、すべて自らの根本のところに依拠した現象に他ならない。 一方、宿命や運命は自分ならざるものに依拠した現象である。

⭕ホームページの引用終わり⭕


● この因縁のある人が、〜略〜、如実に見るとき一大事因縁は現れる。

● この因縁のある人が、〜略〜、決心するとき一大事因縁は現れる。

● この因縁のある人が、〜略〜、悲しませまいとするとき一大事因縁は現れる。

一大事因縁は、〜する時に、現れるとあります。

一方、故意に呼び起こすことなど決してできず、いつ、誰に、どのような形で起こるのかさえも予測できない、とあります。

関連するものに、【法華経では】があります。



(7)HP(理法【001】慈悲喜捨)

2020-01-29 13:05:40 | 日記
今回より、理法を1番から順に見ていきたいと思います。


理法 【001】慈悲喜捨

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⭕ホームページの引用始まり⭕

【慈悲喜捨】

慈悲喜捨は、完成された円かなるこころ(完成された完備なこころ)の4つの側面です。 したがって、慈悲喜捨なるこころに生きることは、覚りの境地に至った人の行為そのものであると言ってよいでしょう。

慈: 慈しみの心。 相手に今それを完全な形で与えることが本当は無理であろうということを承知の上で、それにもかかわらずより最高のものを与えようとする其の心。 ものおしみ(飢渇)を制した其の心。

悲: 世の中には「そのような悲しみ(煩悩)」があることを如実に知って、不誠実な行為(例えばひけらかすこと)をしない決心をする其の心。 高ぶり(妄執)を制した其の心。

喜: 大事な局面において、相手が喜び、自らも喜び、目撃した人(ギャラリー)も喜び、伝え聞いた現代の人々および未来の人々も喜び、かつ賞賛するであろうという随時の確信を以て行為する其の心。 見下し(嫌悪)を制した其の心。

捨: 自らをあらゆる点において捨て去ることによってのみ完成する、やさしさの究極である其の心。 愛著(欲望)を制した其の心。


最初に書いたように、慈悲喜捨を正しく理解することは覚りの境地に至った人だけにしかできないでしょう。 なぜならば、慈悲喜捨は覚りのこころそのものであるからです。 したがって、未だ覚りの境地に至っていない人(衆生)がそれを真実に理解することは実は不可能です。 それは例えば、(世間的な)喜怒哀楽の真実は、大人には理解できても子供には本当には理解できないことに似ています。 それと同様に、人々(衆生)は誰しも、(世間的な)喜怒哀楽については深く理解しているでしょうが、(出世間の)慈悲喜捨はそのような人間的な心の単なる延長上には無く、またそれは人々(衆生)が推量できるあらゆることのいずれにも属さないものであるゆえに、それを人々(衆生)が理解するよすががありません。 したがって、慈悲喜捨について覚りの境地に至った人が人々(衆生)にどんな説明をしたにせよ、その真意が人々に(直接に、直ちに)理解されることは無いでしょう。

ところで、慈悲喜捨は、その行為が為された後においてのみその真意が理解され得る性質のものです。 その様は、例えば赤色という色全体を理解してもらうために予め用意した赤色の幾つかのサンプルが、相手が赤色全体を理解して初めて、それらのどれもが赤色の良いサンプルであったことを後づけで了解することに似ています。 つまり、相手が赤色全体を理解しない間は、それらのサンプルが何を意図して提示されているのかという基本的なことさえ相手には理解されないことでしょう。 なお、すでに赤色を知っている人が決して手を抜いている訳ではありませんが、言ってみればそのような適当なサンプルしか予め示せないのは、赤色を知ることを欲しているそれぞれの人が、具体的にどの赤色で赤色全体を理解するかということを前もって予測することが誰にもできない性質のことであるからです。

それと同様な事情から、如来が人々(衆生)に対して行う慈悲喜捨の説明も、それについて適当に用意したいくつかの譬えを無作為に示すしか現実的な方法が見あたりませんが、慈悲喜捨は確かに存在するこころ(の働き)であることは間違いないことです。 人が覚りの境地に至ったとき、その人が慈悲喜捨が虚妄ならざる真実のこころであることを後づけで理解することは間違いないことであるからです。 そして、その様は、年端もいかない子供が初めて一つの赤色を正しく理解したときに、それと同時にすべての赤色を正しく理解するのだと断言できることと同様です。 それが起こるとき、それは一瞬間の出来事ですが、その一瞬間を境にその子供はおよそ世の中に存在するすべての赤色を残らず理解することでしょう。 そして、その理解は、何かを順次覚えていった結果として段階的に生じるのではなく、そのときがまさに到来したときに一挙にその理解が起こるという性質のものであるのは疑いのないことです。 同様に、人がブッダのこころを理解するのも一瞬間の出来事(頓悟)であり、そのときを境にその人はすべての覚りを理解することでしょう。


[補足説明]
無理を承知の上で敢えて仏教を哲学的に表現するならば、大きく二本の柱を立てることができるでしょう。 それは、「慈悲心」と「平等心」の二本柱です。 ここで、慈悲喜捨の慈悲は「慈悲心の柱」にあたり、喜捨は「平等心の柱」にあたります。 また、同じ事を別の言葉で表現するならば、「清浄心」と「本来清浄心」の二本柱を立てることができます。 ここで、慈悲喜捨の慈悲は「清浄心の柱」にあたり、喜捨は「本来清浄心の柱」にあたると言ってよいでしょう。

[補足説明(2)]
慈悲の慈は外的に観察され得るこころ(外に出して憚ることのないこころ)であり、悲は内的にのみ見い出されるこころ(人にさとられてはならないこころ、人にさとられてしまっては完成し得ないこころ)です。 同様に、喜捨の喜は外的に観察され得るこころであり、捨は内的にのみ見い出されるこころです。

[補足説明(3)]
阿摩羅識をルーツとする真実の慈悲喜捨は、阿頼耶識(いわゆる人類の集合的無意識)にもとづく感動や感動のエッセンスとは違っていることに注意しなければなりません。 それについて、中国の六祖慧能(ブッダ)は、阿頼耶識にもとづく慈悲喜捨に似て非なるものを「人の知恵」と呼び、本当の慈悲喜捨である仏智(仏の智慧)とは区別しています。(六祖壇教-法達の参門)

⭕ホームページの引用終わり⭕

「慈悲喜捨を正しく理解することは覚りの境地に至った人だけにしかできないでしょう。」

と本文中にあるように、本来の意味での正しい理解はできないと考えられます。

もっとも、一番最初に掲載されていることから、とても大事な内容であることが想定されます。

補足説明には、慈悲心、平等心、清浄心、本来清浄心、阿摩羅識、阿頼耶識などの知らない単語が出てきますが、理法を読み進めていくと、説明が出てくるものもあります。

更に【001】の関連するものとして、ホームページの右側に『奇跡は?』があります。ヘレン・ケラーの話しから、例えとしてのお話しが書かれていますので、是非お読みください。


(6)HP(理法(理法精選 → 理法全リストへ))

2020-01-29 12:31:27 | 日記
標題のとおり、ブログを掲載したのですが、操作を誤り次に掲載するものを上書きしてしまい、元のものを復元できなくなってしまいました。

お読みの方にはご迷惑をおかけし申し訳ございません。

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初めてSRKWブッダのホームページを見る方などを想定し、ブログを初め、その全ては、令和2年1月2日から9日にかけて書いた5回分となります。(^^)
1回目
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その上で、それ以外のブログに興味をお持ちいただき御覧いただければ、幸いです。m(_ _)m
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理法のページの上部に

『理法精選  →  理法全リストへ』

とあります。

理法精選は、80件ほど
全リストは、340件ほど

となっています。

理法精選は、SRKWブッダが選んだものとなります。

これから理法を見ていくうえで、1番から順番に見ていくのか、それとも選ばれたものを見るのかというのがありますが、

このブログの5回目では、1番から読むのをおすすめしています。これは、たくさんの理法を見て、どのようにしたらいいか戸惑う方に向けて書いたのですが、自分でお読みになられる方針がある方は、その方法で良いのだと思います。

私が仮に今、この理法を初めて読むのだとすると、やはり、1番から読むと思います。

それは、どのみち全部読みたいので、順番に読む!!

と思うからです。


一休み(フルーツ)

2020-01-24 18:58:18 | 日記
南国フルーツ

今回は、SRKWブッダのホームページからではなく、別のお話しをします。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
例えばの話しとなります。

例えばフルーツの王様であるドリアンをめぐるお話し、

また、仮定の話しとして、ドリアンの産地を限定して南国の特定の一つの国だけにあり、行かないと食べられないとします。

このドリアンの特徴として、次のものをあげることができます。

○とても甘い
○トロっとしている
○とてもクサイ
○皮がトゲトゲしている
○フルーツの王様である
○濃厚である
○日本にはない
○その国に行かないとたべられない

などなど

また、ドリアンをめぐっては、様々な話しが付加的についてきます。

△トゲトゲの皮のむき方はこれがいいとか。

△トゲトゲでケガしたことがあると言う人もいるかもしれません。

△栄養学に詳しい人が、その成分を分析して説明するかもしれません。

△また、世界中を旅行している人が、他のフルーツと比較するかもしれませんし、タイでは、どのようにしてドリアンを手に入れるか説明するかもしれません。


人それぞれのそれまでのドリアンの経験によって、その表現方法が全く異なってきます。

たくさんの表現の中、もしも、その表現の全てを習得し、長期にわたり想像したとしたら、ドリアンを食べたことがない人自身に、その味わいや風味を再現することができるでしょうか?

私は、その味わいや風味は、全く再現することができないと思います。

一方、そのような表現を全く知らない人であったとしても、実際に食べればドリアンというものについて知ることができます

また、このドリアンをめぐっては、次のような状況が生まれることもありえます。

✕ドリアンを食べたことがある人の感想などを研究し、自分は食べたことがないものの、ドリアンに対する独自の解釈を発表する人もいるかもしれません。

✕私は特別なドリアンを食べたことがあり、このような私は特別であると主張するかもしれません。

✕ドリアンの特徴といくつか重複する特徴を持つ別のフルーツを食べた者が、私はドリアンを食べたと自称するかもしれません。

✕私についてくれば、ドリアンが食べられる。とりあえずその費用として○○円。

✕いろいろな経緯があり、ドリアンなどというフルーツはこの世に存在しないという人もいるかもしれません。

などなど


ここで例えば皆さんが、ドリアンを食べたことがあると仮定し、予備知識の全くない、もしくは、多少知識のある目の前の人に、

『ドリアンを、是非、食べてもらいたい』


と思ったら。どうされるでしょうか?

人によってやり方が異なることが想定されますが、次のような言葉などが発せられるかもしれません。

Aさん
「フルーツの王様、是非たべてみな!」

Bさん
「私は実に様々なフルーツを食して来た。フルーツ以外にも美食を極めてきた。このような私が、感服した最高の物がドリアンである。」

Cさん
「オラこんなうまい果物食べたこともなかったよ! ま〜うんめ〜から、たべてみ!」

Dさん
「とにかくクサイんだよ。これがフルーツの王様かってくらいに」

Eさん
「とにかくタイに行ってみたら、とっても美味しいフルーツに出会えるよ」

Fさん
「このような栄養構成のフルーツ、興味あるでしょ」


などなど

そのすすめ方は、結局のところ、そのすすめた人のそれまでの、経験を踏まえたものにならざるを得ません。

例えば、文学表現に優れた人であれば、華麗な文章によるでしょうし、旅行者であれば旅行記の中にでてくる…。などなど。

ドリアンを食べたことがない人が、よく文学を理解し、華麗な文章を書く人でも、ドリアンの文学的表現を見て何も感じないかもしれません。

逆に、Cさんのような素朴な感想に興味を持つかもしれませんし、また、Dさんのドリアンがクサイというところに、興味を持つかもしれません。

一体どのような言葉によって、目の前の人がドリアンを食べようと思い、実際に食べることになるかは、想像できませんが、一方、食べてほしいと思った人は、その人の全力でそのことについて表現することとなると思います。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


以上でフルーツのお話しはおしまいです。

ここで、ドリアンを例えにしましたが、他のフルーツでもお話しは同じです。

また、このフルーツについて、若干の違いはあるものの、ブッダの説くものと対比して考えることができると私は考えています。

🔶フルーツを食べなければ、分からない。→ 解脱しなければ分からない

🔶フルーツを食べれば分かる → 解脱すれば分かる

【ツイッター】
解脱は、自分自身の身に体現されること(現象)である。したがって、それが起きた時にははっきりと覚知される。修行者は、その訪れを静かに待てばよい。因縁によってすべてが起こる。じたばたする必要は無い。

🔶フルーツをすすめようとして、人それぞれ表現のしかたが異なる。 → 仏によって、その表現が異なる。(法華経の文学的表現。金剛経の短い中に凝縮した表現。六祖壇教、原始経典などなど、全て趣きが異なる。)

🔶どういう話しによって、そのフルーツを食べることになるのか。→ どの経典によって最終的に解脱するのか。

🔶例え表面上、そのような表現を仮に取ってなかったとしても、本当にフルーツを食べてもらいたいと思っている人は、表現如何にかかわらず、食べてもらいたいとの主旨が、首尾一貫する。 → 例え表面上、そのような表現を仮に取ってなかったとしても、本当に衆生が解脱することについて説く仏であれば、そのことについて首尾一貫する。

🔶フルーツを食べてもらうため、その人の全力を表現に投入する。 → 解脱のために必要な表現を全力で投入する。(巧みであるか、稚拙であるか問わず。)



ところで、トロピカルフルーツは南国にありますが、仏は、南国のように飛行機に乗る所や西方にあるのでなく、自分の中にあるようです。

【六祖壇教】
一念の心が平直なままであること、それが衆生が仏となることである。わが心中にちゃんと仏はいるのだ。