軽井沢文化遺産保存

軽井沢文化遺産の保全活用と次世代継承

ポッダム宣言受諾打電伝説、 外務省軽井沢事務所長・大久保利隆(三笠ホテル)とスイス公使館(深山荘)、

2015年09月07日 | 歴史文化遺産
 高川邦子『ハンガリー公使 大久保利隆が見た三国同盟』(2015年7月刊)を図書館で借りて拝読した。著者は、外務省軽井沢事務所長・大久保利隆の父方の孫娘だそうである。以下にその内容を要約させて頂こう。
 大久保利隆は、昭和20年4月15日、外務省軽井沢事務所長の辞令を拝命、同月29日、上野駅から列車で家族と共に軽井沢へ向かった。
 事務所は、三笠ホテルの1階右翼のフロントロビーが使われ、左翼の2室の内、1室が所長室となり、その入口近くには短波放送を受信するための大きな機械が設置された。スタッフは参事官、会計官、書記官、電信官の4名、ほかに現地採用の外国語のできる女性数名がいたという。緒方貞子(のちに国連高等難民弁務官)はその1人であった。 
 大久保と家族の住まいは、2階左翼の3室で、夫妻は幼い長女と共に北側の広めの部屋に寝泊りしたようだ。世話係りとして地元の夫婦がホテルに住み込んだ。水洗トイレやバスタブは水が出ないので使えず、トイレは屋外の簡易式のものが一つだけで、朝はトイレ待ちの行列ができたらしい。風呂も屋外に五右衛門風呂を設置、所帯ごとに週1回、入浴したという。燃料と食料の確保は至難の業で、ホテルのテニスコートにジャガイモを植えたが、火山灰土壌でほとんど実らなかったという。
  軽井沢事務所の分室は、軽井沢銀座の浅野屋ベーカリーの隣、休業中の三笠書房の建物で、ここで外国人外交団への食糧配給が行われた。しかし食糧、住宅、燃料の供給は難しく、とくに燃料を確保するのがもっとも困難であったらしい。ちなみに、三井三郎助別荘では薪として使える樹の供出を求められる文書が残されているが、このような燃料逼迫の事情によるものであろう。
 前後するが、昭和19年、日本政府は、外国人外交団とその家族に対して任意疎開を勧告したが、東京大空襲後、強制疎開に改め、同盟国ドイツの疎開先は河口湖周辺、ソ連は箱根、スイスなどの中立国は軽井沢に指定された。
 スイス公使館は、三笠ホテルの斜め前にある貸し別荘の老舗・前田郷の深山荘の建物(アパートメント)が使われ、疎開地・軽井沢には、特命全権公使カミーユ・ゴルジェと夫人をはじめ、外交官8人とその夫人4人、一般館員及び家族47人が疎開していた。ゴルジェ夫妻の住まいは、二手橋の大宮御所の隣の別荘であったらしい。ゴルジェ公使は毎日のように三笠ホテルにやってきて大久保と会談したが、憲兵隊の監視がきびしかったようである。
 終戦を迎え、三笠ホテルはアメリカ軍に接収されることになり、昭和20年9月、外務省軽井沢事務所は閉鎖された。しかし大久保の東京の自宅は焼け出された縁者たちが利用していたようで、大久保はその後も、軽井沢に留まることになる。前田郷の経営者・前田栄次郎のはからいで、大久保は、スイス公使館のヨスト参事官が出たあとの別荘に居住、同年11月21日、ポルトガル公使に「GHQの指令により、中立国公使館との外交関係を停止する」という口上書を手交し、軽井沢事務所長としての最後の業務を終えたという。
 大久保は、昭和21年、外務省を退官したが、その後、復帰し、昭和27年、アルゼンチンの特命全権大使をつとめ、昭和32年、石川島播磨重工業ブラジル造船所副社長をつとめた。
 昭和61年春、90歳の大久保は、ポッダム宣言受諾の打電が軽井沢のスイス公使館からなされたという話が流布していることを知り、「こんな間違いが後世に残っては大変だ。訂正しに行かなければ」と、91歳になったばかりの8月中旬(おそらく18日)、プリンスホテルにおいて軽井沢町助役以下数名の方々に対し、3時間近くにわたって、そのようなことは断じてなかったことを力説した。その際、「当時軽井沢から海外へ電報を打つことはできなかった。国内宛ての電報も松本まで行かねばならず、機密は守れなかった」ことも説明したという。
 町側は説明をカセットテープに録音し、最後に「よくわかりました」と述べたので、祖父もほっと胸をなでおろしたのだった。ところがその2年後(昭和63年)、奇しくも祖父が没したのと同じ年に発行された『軽井沢町誌』には、前述のように(受諾打電)記されていたと、高川邦子は述べている。
 町側は、大久保の話をカセットテープに録音したようなので、是非、その内容を一度確かめていただきたいものである。
 ちなみに、昭和63年に刊行された『軽井沢町誌』には、次のように記されている。
 「戦局が悪化し、日本が不利な立場の中で、軽井沢事務所からスイス公使を通してアメリカ・イギリス・フランスなどへの外交交渉が行われた。三笠ホテルの一角が終戦や平和への重大な舞台となったときであった。暗号電報がスイスのベルンにあった公使の許へと飛び、ポッダム宣言受諾となって八月十五日を迎えたのである」(311頁)
91歳という高齢の大久保利隆によるこの真実を伝えたい、誤りを正したいという真摯な行為と言説は、結局、軽井沢町では活かされず、むしろこれまでの虚偽の軽井沢伝説をさらに増幅させたのではないだろうか。
 そして2008年12月、軽井沢町の町議会は、おそらく大久保利隆の真実の声を知らずに、旧スイス公使館(深山荘)を2億2千400万円で購入することを決定し、町の所有としたのではないだろうか。実状を知りたいものである。
小林 収『避暑地 軽井沢』には、「軽井沢町誌編集者に語った大久保利隆氏(右から二人目、軽井沢プリンスホテルにて)」というキャプションがついた写真が掲載されている(平成11年初刷、平成15年二刷、150頁)。これは、昭和61年春、90歳の大久保利隆が8月中旬、プリンスホテルにおいて軽井沢町助役以下数名の方々に対して真実を伝えた日に撮影された写真ではないのだろうか。大久保を含めた5名の内、1名が夏服であることも季節が夏であることを物語っていよう。
 しかしこのような写真が掲載されているにもかかわらず、小林 収の同書には、「ポッダム宣言受諾の電報は、スイス公使館を通して、アメリカ・中国に送られ、スウェーデン公使館を通してイギリス・ソ連に打電された」と記されている(152頁)。同日ではあっても、軽井沢町助役以下数名の方々に話した席と軽井沢町誌編集者に語った席とは別だったのかもしれない。「軽井沢伝説」はやはり謎めいているというべきか。


高川邦子『ハンガリー公使 大久保利隆が見た三国同盟 ある外交官の戦時秘話』2015年7月、芙蓉書房出版


同上書 231頁より


同上書 237頁より


外務省軽井沢事務所分室、旧道の三笠書房の建物、隣は小松ストア、昭和29年当時、指山雅美写真集54頁より



高川邦子『ハンガリー公使 大久保利隆が見た三国同盟 ある外交官の戦時秘話』319頁


同上書 321頁


同上書 235頁


小林 収『避暑地 軽井沢』150頁、左から小林 収氏、島崎 清氏、1人おいて大久保利隆氏(杖をもつ)、人名については、2015年10月30日、中嶋松樹軽井沢ナショナルトラスト名誉会長より教えていただいた。同名誉会長によると、カセットテープについては、昭和61年当時在職していた関係者に聞かないとわからないのではないかとのことである。
 
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