本多静六は、林学者、東京帝国大学教授で、社会的には、東京の「日比谷公園」(M34)や明治神宮の「神苑」の設計と造営を担当したことなどで知られる。折原静六(1866-1952)は、埼玉県河原井村(現・菖蒲町)生まれで、明治22年、本多家の婿養子となる。
一方、本多静六は長野県とも関係が深く、明治38年、長野県県有林の顧問となり、明治44年には、軽井沢地方を踏査し、油屋旅館で口述したものが梗概筆記の形で残されている。
本多が踏査したのは、明治44年10月30日のことで、この日は、天気晴朗で、調査にはお誂え向きの好日和であったようで、本多は2日分程も歩いたという。一度の調査で立案するのは少しく本意に反する所であるが、今回同行したドクター本郷君が後日更に十分調査した上の意見をも聴いた後、此の欠点を補うとして今日実地踏査した所と井上課長並びに今牧技手の説明を参酌して軽井沢遊園地設計の大方針を述べることに致しますということで、油屋旅館での口述筆記が始まっている。
「軽井沢遊園地設計方針」は、26か条から成る。
本多は、軽井沢の如き広大なる遊園地というものは、まずその土地に存する天然の風景、殊に其の土地の特徴となす可き風景を発揮して之を完全に利用せしむるように設備するのが主な目的であるという。
而して此の軽井沢の地は、宛も欧米の大陸的高原に見る如き快濶なる風景を有し、而も夏季の非常に涼しいので、第一此快濶なる風景を害せざる範囲内に於いて夏を愈々涼しからしむる為に、樹蔭を増すを主とする。
さらに軽井沢を夏季以外にも利用する方法として秋の紅葉、春の花と若葉の美を発揮せしめ、さらに冬の娯楽をも与えるようにしなくてはなりません。
それゆえ私は此等の目的、殊に軽井沢の特徴を発揮するを主として26か条の案を立てたのであると本多は述べている。
一方、本多静六は長野県とも関係が深く、明治38年、長野県県有林の顧問となり、明治44年には、軽井沢地方を踏査し、油屋旅館で口述したものが梗概筆記の形で残されている。
本多が踏査したのは、明治44年10月30日のことで、この日は、天気晴朗で、調査にはお誂え向きの好日和であったようで、本多は2日分程も歩いたという。一度の調査で立案するのは少しく本意に反する所であるが、今回同行したドクター本郷君が後日更に十分調査した上の意見をも聴いた後、此の欠点を補うとして今日実地踏査した所と井上課長並びに今牧技手の説明を参酌して軽井沢遊園地設計の大方針を述べることに致しますということで、油屋旅館での口述筆記が始まっている。
「軽井沢遊園地設計方針」は、26か条から成る。
本多は、軽井沢の如き広大なる遊園地というものは、まずその土地に存する天然の風景、殊に其の土地の特徴となす可き風景を発揮して之を完全に利用せしむるように設備するのが主な目的であるという。
而して此の軽井沢の地は、宛も欧米の大陸的高原に見る如き快濶なる風景を有し、而も夏季の非常に涼しいので、第一此快濶なる風景を害せざる範囲内に於いて夏を愈々涼しからしむる為に、樹蔭を増すを主とする。
さらに軽井沢を夏季以外にも利用する方法として秋の紅葉、春の花と若葉の美を発揮せしめ、さらに冬の娯楽をも与えるようにしなくてはなりません。
それゆえ私は此等の目的、殊に軽井沢の特徴を発揮するを主として26か条の案を立てたのであると本多は述べている。