タゴールは、アジアで初めてノーベル文学賞を受賞した詩人ですが、彼の作詞作曲による「人々みなの心」はインドの国民会議で歌われ、英国から独立後、インド国歌となっています。また生地カルカッタに近いシャンティニケトン(父親の別荘があった)で始めた野外学校(明治34年)は、のちに大正10年、インドの国立大学ビッショ・バロティ大学に発展しています。このようにタゴールは藝術、学術、独立・平和運動などの分野で大きな役割を果たしています。 渋沢栄一がタゴールと最初に会ったのは、大正5年7月2日(日)、東京目白の日本女子大学校において、18時半より「晩香寮」で開催されたタゴール歓迎晩餐会の場においてです。
ちなみに「晩香寮」は、渋沢が明治40年に寄贈した洋風寮(木造2階建)で、寮名は渋沢が愛吟する陶淵明の詩句「晩節香」に由来します。
晩餐後、会場は講堂に移され、タゴールは詩集「ギタンジャリ」を朗読し、ベンガル語の詩の読誦を行っています。このとき宮沢賢治の妹・宮沢トシ(家政学部予科在学)は講堂で学生の一人として参加していました。
その後、渋沢は、7月13日(水)午後4時、成瀬仁蔵(日本女子大学校創立者、「帰一協会」幹事)らを同行し、横浜の原富太郎の「三渓園」に滞在するタゴールを訪ね、食事を共にし、「帰一協会」の幹事として、世界平和や宗教の問題について談話を交えたようです。 ちなみに、帰一協会は、明治45年、成瀬仁蔵の呼びかけにより渋沢栄一、森村市左衛門、姉崎正治、浮田和民らにより設立された思想団体です。 この歓談の結果、渋沢栄一は、8月16日(水)正午、タゴールを飛鳥山邸に招き、午餐会を開催しています。午餐会終了後、タゴールは、成瀬仁蔵の招待で、軽井沢へ向かい、夕刻、三井三郎助別荘(小石川三井家)に到着、8月21日まで滞在、「三泉寮」(日本女子大学校夏期寮、軽井沢で最初の学寮)の寮生たちに講話や瞑想の指導をしています。 このとき高良とみ(英文学部)は寮生の一人としてタゴールの講話に感動し、その後、タゴールの来日のたびに通訳を務め、のちに日本タゴール協会の会長となります。 渋沢栄一は、その後、タゴールの来日のたび(大正13年、昭和4年)、飛鳥山邸に招き、タゴールを支援することになります。
晩香寮は、木造2階建ての洋風寮で、明治41年4月20日、開寮式が行われた。
寮監はミス・アズバン、寮舎では英語の修練と洋風生活の実践を行う。
「家庭週報」には、一柳まき子氏は、寮監を助けて英語教授およびピアノ教授に従事すると記されている。
ちなみに4月20日は、午後2時より日本女子大学校の第七回創立紀念式、香雪化学館開館式(藤田伝三郎寄贈)、晩香寮開寮式(渋沢栄一寄贈)が行われた。寄贈者の藤田伝三郎、渋沢栄一をはじめ、洋装の広岡浅子、和装の三井三郎助夫人(壽天)、森村市左衛門らが列席している。