神名火だより

出雲地方・宍道湖周辺で撮影した四季折々の写真です。
時々、自作パソコンの話題もあります。

素盞鳴尊の大蛇退治と斐伊川治水(とっても長文)

2016年10月10日 17時57分22秒 | 日記

むかしばなし

 幼少の頃、50年前になりますでしょうか、祖父が寝付きの悪い私に昔話をしてくれました。こんなお話でした。
 高天原で乱暴狼藉を繰り返した素戔嗚尊(スサノオノミコト)は地上の世界に追放されました。斐伊川の畔に降り立った素戔嗚尊は川上から箸が流れて来るのを見つけ、上流に誰か住んでいるに違いないと川を遡ってみました。すると、老夫婦に出会いました。彼らは泣きながら、訴えます。「私たちには8人の娘がいます。そのうち7人は毎年一人ずつ八岐の大蛇(ヤマタノオロチ)に食べられてしまいました。八岐の大蛇は8つの頭、一つの胴体8本の尻尾の大蛇で、今年は最後の娘が食べられてしまいます。助けて下さい。」





 素戔嗚尊は老夫婦にお酒を作らせ、大きな樽に入れて待ち構えました。夜になり山の向こうから八岐の大蛇がやってきました。



 大蛇はお酒のいい匂いにつられて、娘を食べてしまう前にお酒を飲んでしまいました。すっかり酔っ払った八岐の大蛇は寝てしまいました。そのすきに素戔嗚尊は刀で八岐の大蛇の頭を次々と切り取り、八岐の大蛇を退治しました。尻尾を切るとその中から立派な刀が出てきました。その刀が天皇家に伝わる天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)だそうです。

 こんな内容だったと記憶しています。孫に聞かせる昔話ですので細かな点は省略されています。助かった娘との関係、後日談もあるのですが、その内容については後述とします。後に八岐の大蛇は斐伊川のことであること、即ち、大蛇退治は斐伊川の治水事業で、尻尾から天叢雲剣が出てきたのは、奥出雲でのたたら製鉄を暗示していると知りました。

出雲国風土記

 出雲国風土記(733年)には大蛇退治の神話は記載がありません。古事記(712年)と日本書紀(720年)に記載があります。なぜでしょう。私は出雲風土記に意図的に載せなかったのではと考えています。この文章では出雲風土記に記載されなかった理由について考えてみたいと思います。ただ、私は考古学マニアではなく、幾つかの神話、斐伊川やたたら製鉄の歴史的事実を独善的に解釈したものであるとお断りしておきます。

斐伊川放水路

 平成25年、斐伊川放水路が完成して、豪雨の際に斐伊川から神戸川に分水される状況を野次馬として見物に行ったことがあります。普段は静かに流れる斐伊川が増水し、茶色く濁った濁流が分水路に流れ下る様は、八岐の大蛇の頭を切りつけ鮮血がほとばしる、まさに「現代の大蛇退治」を彷彿とさせるものでした。



古代の斐伊川

 八岐の大蛇は斐伊川の「洪水の化身」であるとの解釈があります。現代の斐伊川のは、出雲市大津町と斐川町との境界あたり、中国山地から出雲平野に流れいずると、東方向に向きを変えて宍道湖に注いでいます。このような流れ(斐伊川東流)になったのは17世紀以降であり、それまでは西方向へ流れ、神門川と呼ばれ、神門水海(神西湖の前身)を経由して日本海に注いでいました。すなわち、斐伊川は幾つもの支流を集めて一本の大河となり、下流の出雲平野では再び幾つもの支流に枝分かれ、日本海あるいは宍道湖へ注ぐ川だったのです。



出雲内海

 出雲平野は島根半島と中国山地の挟まれた平野ですが、古代においては、島根半島は本土とは海を隔てた島でした。西は現在の神西湖あたりから宍道湖、中海までが一つの出雲内海という内海でした。当時は大社の稲佐の浜や鳥取県の弓ヶ浜半島はなかったと考えられています。国引き神話ではこの土地を新羅や能登半島あたりから引き寄せた事になっています。三瓶山の噴火以後の火山灰の流入、神戸川、斐伊川、安来の飯梨川、米子の日野川からの土砂の流入で平野部が形成され、陸続きになり半島になりました。
 縄文時代の斐伊川は出雲内海を埋め立てつつ、洪水のたびに幾度となく流れを変えています。西へ東へ幾つもの支流を形成し、自然堤防、あるいは大きな中洲の上に縄文集落が作られていました。これが後に出雲王国と呼ばれ、四隅突出型墳丘墓に代表される独自の文化圏を形成しました。出雲市大津町の出雲弥生の森博物館にはわかりやすい解説が展示されています。

江戸時代の宍道湖

 時は流れて江戸時代、寛永年間の大洪水による斐伊川東流で現在の斐伊川に近い形ができましたが、その頃の宍道湖の西岸は現在の平田町の、当時の地名で楯縫郡沼田郷、本町通りあたりです。かつて本町通りにあった本木佐邸、今は出雲市立平田本陣記念館として別の場所に移築されていますが、このお屋敷の庭の茶室から宍道湖とお月見ができたとの記述があります。今でも本町通りから東方向へは少しばかりの下り坂になっています(ブラタモリでいう高低差)。
 斐伊川東流後、松江藩による計画的な堤防の開削と流路変更(川違え)によりがおこなわれました。斐伊川の流砂で宍道湖を埋め立て、稲作のできる肥沃な新田が開発されました。松江藩の財政に寄与したと言われます。平田町から東方向、現在の宍道湖西岸までは江戸時代から昭和の初めにかけて埋め立てられた新しい土地です。東西距離で約4kmあります。出雲平野を空から眺めると、廃川の自然堤防の上に農家の築地松が筋状に、斐伊川から枝分かれするように並んでいるのが見られます。
 江戸時代後期には斐川町の我が家の近くでも川違えがおこなわれ、丘陵地帯を切り開いて新川と呼ばれる人工の川が作られました。流れてきた土砂を宍道湖の浅瀬に導き埋め立て、斐川町の東半分が新しい農地です。新川は約100年後の昭和15年で天井川になり廃川されましたが、その河床には出西の旧海軍大社飛行場、荘原の街、出雲空港があります。


 
 
たたら製鉄と鉄穴流し

 奈良時代に編纂された出雲国風土記は横田町でたたら製鉄がおこなわれていた記述があります。戦国時代にはたたら製鉄のための砂鉄採取に鉄穴流し(かんなながし)が用いられました。山の中腹に溜池を作り、そこから尾根筋に水路で水を引き、真砂土(風化した花崗岩)の山を切り崩して、その砂を水とともに木の樋に流して比重の差で砂鉄を分離する方法です。鉄穴流しは冬場の農閑期の作業で、冷たい水での労働は過酷であったと言われます。切り崩した山は後に棚田に整備され農地に、鉄穴流しの水路は農業用水路に変わりました。鎮守の森や墓地などの神聖な場所は崩さずに残りましたので、現在の横田町で見られる棚田と、コブのような小山(鉄穴残丘)の点在する特徴的な田園風景は砂鉄採集の名残です。



 たたら製鉄が大規模におこなわれた江戸時代、鉄穴流しは大量の土砂を下流に流しますので、斐伊川は平地より上に川が流れる天井川になりました。大雨のたびに氾濫を引き起こし下流の農民とのトラブルが絶えなかったといわれます。京極氏の松江藩は鉄穴流しを禁止しています。松平氏の時代には松江藩の財政立て直しのために、鉄のほか朝鮮人参、木綿などの生産を藩の統制としました。たたら製鉄は藩財政に寄与しました。また、鉄穴流しによる土砂を積極的に利用しました。計画的川違えで宍道湖を広大な穀倉地帯に変貌させ年貢米は増産されました。


 
たたら製鉄の伐採

 たたら製鉄では大量の木炭が必要です。1回の操業で消費される木炭は約12トン。森林面積は約1ヘクタールが必要だったと言われます。1箇所のたたら場で年間約60回の操業が行われ、たたら炭に適した木の樹齢は約30年以上とされますから、単純計算で1800ヘクタールの森林面積が必要になります。そこで松江藩は鉄の生産、木炭の供給は田部・桜井・絲原などの大山林地主(鉄山師)を中心に独占的におこなわせ、森林資源を保護しました。切り株を残してそこから新芽が出て木が成長するようにし、約30年で再び木炭が生産できるようになったとされています。どの山から木を切り出すかは計画的に管理され乱伐はなかったといわれています。



 過剰な鉄の生産を抑制して、木炭を安定供給するために輪伐し、自然と共生し自然循環のシステムを構築しました。ジブリアニメ映画の「もののけ姫」では吉田町の「菅谷たたら山内」の高殿をモデルにしています。映画では木炭生産のための乱伐で禿山になったシーンがありますが、実際はそのようなことはなかったようです。現在見られる奥出雲の里山の風景はたたら製鉄に関わった先人たちの知恵でもあるのです。このことについては吉田町の鉄の歴史博物館で知ることができます。


 
大蛇退治の詳細

 八岐の大蛇退治の話に戻ります。記紀神話では高天原を追放された素戔嗚尊が地上に降り立ったのは鳥髪山とされています。現在の船通山です。八岐の大蛇の生贄になりそうになった娘は奇稲田姫(クシイナダヒメ)で、その両親は脚摩乳(アシナヅチ)と手摩乳(テナヅチ)です。奇稲田姫は稲田の女神で豊穣の神様と考えられます。稲作には手と足の労力が必要です。八岐の大蛇退治に際して素戔嗚尊は奇稲田姫と結婚を条件とし、奇稲田姫を櫛に変えて自らの髪に刺し、その呪力を手助けとして大蛇退治を成功させました。




 
 素戔嗚尊と姿を戻した奇稲田姫は新天地を求めて須賀の地に至り、「ここは清々しくとても良い所だ」として宮を建てます。それが現在の大東町の須我神社で、わが国最初の和歌「八雲たつ出雲八重垣 妻ごみに八重垣作るその八重垣を」詠んだとされています。日本書紀によれば素戔嗚尊と奇稲田姫の子供は大国主命ですが、古事記によれば六世あるいは七世の孫とされています。



 八岐の大蛇は頭と尾はそれぞれ八つずつあり、眼は赤い鬼灯のようであった。松や柏が背中に生えていて、八つの丘、八つの谷の間に延びていた。胴体は赤い鱗に覆われ血でただれていたとされます。斐伊川の下流部では砂洲が蛇の鱗のように見えることがあります。流れ下った砂鉄は酸化して赤く見えます。


 
 蛇は山神、あるいは水神とされ、すなわち山から流れ下った川の水への信仰と考えられます。多くの支流、生贄になった娘たち、毎年の洪水を、堤防を意図的に切ることで川違えを起こして出雲内海を埋め立て出雲平野を豊穣の地に変えた例えです。江戸時代のような大規模で計画的川違えではないものの、素戔嗚尊は人々に「ここの堤防を切るのだ」を指導したのでしょうか。堤防を切る作業には多くの人力を必要とし、その風景は現代の斐伊川放水路で見られる濁流を彷彿とさせます。
 尾を切りつけた際、素戔嗚尊の銅剣の刃が欠けてしまいます。中から出てきた鉄製の天叢雲剣は天照大御神に献上しています。尾は上流の支流ですので奥出雲のたたら製鉄で生産された鉄を暗示しています。当時は鉄は最強の武器となりうるものであり、政治権力者は有能な部下を使って生産技術者を囲い込み、これを独占品とするでしょう。大蛇を退治し剣を天照大御神に献上したことは、大和朝廷の支配下で斐伊川の治水事業と鉄の生産をおこない、出雲を大和の支配下に置いたことを暗示していると考えます。大蛇退治は素盞鳴尊の活躍を正当化するための、古事記、日本書紀を編纂した大和朝廷の創作神話と考えます。ですから出雲国風土記には意図的に記載しなかったかもしれません。出雲の国が大和朝廷に従属したことに対する出雲のせめてもの抵抗だったとも考えられます。

 最後に、記紀神話と出雲国風土記での素戔嗚尊の扱い方はかなりちがいます。これについてはさらなる勉強が必要ということで自らへの宿題とします。
 

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