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 ♪♪♪ H.Tokuda

これも遺伝!?

2017-02-11 23:49:56 | エッセイ


 「月の砂漠を はるばると 旅のらくだが 行きました」という童謡がある。子供の頃、と言ってもけっこう大きくなるまでのあいだ、僕はこの歌を月世界の風景を描いたものだと思っていた。砂漠のように荒れ果てた月面をラクダがゆっくりと歩いて行く。ラクダも、それに乗っている人も、酸素ボンベにつながった透明のマスクをかぶっている。金の鞍に銀の鞍、いかにもメタリックで近未来的ではないか。
 家族での夕食時にその話をしたら、なんと息子もそれと同じようなイメージを描いていたという。なんだ、やっぱりそうか。そういうふうに考える人もけっこういるんだなと僕は少し安心したのだが、妻の見解は違った。
「それは絶対おかしいわよ。月の砂漠といえば、普通は月夜の砂漠を指すものよ。月面のクレーターみたいな場所を想像するなんて、百人に聞いてもあなたたち二人くらいのものだわ」
 試しにその後何人かの人に聞いてみたが、月面の風景と答えた人は一人もいなかった。僕はそれまで息子に「月の砂漠」の話なんてしたことないから、それぞれが別々に同じような風景をイメージしていたのだろう。思考パターンが似ているということか。
 確かに息子は物の考え方において僕に似たところがある。親子だからまあ当然なのかもしれないが、あまりにも変な部分で似ていることに気付くと、わが事ながら面白くもあり、時には怖くも感じる。

 僕は空間把握能力が極度に低くて、方向とか左右の認識が曖昧だ。例えば商店街を歩いていて、どこかの店に入ると、店から出てきたときに、どちらから歩いてきたのか分からなくなってしまう。たぶんこちらだろうと思ってしばらく歩いた後、先に通り過ぎた店を見つけて、慌てて反対方向へ向きを変えることもしばしば。アルファベットの「E」とカタカナの「ヨ」が、どっちがどっちだか分からなくなってしまう。小文字の「e」を指で書いてみて、やっと「E」の向きを確認するという始末。
 息子も子供の頃、鏡文字をよく書いていた。今でも僕と同じように、「E」の向きが分からなくなってしまうらしい。こうしたこともDNAの遺伝情報に刻み込まれているのだろうか。ある種の怖さを感じる。

 さて、息子が大学生で家に居たときのことだ。家族でテレビのニュースを見ていると、どこかで起こった火事についてアナウンサーが「放火の疑いで捜査中です」と言った。それを聞いて僕と息子はまったく同時に「ほうか・・・」と言ってしまった。これは怖いというよりも、かなり恥ずかしい出来事だ。まあ僕の場合は文字通りオヤジなのだからオヤジギャグでも仕方ないが、二十歳やそこらの青年がこんなことでは困るぞ。
 それから後のある日のこと、また家族でテレビを見ていると、冬山で登山者が遭難したというニュースが流れた。僕はとっさに「そうなん?」と言いかけ、慌てて言葉を飲み込んだ。また息子とダブってしまってはいけないと思ったのだ。息子もそのときは何も言わなかった。彼も僕と同じように自重したのか、あるいは今回は思いつかなかったのか、その真相は定かではない。

 ところでこの息子、困ったことに外見も僕に似ている。そういうのが身近にいると、まるで自分の人生の繰り返しを見ているようで複雑な気持ちになってくる。今は東京の会社に勤務しているが、三十を過ぎてまだ独身。彼女もいる気配がない。このあたりは僕とだいぶ違っている。僕は大学生の頃に婚約し、社会人になってすぐに結婚、今の息子の歳にはもう子供が小学生だった。大事なところが似てないので、僕はなかなか孫の顔を拝むことができない。
 娘も三十歳でまだ独身。このままでは我が家の血筋が途絶えてしまうよ。若いおじいちゃんになりたかったのだが、その夢は叶いそうにない。せめて僕が元気なうちに、孫の顔を見せてほしい。
 孫が生まれて小学生くらいになったら、「月の砂漠」の歌を聴かせて、どのような風景を想像するか確かめてみたいと思っているのだ。「月面のクレーター」と言ったらどう感じるだろう。ちょっと怖いようであり、嬉しいようでもある。


バレンタイン事情

2017-02-11 01:52:00 | エッセイ
 僕はクリスマスやバレンタインデーといった外来的風習が好きでなく、批判的な話をよく口にする。そのせいか、最近では家族など親しい女性からの義理チョコすら貰えなくなってしまった。
 しかし、こんな僕も、何年か前には若い女性からチョコレートをたくさん貰っていたことがあったのだ。それは農業大学校の教員をしていた時のこと。もちろん義理チョコである。いや、ちょうど進級の試験や卒業論文の提出時期と重なっていたから「賄賂チョコ」と言ったほうがいいかもしれない。(笑)
 この時期には仕事が忙しくなり、女子学生からプレゼントされたチョコを有難くいただきながら残業に精を出していた。普段はチョコレートなんてめったに口にしないのだが、疲れているときには甘いものが欲しくなる。というわけで、バレンタインデーにチョコをプレゼントされるというのは、僕にとって実に都合の良い習慣となっていたわけだ。この際、義理チョコでも営業用チョコでも賄賂チョコでも、何だっていい。

 チョコレートの中でもちょっと高級なものは、今や季節商品のような存在である。バレンタインデー前に需要が一気に高まるわけで、各メーカーはそれに合わせて工場をフル稼働しているのだろう。儲かるときに儲けない手はない。
 チョコのような工業製品ならば供給する側にあまり問題はないのだが、これが母の日のカーネーションのように農産物の場合だと、少し事情が違ってくる。日本中のカーネーション農家は、母の日に大量出荷できるよう開花時期を調節して作っているのだが、それでも生産量に限りがあり、価格が暴騰してしまう。母の日に十分供給できるだけの生産規模を持てば、それ以外の時期に生産過剰となる。日持ちの悪い農産物は、よく売れる日に備えて前々から作り貯めしておくというわけにもいかないのだ。
 そこで花を扱っている人々は、誕生日や結婚記念日に花束を贈るという習慣が定着するよう、切に願っているのである。これだと人によって贈る日が異なるので、一年を通じてコンスタントに需要が伸びることになる。生産農家やフラワーショップで働く人々は、忙しい時期が分散し、仕事がやりやすくなるのでとてもありがたい。
 しかし、実際には、こうした習慣はなかなか人々の間に浸透していかないようだ。母の日やバレンタインデーになると、マスコミやクチコミにつられて、みんなが一斉にカーネーションやチョコを買いに走る。そこには一種の群集心理のような力が働いているわけだが、人それぞれに贈る日が違うということになれば、そうした力は極端に弱まってしまう。花の生産者と生花市場とフラワーショップとが手を組んで、いかなるキャンペーンを展開したところで、群集を一斉に動かすような大きな力は生まれてこないのである。

 日本人はそもそも、こうした群集心理に扇動されやすいのだろうか。最初はごく一部の人々の間で行われていた行事が、お菓子屋の陰謀に乗せられ、瞬く間に全国津々浦々にまで広まった。口裂け女の伝説と同じようにである。そして、いまやバレンタインデーにチョコを贈らない女性は変人のように言われ、誰からもチョコをもらえなかった男性は自分の不甲斐無さに気を落とすといったところまで事態は進んでいる。ああ恐ろしや、群集心理。皆が買うから自分も買う。いや、買いたくなくても買わねばならぬ。

 現代社会では行動様式の多様化や個性化が進んできたと言われている。デパートなどの特設会場へ行けば、ありとあらゆる種類のチョコレートが並んでいて、女性たちは自分の個性をアピールしようと熱心にチョコ選びに精を出す。しかし、みんなと同じようにバレンタイン特設会場へと足を運んでいる時点で、それは個性的な行動とは言えないのではないか。別に悪いことではないが、なぜこのようなことになってしまったのか、どうも不思議でならない。
 かく言う僕も、かつては義理チョコを貰い、残業用補助食料として重宝していたのだから、この変な習慣の恩恵を受けていたということになる。しかし、あえてわがままを言わせてもらえば、それは何もチョコレートに限定される必要はないわけで、たまには大福やシュークリームや551の豚饅なんかをくれる人がいた方がむしろありがたいと思う。いやホントにわがままな言い分だけど。

 僕がまだ純情可憐な少年だった頃、可愛い女の子からチョコレートをもらって喜んでいたことがあった。ちょうどバレンタインデーの習慣が浸透し始めた頃だったと思う。まだ義理チョコなどと呼ばれるものはなく、ホントに好きな人にだけ贈られていた。贈るほうも貰うほうも胸をドキドキさせてその日を待っていたものだ。
 そういうふうにして貰ったチョコレートなら、嫌な残業の合間に食べたりしないだろうな。机の引出しにそっと仕舞い込み、大切に取っておくうちにカビが生えるか、夏の暑さで溶けてしまうか、まあそんなところだ。
 あの頃のようなドキドキ感は、もう再び自分には訪れて来ないのだろうな。青春多感な時代は、はるか彼方に過ぎ去ってしまった。どうせ貰うなら551の豚饅のほうがいいなんて考えている今の自分が、何となく虚しく思えてくる。

コーヒー

2017-02-06 22:44:55 | エッセイ


 幼い頃、まだ独身だった叔父が同居していて、よく近くの喫茶店へ連れて行ってもらった。僕はジュースやミルクなんかを飲んでいたのだと思うけど、そのことはよく覚えてなくて、店内に立ち込めるコーヒーの香りだけが強く印象に残っている。
 そうした幼児体験も影響しているのか、僕は喫茶店へ行くのが好きだ。コーヒーの通というほどではないので、味そのものよりも店の雰囲気を楽しむ。高校生の頃は授業をさぼって友人たちと「ほんやら洞」や「しあんくれーる」へよく行ったし、大学生の頃はジャズ喫茶の「エオンタ」などでひとりの時間を過ごした。松本は小さな町だが、変わった喫茶店がたくさんあった。「山猫軒」「エイハブ船長」「翁堂」「アミ」など、店の名前を思い出すだけで何だかわくわくしてくる。喫茶店は僕にとって思索の空間であり、友人との語らいの場であり、読書室であり、音楽鑑賞室であり、創作の場でもあった。

 ところが、二十代の半ば頃から、どうしたことかコーヒーが飲めなくなってしまった。胃がむかむかして気持ち悪くなり、ときには軽い立ち眩みのような感じになる。これはたぶんアレルギー症状だということで、長い間(10年間くらい)コーヒーから遠ざかっていた。ある日、叔父に話したら、自分もまったく同じ状態になったことがあるが、いつの間にか治ってしまったと言う。その言葉に勇気づけられ、試しに飲んでみたら、例の症状はまったく感じなかった。久しぶりに飲むコーヒーはたまらなく旨かった。それ以来コーヒーを飲み続けているが、今のところ体に異変を感じることはない。いったいあの症状は何だったのだろう? 叔父と同じということは、遺伝的な体質のせいなのだろうか? 父はコーヒーを飲まなかったので、そこのところはよく分からないのだが。

 今もおいしいコーヒーを飲みたいときは喫茶店へ立ち寄る。ひとりの時はたいていカウンター席だ。煎りたての豆をミルで挽いて、専門的な手つきでお湯が注がれる。淹れてもらっている間も、高い香りと魅惑的な音を存分に楽しむことができる。コーヒー1杯とタバコを数本、ほんの20~30分の間だが、僕にとってはささやかな贅沢。昔のように、ここで本を読んだり文章を書いたりはしない。音楽なんてなくてもいい。純粋な気持ちでコーヒータイムを楽しみたいと思っている。

 自分で淹れるのは、もっぱらインスタントばかり。職場と家を合わせると、一日に5~6杯は飲む。いわゆるカフェイン中毒の部類だ。特に文章を書いているときはコーヒーをたくさん飲む。そこでふと気づいたのだが、アレルギー症状のためコーヒーを断っていた期間は、ほとんど小説などを書かなかった。三十代の半ば、創作を再開した時期は、コーヒーを再び飲むようになった時期とほぼ一致する。ひょっとすると、僕の創作力はカフェインの作用によって生み出されているのかもしれない。

 さて、今日もコーヒーの魔力を借りながら、こうして文章を書いている。濃いめに淹れたネスカフェ・ゴールドブレンドだ。これもまあまあ旨い。喫茶店へ行くことに比べると、コスパは抜群に良い。
 僕はいくらコーヒーを飲んでも、夜はちゃんと眠れる。ものすごく寝つきが良く、ベッドに入ってから眠りに落ちるまで大抵2~3分。眠れなくて困ったことなんてほとんどない。今日も一日は目覚めのコーヒーに始まり、就寝前のコーヒーで終わる。コーヒーは人生の友。アレルギーなどの症状が再発することのないように祈るばかりである。

タバコ

2017-02-03 23:47:27 | エッセイ


 僕の机の上はいつも散らかっているんだけど、それにしてもこの灰皿はあまりにもひどい。文章を書き始めると、ついついタバコの本数が増え、気が付けばこんな具合だ。部屋の中が煙たい。もちろん体にだって良いはずがない。お金もけっこう掛かっている。そんなことを考えながらも、またタバコを一服。

 初めてタバコを試したのは中学生のときだった。「いざ、吸ってみよう」と、ある日突然思い立ったのだ。
 家には父親のハイライトがいっぱい買い溜めされていたが、それに手を出すのはどうも気がひけた。どうせ悪いことをするにしても、盗みはいけない。自分の小遣いでもって入手するべきだ。そうした中途半端な正義感に駆られながら、近所の自動販売機で「チェリー」を一個買った。なぜチェリーなんてマイナーな銘柄を選んだのだろう。そこのところはよく覚えていない。
 中学生の頃は悪戯半分だったが、高校に入ってから常用するようになり、大学に入ってからは日常的に吸った。そういうわけで、僕のタバコ歴はけっこう長い。もう肺の中は真っ黒になっているに違いない。

 今の少年たちは、僕の時みたいに簡単にタバコを買うことができない。自動販売機は「タスポ」なんていうカードを使わないと作動しないし、当然ながらそのカードは成人でないと発行されない。僕はカードの発行申請をするのが面倒なので、いまだにタスポを持ってなくて、いつもコンビニなどで対面購入している。ところが、そのコンビニでもけっこう面倒なことがあるのだ。
 タバコをレジに通すと「私は20歳以上です。Yes No」という年齢認証の画面が出て、客にそのボタンを押させる。どうもこれが気に入らない。以前、あるコンビニで、ボタンを押せというので、「顔を見たら分かるでしょ」と言ってみた。すると店員は「すべてのお客様に押していただくことになっていますので」と言う。「押さなければ売らないのか」と聞くと、「はい。決まりですので」という。僕は「それなら買わない」と言って店を出た。
 ボタンにタッチするくらいたった一秒で済むのだが、客との人間関係よりも社内マニュアルを優先するという、店側のその態度が気に入らないのだ。一見して大人と分かる客ならば、融通を利かせばよい。大企業のマニュアル至上主義は、役所以上に杓子定規だ。店によっては客の顔を見て、店員がボタンを押してくれるところもある。僕はそういう店でタバコを買うようにしている。ひょっとしたら、これもその店のマニュアルで決められていることかもしれないけれど。

 職場や街中では喫煙できる場所が少なくなり、愛煙家には厳しい世の中になってきた。そろそろ止め時なんかなぁ、と思うこともあるが、やっぱり僕はタバコが好き。別に意地を張っている訳ではないが、何か大きな問題にぶつかるまでの間は吸い続けることだろう。
 外では吸える場所が少ないので、家の中でたくさん吸う。そういうわけで僕の部屋は今日もひどく煙たい。とりあえず、明日にはこの灰皿をもきれいにしよう。
 そんなことを考えながら、また一服。(-。-)y-.。o○

僕の部屋

2017-02-03 22:26:13 | エッセイ



 いつもこんなひどい状態だけど、何とか足の踏み場だけは残っている。2方向からの写真を総合して見ると、だいたい部屋の全容が想像できるだろうか。ギターにバンジョーにオーディオ製品にパソコン机。まさに男の趣味の部屋といった様相だ。写真には写ってないが、もう一方の壁にはガラス扉付きの大きな本棚が鎮座している。
 1枚目に写っているグレーのスピーカーも、2枚目の真空管アンプも、二十代の頃に自分で作った物。だいぶくたびれてきたけど、今でもこれを愛用している。背もたれの大きな椅子に座り、好きな音楽を聴きながらパソコンで小説やなんかを書く。少し飽きたらソファに移動してギターを弾いたり、本を読んだり。さらに飽きたらソファに横たわってそのまま眠ってしまう。ほんとに気ままな生活だ。

 僕の部屋には窓がひとつしかない。それも部屋の大きさからすれば最小のサイズ。ほんとは窓のまったくない地下室みたいな部屋にしたかったのだが、建築法の決まりでそれは無理だと言う。そこで仕方なしに最小限の大きさの窓を作ってもらった。分厚い二重ガラスで防音性は高い。そのうえ、たいていはシャッター式雨戸を降ろした状態だから、部屋の中は静かで、昼間でも真っ暗だ。
 部屋中にタバコとコーヒーの匂いが立ち込め、めったに掃除をしないから、いつも埃っぽい。まあ、誰が見ても不健康な部屋だと感じるだろう。さすがの僕も、時にはたまりかねて窓を全開にし、空気の入れ替えを試みることがある。夜に窓を開けると、正面遠くにラブホテルの明かりが見える。それがまた何とも幻想的な風景だ。(笑)

 そういうわけで、僕はこの部屋がけっこう気に入っている。学生の頃なんかは、部屋にベッドを置き、衣類や食器類なども収納しなければならなかったが、そういったものは別の部屋に置いているので、今のこの部屋にはまったく生活感がない。趣味だけのための7.5畳の空間。真っ暗な闇の中に手元だけの照明をつけ、真空管の灯りを見ながら、ジャズ喫茶のような雰囲気に浸ることもある。
 もっとスタジオみたいな感じにしたいなぁと画策しているが、これ以上よけいな物を置くスペースはない。現在空いている壁も、そのうちまたギターで埋まるだろう。縮尺1/2の鉄腕アトムの設計図という凄い物を持っているのだが、大きくて貼る場所がない。
 そこでふと思いついたのが天井。ここはまだ未開の更地だ。ポスターを貼ることもできるし、いろんな物を吊り下げることだってできる。
 こうして僕の部屋はまたひとつ乱雑さを増し、無秩序に開発された大阪環状線駅の周辺みたいな様相になっていく。何よりも大敵は地震。倒れてきて怪我するようなものはないが、大切な楽器類が傷つかないか心配だ。

僕のおばあちゃん

2017-02-01 23:20:40 | エッセイ


 僕のおばあちゃんはいかにも京女らしい古風な人で、昭和50年代になっても日本髪を結って和服を着ていたし、物の考え方もかなり封建的だった。男と女をまるで別の生き物のごとく区別して考える。また「家」とか「血筋」といったことをやたら重視した。おかげで僕は「この子は我が家の後継ぎやから大事にしとかんと」ということで、他の孫よりも特別に可愛がってもらった。
 妹は「そのうちよそへ行く子」ということで冷たいあしらい。僕ばかりが可愛がられ、妹は今もおばあちゃんのことが大嫌いだ。

 僕がインスタントラーメンを作っていると、「男はんが水屋(台所)へ入ったらあきまへん!」と怒られた。「ラーメンくらい自分で作りなさい」と言った母も一緒に怒られた。食事の作法にもうるさくて、まず最初におかずだけ食べる、ご飯は最後に漬物で食べるという、まるで宴会の席のような食べ方を教える。ご飯とおかずを一緒に食べたり、天ぷらにソースをかけたりする大阪人の母は「下品だ」と虐げられていた。その頃はよく分からなかったが、我が家の嫁姑関係はかなり難しいものだったのだろう。
 ちなみに、おばあちゃんの教育の成果あって、僕は今でもご飯は最後に食べる癖がついている。ご飯の上におかずを乗せて食べるなんてことはしない。ご飯だけ単独で食べるのでコメの味にはけっこううるさい。

 おばあちゃんは火鉢の上でいろんなものを焼いて食べるのが好きだった。干し芋とかスルメとか、いろんなものを焼くのだが、中でも酒粕をあぶって食べるのが大好きで、僕にもたくさん食べさせた。僕が風邪をひくと、アルコール成分がいっぱい残ったタマゴ酒を飲ませた。どうやら僕を酒飲みに育てたかったらしい。

 おばあちゃんは若いころ芸妓をしていて、まだお座敷もそれほど経験がないうちに遊び人の若旦那に見初められて結婚した。その後9人の子供を産んだが、僕の父がその長男である。三味線が得意で、宮川町で若い舞妓さんや芸妓さんに稽古を付けていた。浄瑠璃だか義太夫だかの演奏にも参加していた。年取ってからもお花見シーズンになると、いろんな団体に呼ばれて毎日のように疎水の桜の下で三味線を弾く。僕もよく連れられて行った。
 我が家には今も形見の三味線が3本ある。一応レッスンプロが使っていたものだから、たぶん良い物だと思うのだ。高く売れるんじゃないかと皮算用しつつ、おばあちゃんが化けて出てきたら嫌なので、なかなか手がつけられない。でも、三味線を売ったお金でギターを買うのなら、おばあちゃんも許してくれるんじゃないかと、ときどき甘い誘惑に駆られたりもしている。バンジョーなら三味線に似ているので、もっと良いかな。

 僕のおじいちゃんは江戸時代から続く扇子屋の道楽旦那だった。「店主があくせく働いているような店では信用されへんがな」と勝手な理屈を言っては祇園で遊びまくり、結局店を潰してしまった。おばあちゃん以外にも何人かの女性がいて、そこにもまた子供がいる。二号さんや三号さんが出産するとき、おばあちゃんはご祝儀(慰謝料?)を持って手伝いに行ってたらしい。今ではとても考えられない話だ。
 僕が生まれる前に亡くなっていたので、おじいちゃんとは会ったことないが、写真を見る限り、確かに遊び人らしい顔をしている。その反動か、僕の父やその弟である叔父さんたちは真面目な人ばかり。こういうのって隔世的に似るという話もあるが、どうなんでしょう? まあ、時代が違うので何とも言えないが、なんか、ちょっと憧れたりしてしまう。(笑)

 さて、この写真は僕のお宮参りの様子。我が家の跡継ぎ誕生に、おばあちゃんは大喜びだったらしい。「私が産んだのに、写真を撮る役しかさせてもらえなかった」と、母は今も怒っている。僕が着せられている衣装もおばあちゃんが用意したもの。男児の額に「大」の字を書くのは京都だけの風習だろうか。ちなみに、女児の場合は「小」と書く。
 自分で言うのもなんだが、なかなか賢そうな顔の赤ちゃんだ。(笑) 「末は博士か大臣か」とおばあちゃんは大いに期待を寄せていたらしい。現在僕がギター弾いて遊んでばかりいると知ったら、どんな顔をするだろう。
 「これは私の血筋どす」と自慢するかもしれないな。いや、おばあちゃんの血筋なら、もう少し上手く弾かなければね。ということで、三味線売ってギター買ってもいいですか? おばあちゃん。