昨日も、三原川河口左岸を30分ほどカメラ散歩しました。
釣りをするお父さんとお子さんがいて、朝の挨拶をすると、爽やかに返してくれました。
当たり前のようで、実は、めずらしいことなのです。
先日も、同じように挨拶したのですが、完全に無視され、にらまれたのでした。もっともそれは、私の外見のせいかもしれませんが……
「なにが釣れますか?」と訊ねると、フグさんばかりとのことでした。
「エサはなにですか?」と訊ねると、ゴカイさんとのことでした。
それにしても、愛らしいお子さんでした。両親にしっかりと抱きしめられて大きくなったのだなあと、思いました。
すれ違うとき、私は辺りを見まわしたのですが、釣り上げられたフグさんたちの姿がありませんでした。
ああ……逃がしてやってくれているのだなあと思ったとき、心が温かくなりました。
「なにが釣れますか?」と訊ねたら、来たばかりだからまだ一匹も釣れていないとのことでした。
ミサゴさんが姿を見せてくれるのを待ちながら、いつもの癖で、釣り人さんたちを観察していました。
あゝをとうとよ、君を泣く、
末に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親はヒトの釣り針に食らいつき
腹を満たせとをしへしや、
ヒトにあそばれ死ねよとて
二十四までをそだてしや。
仏曰わく、孝順は至道の法なり、孝を名づけて戒となす。顧(おもう)に、吾人の霊肉は、則ち父母祖先の分身にして、人誰か父母無くして生まる。
祖先の余沢に依らずして、其の生をまっとうするものあらんや。其れこの世に生まるるや、赤体寸糸をかけず、空手一粒をも握らず、しかも飢渇を
免れ、雨露を凌ぎ業を習い徳を修め成長独立以て、社会に生存し得る所以のものは、皆之父母祖先辛苦経営の賜にして、其の恩徳の高大深遠なる、
あに富岳蒼海の比ならんや。されば吾人は現在の師長に対して、至誠孝順以て其の恩徳に酬ゆると共に、亡き人の数に入れる祖先に対しても、憶念
追孝の真心を運び、善根功徳を積みて回向吊祭(ちょうさい)し以て、慈恩に報答その冥福菩提を祈るは人の人たるべき道なり。矣(い)
午前8時過ぎ、三原川河口左岸を訪ねました。
太陽の光はきつかったのですが、海からの風があり、涼しいくらいでした。
ひたすらミサゴさんを待ったのですが、一度姿を見せてくれただけで、狩りの光景は撮らせてもらうことができませんでした。