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神田祭.ch公式ブログ

神田祭公式ブログです。当日の神田祭の実況や神田祭の裏側、インターネットchの「神田祭.ch」の模様をお伝えいたします。

多町一丁目町会

2007-05-13 15:28:01 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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 多町一丁目【たちょう1ちょうめ】は江戸時代は、神田堅大工町【かんだたてだいくちょう】とよばれ、大工職・左官職・屋根屋等の職人が多く住む町であった、といわれています。また江戸名物と言われた「纏屋治郎右衛門【まといやじろうえもん】 」の店があり、江戸でただ一軒の纏屋【まといや】でもありました。町火消【まちびけし】しの旗印たる「纏【まとい】」はいずれもこの店で造ったものであり、「いろは四十七組【よんじゅうななくみ】」はもとより、他の地方の分までも一手に手掛け、その名は広く知れ渡っていたといわれています。
 
 町会の道路下には、東京都指定史跡【しせき】である「神田下水【かんだげすい】」が埋設されています。この下水は明治17年に、一般市民の衛生や都市環境を改善する目的で、近代工学に基づいて建設された我が国初の近代下水道といわれています。その構造は現在の下水道管とは異なり、レンガで積まれ強固に築かれています。
 
 町会の該当区域は内神田三丁目7・12~14・17・18・22・23番地となっています。


 当町会の神輿は昭和25年、宮本重義【みやもと しげよし】の作品です。大きさは2尺あり、白木【しらき】づくりとなっています。明神下から大鳥居までの女性だけの巡行は必見です。熱気と興奮の宮入は当連合の十二番をつとめます。



内神田旭町町会

2007-05-13 15:23:23 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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 江戸時代、この辺りは出羽【でわ】秋田藩藩主佐竹 義宣【さたけ よしのぶ】及び能楽師幸若太夫【こうわかだゆう】の屋敷地でした。天和【てんな】2年(1682)の大火でこの付近一帯が焼失した後、佐竹氏は下谷三味線掘【したやしゃみせんぼり】 (現台東区)に移転し、跡地は町人地となり永富町【ながとみちょう】二~四丁目、新革屋町代地【しんかわやちょうだいち】 、元乗物町代地【もとのりものちょうだいち】の一部となりました。明治2年(1869)、これらの地域は「旭町【あさひちょう】」と改名されました。「旭町」の由来は佐竹氏の家紋「扇に日の丸」に因んでいるといわれています。

 町内にある『佐竹稲荷神社【さたけいなりじんじゃ】』は寛永【かんえい】12年(1635)に創られました。同町の鎮護【ちんご】の神として丑寅【うしとら】の一隅【いちぐう】に安置されていましたが、大震災後の区画整理の際に現在地(内神田三丁目10番地)に移されました。

 昭和41年に住居表示が実施されると、内神田二丁目と三丁目の一部となり、旭町の名前は地図から消えてしまいましたが、昔を語り継ぐように町会の名前として今でも存続しています。

 町会の該当区域は内神田二丁目8・9・13・14・16番地、内神田三丁目5・6・8~11・15・16・24番地となっています。


 旭町【あさひちょう】の旧町である、永富町【ながとみちょう】では天下祭の神田祭では竜神【りゅうじん】の山車【だし】を出していました。その故事にちなんで、旭町神輿には神田明神、竜神山車、花笠【はながさ】の町衆【ちょうしゅう】が彫刻されている、非常に珍しいものです。昭和27年、宮本重義【みやもと しげよし】作です。



内神田鎌倉町会

2007-05-13 15:10:17 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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天正18年(1590)に徳川家康は江戸城へ入り、「鎌倉町【かまくらちょう】」の付近は江戸城の築城【ちくじょう】工事の際、資材の荷揚げ場【にあげば】となっていました。多くの材木石材が相模の国【さがみのくに】(現在の神奈川県)から運び込まれ、鎌倉から来た材木商たちが築城に使う建築部材を取り仕切っていました。そのため荷揚場が「鎌倉河岸【かまくらがし】」と呼ばれ、それに隣接する町が「鎌倉町【かまくらちょう】」と名付けられたといわれています。
 
 鎌倉町【かまくらちょう】は400年以上の歴史がある江戸最古の町の一つです。本年は、明暦3年(1657)に「新添江戸之国【しんてんえどのくに】」に「かまくら丁」の名が記載されてから350周年目の年になります。

 町内にある御宿稲荷神社【おやどいなりじんじゃ】は、小さいながらも江戸が都市化する以前から祀【まつ】られている数少ない神社の一つです。家康がはじめて江戸に来たときに、一夜を明かした家の庭に祠【ほこら】があり、後に幕府より家康の足跡を記念して社地を寄進【きしん】されたため、世に御宿稲荷神社の大神【だいしん】と祀られるようになりました。本年5月に新築された美しい社殿をご覧下さい。 

 町会の該当区域は内神田一丁目一番5~9・12・14号、5~8番及び内神田二丁目1~7、内神田三丁目1~4となっています。


 当町会の神輿は朱色【しゅいろ】の飾網【かざりあみ】が美しい、2尺5寸の大神輿です。昭和38年に宮本重義【みやもと しげよし】により作られました。担ぎ手の緑色の衣装【いしょう】と神輿の鮮やかな対比をお楽しみ下さい。綺麗な担ぎ方が当町会の自慢です。



司町二丁目町会

2007-05-13 14:58:18 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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「司町二丁目【つかさちょう2ちょうめ】」は、「新銀町【しんしろがねちょう】 、雉子町【きじちょう】 、関口町【せきぐちちょう】 」等が合併し、昭和10年に設立しました。

 新銀町【しんしろがねちょう】は江戸時代に銀細工を扱う者が住んでいたことに由来し、明治5年に設立しました。

 このうち雉子町【きじちょう】には、『江戸名所図会』 【えどめいしょずえ】を親子三代にわたって完成させたことや、『東都歳事記【とうとさいじき】 』『武江年表【ぶこうねんぴょう】 』などで有名な、斎藤 月岑【さいとう げっしん】が住んでいました。斎藤家は代々、雉子町【きじちょう】の名主をつとめていました。

 関口町は江戸時代に開かれた町屋で、関口弥太郎【せきぐち やたろう】という人物が草創名主【そうそうめいしゅ】だったので、それに因【ちな】んで名付けられたといわれています。
 
 町会の守護神として、「真徳稲荷【しんとくいなり】神社」が祀られており、五穀豊穣【ごこくほうじょう】、悪疫鎮護【あくえきちんご】、商売繁盛の神様として現在に伝えられています。

 昭和22年、神田区と麹町【こうじまち】区が合併して千代田区が成立すると、司町二丁目【つかさちょう2ちょうめ】は神田司町二丁目となりました。その後、「神田」が無くなり、司町二丁目となり、現在に至っています。

 町会の該当区域は司町二丁目全域となっています。


 当町会の神輿は昭和27年、宮本重義【みやもと しげよし】の手により作られました。大きさは2尺5寸で、二重台座【にじゅうだいざ】になっています。本塗【ほんぬり】の屋下総金箔押【おくか そうきんぱく おし】で彩られています。台輪の四方には四神【しじん】彫刻が入っています。総勢400名の担ぎ手で、750キロの神輿を担ぎます。平成13年に大補修をしました。丈は低いですが、重厚な神輿となっています。連合の中でも一番の神輿であると自負しています。



淡路町一丁目町会

2007-05-13 14:36:50 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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江戸時代のはじめ、この地には「西福寺【さいふくじ】 」「西念寺【さいねんじ】 」という、将軍家と関係が深い寺院が、観音坂【かんのんざか】を下りきったあたりに位置していました。西福寺【さいふくじ】は慶長【けいちょう】3年(1598)、徳川家康が故郷の三河【みかわ】から呼び寄せた寺です。

 神田淡路町一丁目【かんだあわじちょう1ちょうめ】と名付けられたのは明治5年(1872年)になってからです。この名前は、鈴木淡路守【あわじのかみ】の屋敷があったことから名付けられたという「淡路坂【あわじざか】 」に由来しています。

 当町会は、昔からのしきたりを尊重し大切に守る町会です。

 町会の該当区域は淡路町一丁目の奇数番地となります。


 当町会の神輿は、昭和40年に、宮本重義【みやもと しげよし】により作られました。小型の神輿ではありますが、担ぎ手衆の迫力と技に御注目下さい。