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神田祭.ch公式ブログ

神田祭公式ブログです。当日の神田祭の実況や神田祭の裏側、インターネットchの「神田祭.ch」の模様をお伝えいたします。

鍛冶町一丁目町会

2007-05-13 16:27:03 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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 鍛冶町は、慶長【けいちょう】8年(1603)の市街地造成【ぞうせい】の際につくられた町屋【まちや】です。ちなみに「鍛冶【かじ】」という名は、町が生まれた当初、江戸幕府お抱えの鍛冶方棟梁【かじかたとうりょう】だった高井 伊織【たかい いおり】が、この地を幕府より拝領して屋敷を構えたことに由来するとされます。多くの鍛冶師【かじし】、鋳物師【いもじし】、釜師【かまし】などが集まって築城用金物【かなもの】をはじめとして、建築用金具、鐘【かね】、鍋、釜などを製造する一大工業地帯となっていました。

 鍛冶町【かじちょう】は、江戸時代の武士や庶民にとって必要不可欠な金属製品を提供し、日常生活をささえ続けた町でした。

 昭和8年、震災復興の区画整理の際に町名変更が実施され、南乗物町【みなみのりものちょう】等の五つの町を一つとした「鍛冶町一丁目【かじちょう1ちょうめ】」が生まれました。

 町会の該当区域は、鍛冶町一丁目全域となっています。


 当町会の神輿は神田明神の氏子町会の中で、数少ないの入母屋造り【いりもやづくり】の神輿の一つです。総勢300名の担ぎ手により宮入を行います。秋葉原電気街での神輿振りは必見です。



鍛冶町二丁目町会

2007-05-13 16:19:40 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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町名の由来は一丁目と同じで、多くの鍛冶師【かじし】 、鋳物師【いもじし】 、釜師【かまし】などが集まった土地であった事に因んで、名付けられました。鍛冶町【かじちょう】の名前の始まりは江戸時代になります。この近辺に幕府御用【ごよう】を勤める鍛冶方棟梁【かじかたとうりょう】であった高井伊織【たかいいおり】が屋敷を拝領【はいりょう】し、鍛冶職人などが数多く集まっていたのです。

 この二丁目界隈は、金物のなかでも、とくに刀や薙刀【なぎなた】といった打物【うちもの】を扱う業者が多かったのが特徴だったようです。

 昭和8年の区画整理で、黒門町【くろもんちょう】 、上白壁町【かみしらかべちょう】 、下白壁町【しもしらかべちょう】 、鍛冶町二丁目等が統合され、「神田鍛冶町二丁目」となりました。昭和22年麹町区と神田区の合併により千代田区神田鍛冶町二丁目となり、更に昭和49年に神田の文字が無くなりました。

 近代科学の大先覚者【だいせんかくしゃ】、平賀源内【ひらが げんない】が29才で初めて江戸に出て家を持ったのがこの町であり、生涯を通して最も長く住んだ町であるといわれています。

この町会には「良薬にして口に甘し」の浅田飴があります。明治30年からずっとこの地で営業を続けています。元は江戸末期から明治初期にかけて活躍した漢方医の浅田 宗伯【あさだ しょうはく】処方の「御薬さらし水飴」を「浅田飴」と改め、売り出したのが始まりです。
 
町内の該当区域は鍛冶町二丁目全域となっています。


当町会の神輿は、昭和9年、神田神社の再興に伴う祭礼に併せて、宮大工の手により作られました。大きさは、台輪【だいわ】寸法2尺6寸です。総 欅【そうけやき】作りの傑作の神輿です。現在は、神田神社神輿庫【みこしこ】一番庫【いちばんこ】に収納されています。



神田須田町二丁目町会

2007-05-13 16:18:22 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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 現在の神田須田町【かんだすだちょう】二丁目が生まれたのは、昭和8年になります。大正12年(1923)の震災復興の区画整理の際に、「元柳原町、柳町、柳原河岸、小柳町【こやなぎちょう】、平永町など」の町が合併され、いまの町の区域が定められました。

 昭和20年2月22日と3月10日の東京大空襲では、東京の東半分がほぼ焼き尽くされましたが、須田町二丁目は町の人々が一致団結して防火にあたったため、町内の一角は戦火をまぬがれることができた、といわれています。

 戦後、須田町二丁目周辺は、ラシャの切り売りなどを生業【なりわい】とする業者が集まり、一時は日本一といわれるほどの繁盛ぶりを示しました。 

 昔から祭り好きの人たちが多い土地柄ですが、この界隈には、神田神社・柳森【やなぎもり】神社・下谷【したや】神社の氏子【うじこ】が集まり住んでいます。いまでもこの須田町に住む人々は、お祭りの他、様々な町内イベントを行っており、伝統・文化を守り続ける町会です。

 町会の該当区域は、須田町二丁目全域となっています。


 当町会の神輿は、昭和13年、神田の宮惣【みやそう】で作られました。大きさは2尺3寸になります。黒漆屋根【くろうるしやね】に3つの屋根紋【やねもん】が入り、胴が絞られた美しく、バランスの良い神輿です。約500名の担ぎ手で宮入を行います。



北乗物町町会

2007-05-13 15:50:40 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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北乗物町【きたのりものちょう】は、明治2年(1869)に、元乗物町代地【もとのりものちょうだいち】 、兵庫屋敷代地【ひょうごやしきだいち】 、神田紺屋町二丁目横町代地【かんだこんやちょう2ちょうめ よこちょうだいち】が合併して成立しました。成立時、この地に多くの駕篭【かご】職人が入居しました。町名を付けるにあたり、かつて駕篭職人が多く住んだ地を乗物町と読んだことから乗物町としました。当時、今川橋の付近に南乗物町が有り、そこより北に位置する故「北乗物町」と名付けられたと云われています。明治の中頃には、酒類製造所と云う大看板が下がっている大きな居酒屋があり、多くの労働者で大変賑わっていたそうです。北乗物町は鍛冶町一丁目【かじちょう1ちょうめ】の中央を東西に走る道筋の北側にできた片側町でした。 

 元乗物町の「元」は日本橋の「新乗物町【しんのりものちょう】」に対して付けられました。「兵庫屋敷」は兵庫殿【ひょうごでん】という御女中【ごじょちゅう】が拝領【はいりょう】した屋敷である、と言われています。

 町会の該当区域は、北乗物町全域となっています。


 当町会は神輿に加え、山車【だし】にも御注目下さい。昭和29年に作成された、獅子頭【ししがしら】を戴【いただ】く太鼓山車です。雄、雌の獅子頭【ししがしら】だけを取り外し、担ぐことも出来ます。昨年は山車を修復しました。その美しさに御注目下さい。今回、「紺屋町南町会」の皆様の協力を得て宮入をします。「北乗物町」「紺屋町南」の2種類の半纏をお楽しみください!



須田町一丁目南部町会

2007-05-13 15:42:03 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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 江戸時代の須田町は、現在の神田須田町一丁目とほぼ同じ範囲でした。江戸期の町内には、菓子屋や薬屋、塩や油を扱う問屋、神具【しんぐ】や仏具【ぶつぐ】を売る店など、さまざまな商品を扱う店があった、といわれています。現在の町内にも、東京都選定の歴史的建造物に指定されるような老舗の商店が数多く営業しています。
 
 かつて、須田町交差点の一角で、銀座線の入口近くには「立花亭【たちばなてい】」という寄席【よせ】がありました。この寄席【よせ】は震災では焼けましたが、戦災はまぬがれて、昭和29年に幕をおろすまで、書物にもよく取り上げられるほどの東京でも有数の寄席【よせ】の一つでした。名人と言われた三代目、柳家 小【やなぎや こ】さんの告別式もここで執り行われました。
 
 町会の該当区域は須田町一丁目5・7番地及び16~34番地までの偶数番地となっています。


 当町会の神輿の大きさは他の町会と比べると、小ぶりですが、彫刻の手の凝りようではどこにも負けないと思います。中神田十三ケ町連合の一員として宮入りします。当町内には、老人病院があります。病院前で神輿をねるときは入院患者のご老人の方々を始め、病院スタッフにも大変喜ばれています。