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神田祭.ch公式ブログ

神田祭公式ブログです。当日の神田祭の実況や神田祭の裏側、インターネットchの「神田祭.ch」の模様をお伝えいたします。

中神田十三ヶ町連合 内神田旭町々会

2015-05-10 16:51:39 | 宮入順

【町会の特徴】

江戸時代、この辺りは出羽秋田藩藩主佐竹義宣及び能楽師幸若太夫の屋敷地でした。

天和2年(1682)の大火でこの付近一帯が焼失した後、佐竹氏は下谷三味線掘(現台東区)に移転し、跡地は町人地となり永富町二四丁目、新革屋町代地、元乗物町代地の一部となりました。

明治2年(1869)、これらの地域は「旭町」と改名されました。

「旭町」の由来は佐竹氏の家紋「扇に日の丸」に因んでいます。

 

町内にある佐竹稲荷神社は寛永12年(1635)に創られました。

同町の鎮護の神として丑寅の一隅に安置されていましたが、大震災後の区画整理の際に現在地(内神田三丁目10番地)に移されました。

 

昭和41年に住居表示が実施されると、内神田二丁目と三丁目の一部となり、旭町の名前は地図から消えてしまいましたが、昔を語り継ぐように町会の名前として今でも存続しています。

 

町会の該当区域は内神田二丁目89131416番地、内神田三丁目568〜11151624番地となっています。

 

【神輿の特徴】

旭町の旧町である、永富町では天下祭の神田祭では竜神の山車を出していました。その故事にちなんで、内神田旭町々会の神輿は神田明神、竜神山車、花笠の町衆が彫刻されている、非常に珍しいものです。昭和27年、宮本重義作です。

 


中神田十三ヶ町連合 神田司町二丁目町会

2015-05-10 16:24:39 | 宮入順

【町会の特徴】

神田司町二丁目は、「新銀町、雉子町、関口町」等が合併し、昭和10年に設立しました。

 

新銀町は江戸時代に銀細工を扱う者が住んでいたことに由来し、明治5年に設立しました。

 

このうち雉子町には、『江戸名所図会』を親子三代にわたって完成させたことや、『東都歳事記』『武江年表 』などで有名な、斎藤 月岑が住んでいました。斎藤家は代々、雉子町の名主を務めていました。

 

関口町は江戸時代に開かれた町屋で、関口弥太郎という人物が草創名主だったので、それに因んで名付けられました。

 

町会の守護神として、「真徳稲荷神社」が祀られており、五穀豊穣、悪疫鎮護、商売繁盛の神様として現在に伝えられています。

 

昭和22年、神田区と麹町区が合併して千代田区が成立すると、司町二丁目は神田司町二丁目となりました。

 

町会の該当区域は神田司町二丁目全域となっています。


 

 

【神輿の特徴】

神田司町二丁目町会の神輿は昭和27年、宮本重義の手により作られました。大きさは2尺5寸で、二重台座になっています。本塗の屋下総金箔押で彩られています。台輪の四方には四神彫刻が入っています。総勢400名の担ぎ手で、750キロの神輿を担ぎます。平成13年に大補修をしました。丈は低いですが、重厚な神輿となっています。連合の中でも一番の神輿であると自負しています。

 

 


中神田十三ヶ町連合 須田町北部町会

2015-05-10 16:12:04 | 宮入順

【町会の特徴】

須田町北部町会は昭和8年に設立しました。

 

この辺りには、かつて、甲武鉄道(現中央線)の始発駅である、万世橋駅(現交通博物館)があり、東京で一番交通の便利な場所でした。

須田町交差点の雑踏ぶりは「親知らず子知らず」と称されるほどで、大正初年(1912)に、交通巡査が日本で初めて立ったのもこの須田町交差点であったと言われています。

 

また、須田町北部町会には出世稲荷神社という、誰もがあやかりたい名前を持つ神社があります。

創立の頃より、町内の鎮守神であったと言われています。

現在の社殿は昭和3年に完成したもので、毎年915日に祭祀を行っています。

 

町会の該当区域は須田町一丁目139〜25番地までの奇数番地と、淡路町一丁目24番地、淡路町二丁目2〜12までの偶数番地となっています。

 

 

【神輿の特徴】

須田町北部町会の神輿は、昭和16年に製作されました。

伝統を重ねてきた神輿同様、我々担ぎ手も強い気持ちで担ぎ続けます。

 


中神田十三ヶ町連合 淡路町二丁目町会

2015-05-10 16:07:01 | 宮入順

【町会の特徴】

江戸時代、この界隈は、武家屋敷が立ち並ぶ地域でした。

永井信濃守の屋敷が松平伊豆守の屋敷となり、のちに若狭小浜藩酒井家の上屋敷となりました。

 

明治5年(1872)、ここに神田淡路町二丁目という名前が正式に付けられました。

町名の由来とされる淡路坂は、鈴木淡路守の屋敷があったためと言われています。

 

明治初期、現在の淡路公園の場所に、明治後期の日本を代表する知識人を輩出した共立学校(後の開成学園)が創設されました。ここでは正岡子規や南方熊楠などが学びました。

また町内には一時期、たけくらべなどで知られる女流作家で、歌人でもあった樋口一葉も住んでいました。

 

淡路町は文化の町となり、その新進の気風は町並みにも表れていました。

大正末期から昭和初期にかけては、昌平橋近くに活動常設館(映画館)の名門である神田シネマパレスがあり、多くの人で賑わっていました。

 

町会の該当区域は淡路町二丁目1〜29番地までの奇数番地となっています。

 

【神輿の特徴】

淡路町二丁目町会の神輿は、昭和52年の宮本重義の手によるものです。神田明神氏子町会のどこにも負けないような担ぎをします。

 


中神田十三ヶ町連合  淡路町一丁目町会

2015-05-10 15:50:35 | 宮入順

【町会の特徴】

江戸時代の初め、この地には「西福寺」「西念寺」という、将軍家と関係が深い寺院が、観音坂を下りきったあたりに位置していました。

西福寺は慶長3年(1598)、徳川家康が故郷の三河から呼び寄せた寺です。

 

神田淡路町一丁目と名付けられたのは明治5年(1872年)になってからです。

この名前は、鈴木淡路守の屋敷があったことから名付けられたという「淡路坂」に由来しています。

当町会は、昔からのしきたりを尊重し大切に守る町会です。

町会の該当区域は淡路町一丁目の奇数番地となります。

 

【神輿の特徴】

淡路町一丁目町会の神輿は、昭和40年に、宮本重義により作られました。小型の神輿ではありますが、担ぎ手衆の迫力と技に御注目下さい。