本年も当ブログをどうぞ
よろしくお願いいたします.
執筆人一同
屋外プールで日焼けして、暇さえあれば背中のズル剥けた皮膚をはがしている「くりぼう」です。
さて、まだまだ残暑が厳しいですが、お盆のUターンラッシュがピークを迎えたというお決まりのニュースを聞き、高校野球のベスト8が決まるこの時期、過ぎゆく夏が少々惜しまれます。暦の上ではもう秋です。ただ今年に限っては(もちろん来年以降もでしょうけど)、電力需要のピークが去ったらちょっと一安心、いつになく秋の訪れが待ち遠しいという関係者も多いことでしょう。
先日の日直、エアコンの故障した医局で高校野球を観ておりましたが、まさにサウナのような暑さでした。それでも郷土の一戦ということで汗を拭き拭き応援していましたが、熱中症など身の危険を感じて途中で観戦を諦めました。寒いのは着込めば何とかなりますが、暑いのだけはどうにもなりません。
食料品も同様で、冷蔵庫のない夏を想像しただけでぞっとします。冷たいビールやスイカのない夏なんて。結局のところ暑さの中にある「涼」も夏には絶対欠かせないわけです。
が、良く考えれば真冬の「暖」も全く同じことです。暑くなければ涼は求められないし、寒いから暖をとるとほっとする。まあ当たり前のことですが、涼や暖といった「快楽」のようなものは、それと対極にある「苦痛」やそれに近い状況下でのみ得られる、と言っても過言ではないかもしれません。
ベランダのトマトが鮮やかに色づいています。しかし、良く見ると表面の皮に亀裂が入っています。隣のキュウリと同じように水やりをしていたため、水分を吸いこみ過ぎて実がはじけてしまったわけです(それでも甘くて美味しいのですが)。
もともと乾燥に強い植物なので、必要以上に水分を吸い上げてしまうとか。冷やしトマト(また「涼」ですね)のみずみずしさの裏には、乾燥に耐えて限られた水分をしっかり貯える力強さがあったのですね。
そんなわけで、目指すところのベクトルと今自分が実際に向かっているベクトルが逆向きだったとしても、線形学の世界ではそうはいきませんが、実社会では最後は案外目指す方向に向かっていたりするのかもしれません。
決して明るいニュースばかりではありませんが、その中でしか得られないものがあり、何だかんだで最後は思うような方向に進んでいるはずと信じて、トマトのように力強く生きていきたいと感じた今年の夏でした。
瀬戸内の風です。
あまりに面白かったので他のブログから引用させてもらいました。
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えだのんの宣伝
「大丈夫?」っていうと、 「大丈夫」っていう。
「漏れてない?」っていうと、 「漏れてない」っていう。
「安全?」っていうと、 「安全」っていう。
そうして、あとでこわくなって、
「でも本当はちょっと漏れてる?」っていうと、 「ちょっと漏れてる」っていう。
こだまでしょうか。 いいえ、枝野です。
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みなさま,こんにちは.
新人記者の「瀕死の暗黒騎士」です.どうぞ,よろしくお願いいたします.
何が安全で,何がそうでなくて,
何がデマで,何がそうでなくて...
「専門家」という非・専門家が安全神話をかたりつつ,子供の年間被ばく放射線量をオレ様基準で勝手に20mSv/yearにあげている...
リーダーとなる位置に立つ者(大人)が,未来ある子供たちのリソースを食いつぶす...
いつから「日本」は「自律」の意味を知る大人がいなくなったんだろう...
こんな話を「重い」と遠ざけてる場合ではないでしょ.
電気が使えなくても,安全に過ごせるほうがいいんじゃないかな.
以下の引用は,20年間,原発建設にたずさわっていた某H氏の文章からお借りしました.
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最後に,私自身が大変ショックを受けた話ですが,北海道の泊原発の隣の共和町で,教職員組合主催の講演をしていた時のお話をします.どこへ行っても,必ずこのお話はしています.あとの話は全部忘れてくださっても結構ですが,この話だけはぜひ覚えておいてください.
その講演会は夜の集まりでしたが,父母と教職員が半々くらいで,およそ三百人くらいの人が来ていました.その中には中学生や高校生もいました.原発は今の大人の問題ではない,私たち子どもの問題だからと聞きに来ていたのです.
話が一通り終わったので,私が質問はありませんかというと,中学二年の女の子が泣きながら手を挙げて,こういうことを言いました.
「今夜この会場に集まっている大人たちは,大ウソつきのええかっこしばっかりだ.私はその顔を見に来たんだ.どんな顔をして来ているのかと.今の大人たち,特にここにいる大人たちは農薬問題,ゴルフ場問題,原発問題,何かと言えば子どもたちのためにと言って,運動するふりばかりしている.私は泊原発のすぐ近くの共和町に住んで,二四時間被曝している.原子力発電所の周辺,イギリスのセラフィールドで白血病の子どもが生まれる確率が高いというのは,本を読んで知っている.私も女の子です.年頃になったら結婚もするでしょう.私,子ども生んでも大丈夫なんですか?」と,泣きながら三百人の大人たちに聞いているのです.でも,誰も答えてあげられない.
「原発がそんなに大変なものなら,今頃でなくて,なぜ最初に造るときに一生懸命反対してくれなかったのか.まして,ここに来ている大人たちは,二号機も造らせたじゃないのか.たとえ電気がなくなってもいいから,私は原発はいやだ」と.ちょうど,泊原発の二号機が試運転に入った時だったんです.
「何で,今になってこういう集会しているのか分からない.私が大人で子どもがいたら,命懸けで体を張ってでも原発を止めている」と言う.
「二基目が出来て,今までの倍私は放射能を浴びている.でも私は北海道から逃げない」って,泣きながら訴えました.
私が「そういう悩みをお母さんや先生に話したことがあるの」と聞きましたら,「この会場には先生やお母さんも来ている,でも,話したことはない」と言います.「女の子同志ではいつもその話をしている.結婚もできない,子どもも産めない」って.
担任の先生たちも,今の生徒たちがそういう悩みを抱えていることを少しも知らなかったそうです.
これは決して,原子力防災の八キロとか十キロの問題ではない,五十キロ,一〇〇キロ圏でそういうことがいっぱい起きているのです.そういう悩みを今の中学生,高校生が持っていることを絶えず知っていてほしいのです.
原発がある限り,安心できない
みなさんには,ここまでのことから,原発がどんなものか分かってもらえたと思います.
チェルノブイリで原発の大事故が起きて,原発は怖いなーと思った人も多かったと思います.でも,「原発が止まったら,電気が無くなって困る」と,特に都会の人は原発から遠いですから,少々怖くても仕方がないと,そう考えている人は多いんじゃないでしょうか.
でも,それは国や電力会社が「原発は核の平和利用です」「日本の原発は絶対に事故を起こしません.安全だから安心しなさい」「日本には資源がないから,原発は絶対に必要なんですよ」と,大金をかけて宣伝をしている結果なんです.もんじゅの事故のように,本当のことはずーっと隠しています.
原発は確かに電気を作っています.しかし,私が二〇年間働いて,この目で見たり,この体で経験したことは,原発は働く人を絶対に被曝させなければ動かないものだということです.それに,原発を造るときから,地域の人達は賛成だ,反対だと割れて,心をズタズタにされる.出来たら出来たで,被曝させられ,何の罪もないのに差別されて苦しんでいるんです.
みなさんは,原発が事故を起こしたら怖いのは知っている.だったら,事故さえ起こさなければいいのか.平和利用なのかと.そうじゃないでしょう.私のような話,働く人が被曝して死んでいったり,地域の人が苦しんでいる限り,原発は平和利用なんかではないんです.それに,安全なことと安心だということは違うんです.原発がある限り安心できないのですから.
それから,今は電気を作っているように見えても,何万年も管理しなければならない核のゴミに,膨大な電気や石油がいるのです.それは,今作っている以上のエネルギーになることは間違いないんですよ.それに,その核のゴミや閉鎖した原発を管理するのは,私たちの子孫なのです.
こんにちは,元気にしてますか?
「へなちょこB級泌尿器科医」です.
ちょっと昔,サンフランシスコへ行ったとき,町中の公園に建ててあった石碑に,次の一文が彫られていました.
Treat the earth well.
It was not given to you by your parents,
it was loaned to you by your children.
We do not inherit the Earth from our Ancestors,
we borrow it from our Children.
日本の現状を,将来の子供たちにどう説明すればいいのか...
凡人の私は,祈ることしかできません.
このたびの東日本大震災により被災された方々に謹んでお見舞い申し上げますとともに、震災で尊い命を失われた数千名もの方々に対しまして、衷心よりご冥福をお祈りいたします。
被災地における物資や電力などの不足に鑑み、特に東日本においては節電や各種催事の中止、延期といった措置がとられています。被災者の支援や被災地の復興が何よりも最優先される状況であることは自明であり、これに異を唱える者はありません。
しかしその一方で、各種スポーツ競技などでは開催の是非が問われ、賛否が分かれている場面も見受けられます。収益による金銭的な援助のみならず、選手らの懸命な競技が被災者を精神的にも支援できるという肯定的な意見と、ライフラインも確保できず行方不明者も1万人を超えている状況ではそれどころではないだろうという否定的な見方です。いずれも被災者の立場を十分に考えた上での意見の対立であり、判断は難しいところです。
いずれにしましても、今我々に求められることは、被害の全貌・詳細を把握し、求められるもののうち自分らが与えることができるものが何であるかを冷静に見極め、それを効率良く実践していくことだと考えています。
私「くりぼう」は、本ブログの読者を大勢存じております。そしてその中には、今回被災された地域にお住まいの方も数名いらっしゃいます。私の存じないところでも、被災された読者が他にいらっしゃるかもしれません。もっとも、このブログをご覧いただけること自体、難を乗り越え元気に過ごしていらっしゃる証でしょうし、ある程度復興の目途が立つまではこのブログをご覧になることもないとは思います。しかしスポーツ競技開催の是非が問われるように、ブログ投稿も、投稿する以上は、被災者に配慮し何かのお役に立てるようなものを目指すべきと考えています。
いつか被災地に復興の明かりが灯り、本ブログを思い出し、そしてご覧いただいたとき。遠く離れたとある医局でも、こうして被災者の力になりたいと願う者がいたのだというその事実を、さらなる復興への糧としていただけたら、投稿者としてはこれほど有り難いことはありません。
今現在、あるいは復興したその時に被災者の方々の心に届く文章とは一体どんなものか、今回の投稿がくりぼうの出した答えであります。
一刻も早い復興を願っております。