
これは父の20代前半の写真。当時住んでいた家の庭で。
「このときのうちは400坪の広さがあってさあ、
庭でゴルフができたんさ」
……。
400坪はどうやら本当らしい。
でも、確かに広いとはいえ、本格的なゴルフのコースはつくれないでしょう。
せいぜいミニサイズのコースと、うちっぱなしができるエリアくらい
なのでは……。
で、これにはちゃんとオチがあり、
「自分の持ち物じゃないんさ。副頭取の別宅を借りていて」だそう。
父を含め、子どもが5人いた祖父。
どうせみな巣立つんだから、早いうちに持家なんて不要、との考えで。
でもまあ、子どもたちが巣立ってから建てた家も、
300坪の敷地内に部屋がいくつあったか、
かくれんぼできるほど広い平屋だったから、やはり仕事人としての祖父は
すごかったのだなあ、と思う。
(でも、床や板張りの廊下がひんやりしていて、雨戸が重くて、
何より何だか古めかしくて、と、幼い私には決して魅力的ではなかった)
私にとっては気難しくて怖いばかりの祖父だったけれど
経済における先見の明は、さすがと思うことばかり。
U市に本店を建てる際、街なかではなく未開の街道沿いを選んで、
市長からは何で?といぶかしがられるも、
数年後には開発の話が持ち上がり、今ではすっかり繁華街に。
付き合いでいやいや買ったゴルフ会員券が、
バブル期、80万倍に値上がりするも、
ゴルフ好きな父が「その会員券欲しいなあ」と言ったら激怒し、
「こんなものはそのうち紙屑になる。ゴルフに行きたいなら俺が現金を出すから」と
その場で業者に電話し、アタッシュケース一つ分の札束で売り払ってしまったり。
生前に、「いい場所がありますよ」と
あまたのお寺や業者が墓地の売り込みにくるも興味を示さず、
市営の安い、しかし見晴の良い一角を買い、
その代り、墓石は小松石の最高級のものを選んだり。
そしてハマショーこと濱田庄司とのエピソード。
この方です。
↓

祖父がどこかの支店長だった時代、
「益子焼を広めたいというので、濱田さんがたびたび銀行にきて」
まだ有名になる前で、5千円でも一万円でもいいから買って欲しい、と。
……本当かなあ。
濱田庄司は1955年には人間国宝になっていて、
まあそうした指定と、知名度と、売れ行きは必ずしも連動しないとしても、
5千円ということはなかろうに。
と思ったけれど、私も反論するだけの裏付けは持っておらず、
ふーんと聞くばかり。
「でも、そんな早いうちから濱田さんの作品を少しずつ買っていた、ということは
お爺ちゃんも美術的なものが好きだったのね」
「いやいや。」
父、強く否定。
「爺ちゃんに美術や工芸品を見る目なんかないんさ。勉強がすべて、の人だったから」
持ってきたのを、ふんふんふんと一瞥して、じゃこれ、と適当に買っていただけ、
……と父は言うけれど。
それで

日本民藝館所蔵の作品(写真)とほぼ同じ角皿を選ぶのだから、
やっぱり祖父はただものではない
というのが私の結論だ。
一方、父は
着物のことは何もわからず
祖母の形見分けで
「よさそうなのを選んできたつ・も・り」と私に言ってきちゃったり、
それで選んだ能登上布と似たような上布が、
テレビの鑑定番組で2000万円の値をつけたのを知り、びくびくしたりはしても、
祖父よりは美術が好きで、横山大観や伊東深水の画集を持っているし、
何より、自分の手を動かすのが大好きな人だ。

若いころに描いた鉛筆画。

昔は年賀状をすべて木版、多色刷りでつくっていた。
こんな父だから、
先の、祖父に対する「見る目がない」発言はつくづく、
偽らざる気持ちからなんだろうなと思う。
若いころは相当、衝突したのではないだろうか。
そんな祖父と父を持つ私はといえば、
祖父の経済的なセンスはまーったく受け継がず、
(たぶんこれは弟が受け継いだ)
父のこの器用さ、絵心もまーったく受け継がず。
でも好きだから仕方がない。
実用的なものからはほど遠い感性だけで、
美術や工芸品をただただ眺めているばかりなのだ。
※濱田庄司(と柳宗悦)の展示レポは、古い記事ですがコチラ。