きょうの社会不安障害ビト

35歳、家事手伝い。

そして社会不安障害。

季節の変わりめと夏がえらく苦手。
今年はどうなる・・闘病は続く

病名が下されて、私は一つ体得した。

2007年03月20日 | 社会不安障害と診断されるまで
病名を告げられた瞬間の衝撃はあったものの、
もうひとつの感動も覚えていた。


すとん、ときたのだ。
腑に落ちた瞬間と言うモノがあるとすれば、それだったと思う。

ああ。
そうだったんだ。

病気だったんだ。私は。

正体不明の病名と共に、「そうかそうか」という妙に納得した感想も、
身体中に満ちていた。

そのとき初めて、
「じゃあ、しょうがないか」とココロと体で感じることができた。
諦めを受け入れる術を、いきなり体得したのだった。

コトバで言い聞かせても、それはなかなか出来ずにいた。
だからこそ精神状態は落ち込むばかりで、病院に行く羽目になったのだけれど。
「気分が落ち込んだときに読む本」みたいなものを、いくら読んでも無理だった。
説教されてるような、責められる気持ちが膨らんだだけだった。
「こうすればいいって言ってるじゃないか」と言われている気分だった。

でも、ドクターの言葉は強かった。

医者に言われちゃあ、仕方がないではないか。
病気じゃあ、仕方がないではないか。
そう思えた。
そうとしか思えなかった、と言える程に。諦められたのだ。


自分に厳しい性質の私は、ようやく甘えられる免罪符を得られたのだ。
うちに帰ってからも、そうかそうか、と納得した気持ちを噛みしめていた。


社会不安障害というモノが、一体どういうモノなのか。
全然把握していないことに気付くのは、それから少し後だった。

社会不安障害なんですか。私。

2007年03月16日 | 社会不安障害と診断されるまで
「そう。
だから今は、何か始めようとか働こうとしてもそういう状態じゃないから。」

ドクターは何かまだ言っていたような気もするのだが、
その時は病名だけで頭がいっぱいで正直聞いていなかった

たぶん、ひどく動揺していた。
社会不安障害であることではなく、
精神科のドクターに病気だと言われたことが衝撃だったのだと思う。

加えて、想定していた病名ではなかったことも
不意打ち的な衝撃度の増幅効果をもたらした。

突然の動悸、息苦しさ、電車が怖い等の自覚症状から、
パニック障害だと勝手にアタリを付けていたのだ

実際2年前にもらった時と同様、処方せんの詳しい説明にも
パキシル:パニック障害の薬です。
と書かれていた。


それなのに、下された判決は漢字だけ組み合わせた堅苦しいモノだった。

しゃかいふあんしょうがい・・

歩きながら、何度も口に出してつぶやいた。
突然の衝撃をどんな形でも少し消化しようと試みた。

アスファルトから湿気ごと蒸し返されながら、
日暮れ前の街をふらふらと家に帰った

パキシルと再会。そして病名をもらう。

2007年03月14日 | 社会不安障害と診断されるまで
2年ぶりに同じ近所の精神科にやってきた
以前薬をもらって、すっかり気分が底上げされた記憶を頼りにしていた。
薬を2週間くらい飲めばまたきっと落ち着くだろう

今思うと診療前のカウンセラーさんとのお話でも、
「以前の時ほどではないんですが」を繰り返していた気がする。

自分の思考のくせと季節などの要因が、そうさせるだけだと思っていた。
ときどき落ち込んで、薬だと効率よく回復するのだ、と。


ドクターにも「前ほどではない」と言った。

とりあえず、と以前と同じ薬をもらった。

ひさしぶりに、パキシルと再会したわけである

妙に自分の小食と44キロという体重が気にかかった旨も伝えたところ、
今回は胃炎の顆粒薬も付いてきた。


しかし帰宅後から、服薬一日目の気分は予想に反して屈辱的なままだった
効きが悪いのだろうか、と少々焦る気持ちもあった。


1週間後の通院で、なんと薬は倍に増やされた
自分史上未踏の領域である。パキシルを一回2錠飲むのだ。

ドクターからは
「何かあったらすぐ言ってください」
という恐怖コメントと共に処方せんを出された

「まあ沢山飲んでもどうなるという薬じゃないんだけどね」
というおまけのコメントは、さっぱり安心を与えてはくれなかった。
ただでさえ動悸に怯える身だったのに、薬までが心配の対象になってしまった

幸い副作用的な体調変化はなんともなかった。


そして今期三度目の通院まで服薬を続けた。

元気ビリビリという所までの気分の高揚は見られないものの、
まあ低空飛行を続けて来られたのは確かだった

外出は相変わらず、電車を避け必要最低限であった。


このままもう少し服薬してれば、また電車乗れるようになるかもしれない。
と言う私に、ドクターはこう言ったのだ。

「いや、鴨さんの場合は、
電車に乗れないだけではなくて社会不安障害ってのがあって。」

「社会不安障害?ですか?私が?」と聞き返していた。

決定的に乗車失敗。とうとう病院に

2007年03月13日 | 社会不安障害と診断されるまで
干物と駅弁を買って銚子から帰ってきた両親に
泣きながら失態を謝った
体調が悪いならしょうがないじゃんと姉も一笑に付してくれた。


しかし一回の乗車失敗に終わらなかったのだ

どんどん気温が上がってきた初夏。
なんとなくと見せかけて、私はハッキリと外出をためらうようになっていた。

陽射しに耐えて駅前のデパートまで歩けるか・・
熱射病になってゲロゲロ吐くんではないか・・

暑くなるにつれ、そういう不安が増していった。

買う必要のあるモノも無いし、と遠出もしなくなっていた。


6月になった。

出かけたがりの母に誘われて、23駅先の街に買い物に行くことになった。
今年定年になった元キャリアウーマンの母は、暇を持て余していたのだ。
元来エネルギッシュで活動的な母は、娘の
GWショックが冷めるのを今か今かと待ちわびていたらしかった


母の目前で、私は電車に乗ることが出来なかった
とうとう母にも露呈した瞬間だった。

何か電車で嫌なことでもあったのかとか、
私が一緒なんだから大丈夫だとか母は言っていた。

そうではない。
そういうことではない。とにかく怖いのだ。

胸が苦しくなるのだ。心臓が怖いのだ。


30分ほどホームで電車を見送って、結局入った改札を出た。

「明日もう一度来てみて、乗れなかったら病院へ行く」と
なんとなく言い訳のようなコトを母に言いながら、家に帰った


翌日、もう一度同じ駅の同じホームに行った。


各駅停車に乗りこみ、シートに座り、
発車前にホームに降りた。

改札を出るとき、「1時間もなにしてたの」と不審そうな駅員に尋ねられた。

バカ正直に「・・何も」と言うと更に
「なんにもしないで1時間も?ホームで?」と更に問い詰められる羽目になった

ようやく「ちょっと具合が悪くなって」という便利フレーズを思い出して、
なんとか開放された。


情けなさと自己嫌悪(と駅員への逆恨み)で死んでしまいたかった

人生2度目の精神科通院がようやく始まることになった。

動悸、不安、ドタキャン。しかしまだ続くのだ。

2007年03月07日 | 社会不安障害と診断されるまで
突然の動悸と不安感に襲われてから、自分の心臓を常に意識する日々が始まった

食事やちょっとした運動。
初めて「強力わかもと」を飲むのでさえ
ドキドキが気になって横になったりしていた

心臓はドキドキしているのが当たり前で、それを意識し恐れるあまり
更にドキドキが強くなったように感じる。悪循環だった

何もかもが怖くなった。


そんな頃、姉夫婦と我が家の計6人で銚子1泊旅行に行く計画があがった

行けるだろうか、と最後の最後まで心配だったが、その日何とか電車に乗った。

しかし。

特急に乗っていたところ、徐々に息苦しくなって一区間で降りてしまった

落ち着け落ち着け、と念じながら急行に乗り換えて更に進んだ。
が、息苦しさが取れなかった。
立っていても座っていても、一人だけ酸素の薄い高地にいるかの如く、
腹式呼吸も通用しなかった。

幾つかの電車をベンチでやり過ごして、とうとう各駅に乗り換えた
相当早く家を出ていたので、それでも東京駅で乗るはずの特急電車には
間に合う時刻だった。

しかし、各駅停車で新宿駅にたどり着いた時点で、
自分を支える気力は限界を超していた。

そのままデパートの屋上までふらふらと直行し、
ようやく冷たい外気に触れた。

いつまでも胸が押さえつけられたような感じが取れなかった。

何より、GWの一人で耐えた動悸と不安感の記憶が恐怖心を更に増していた

泣く泣く別々に家を出ていた母と、姉に電話を入れた。
ドタキャンしたのだった


一人家に帰り、自己嫌悪で消滅していまいたかった。


そしてとうとう、電車に乗れなくなるのだった。

太る。太ります。太れない・・

2007年03月07日 | 逆ダイエットを試みる
2006年初夏。

逆ダイエットに目覚め始める

ちなみに2007年春の今現在、身長は159.9cmで体重は44kg。
結論からいうと、太る努力はサッパリ実っていない
季節が一周しただけで、こちらはなんの変化もないのだ。

中学生の頃は自分史上MAXの体重で51kgあったらしい

バリバリ成長期のくせに、当時の友人と
ダイエットを競い合った記録メモがなぜかまだ残っていて、
それを知ることができた。
毎日体重を測るマメさが本気度をあらわしているようで、
自分のことながらすごいなあと感心した

今の私はとにかく体重計に乗らない。
乗るだけダイエットとかいうモノがあるらしいが、
どうやらソレの原理が作用するらしく、乗れば乗るほど凹むだけだった

軽いからである。
下手すると、測るごとに少しづつ減っていたりした。
太りたい人間としては精神衛生上よくないので、
体重計を見ることを中止したのだ。


逆ダイエットに目覚めたのは猛暑であった。

そのため、やせっぽちでスタミナの無い自分に命の危険すら感じていた。
外気温32度の湿った日本の夏に、立っている場所も見当たらず、
常に貧血と酸欠と熱射病の不安にさいなまれていた

カウンセリングと薬をもらいに、それでも完全なる引きこもりに
なるわけにもいかず、コンビニで息継ぎをしながら
なんとか、歩いて10分ほどの病院にも通っていた。


毎年のように夏バテし、食欲がなくなり、
更に1kgほど体重が落ちるこのカラダ。

いよいよなんとかせねば、と思い立ってはみたが結局変わらなかった。


太る方法を調べ始めて気付いたのだが、
ダイエットに比べて恐ろしく情報量が少ないのだ。

21世紀の今、猫も杓子もダイエットである。
太りたい人間は完全なマイノリティだった


その夏唯一参考になる情報を与えてくれたのはこのサイトくらいだった↓
http://www.futoritai.com/
というより参考にするモノが他に無かったのだ。
しかし、プロテインなるものに挑戦する勇気が今でも持てず、
結局実践できたのはこの中の半分くらいだった。

今現在、8時、10時、12時、15時、19時、22時と
定期的に食事・間食を繰り返しているが、結局体重に変化はない。。

その考察として、さいきん浮上したのは噛む回数だ。

一回数えてみたら、ひとくち50回噛んでいたのだ

満腹になるのが早いのも、食べるのが遅いのも
このせいだろうか、と考えている。


今日も続く太る努力。

マイノリティは相変わらず、情報の孤島にいるのだった

2006GW。発作のようなモノが、きてしまう。

2007年03月06日 | 社会不安障害と診断されるまで
2006年3月から、日中母と二人で過ごす日々が始まった

教師だった母とは、春夏冬の休みでは一緒に過ごす時間が長かったと思う。
しかしお互いいいかげん大人になってしまってからは、こんなに同じ空間にいる時間が長いことはまず無かった。

ハッキリと気詰まりであったw

ここにきて、接触の少なかった母子がいよいよその性格の違いのようなモノを嫌でも知る羽目になったのだ。

母と私は相当違うタイプだった。

落ち着きがないのだ。何かしていないと気になるタイプだった。
自分も人も、である。

私はそうではなかった。そのために私はひどく心に葛藤が生まれてゆく

何してるの?と言われることがいちいち辛かった。
何もしていないことを責められている気持ちが強くなるばかりだった。
母の目に触れないところを探すのに必死だった。
朝早くから図書館に行ったりもしていた。


そんな中、ゴールデンウィークに体がおかしくなる事態が発生する
知らぬ間に積み重なっていた自責の念か罪悪感か、母へのイライラか。
とうとう体に出たのだ。


両親の旅行中、一人で夕飯を作り缶チューハイを飲んだ後、
突然の不安感と動悸で私は動けなくなってしまった。

ベッドに倒れ込み、体の右側を床に向けた横向きで
たっぷり1時間、腹式呼吸をしながら時計を見ていた。

あばら骨が消失したかの如く、
ボッコボッコと恐ろしい早さで心臓が動き続けていた。

生き物の心臓が一生のうちで動く回数は決まっている。
ゾウはのんびり打つから長生きで、ネズミは早く打つから短命なのだ。という
おとぎ話のようなマメ知識が走馬灯のように頭をよぎった。

今の私は、昔飼っていたジャンガリアンハムスターだ・・とか思っていた。

手のひらに乗せたヤツらは、カウントできない早さで動悸がしていて、
いくら撫でてもそれがゆっくりになることはなかった。
その時と、カーペットに穴を掘ろうと必死で床を掻きむしる様子を見たとき、
ハムスターとは通じ合えない部分があるなぁと実感したことも、
走馬灯のようによぎった。

管理人さんを呼ぶか、救急車を呼ぶか、旅行先の親に電話するかとか考えてもいた。

自分の心臓がこれほどまでに、
私にその存在をアピールしてきたのは初めてであった。
その存在をここまで恐ろしく感じたのも初めてだった。

誰か止めてくれ!!と必死で思う反面、それじゃあ死んでしまうではないか、とも気付く。

愛憎両極性の中、ヤツが落ち着くのを待つしかなかった。じっとひたすら祈った。

初パキシルからそりゃあ色々あったのだ。。

2007年03月06日 | 社会不安障害と診断されるまで
2003年6月にパキシルを初めてもらって3週間飲み続けた。

ドクターにはわりとよく効く方だと言われたように、
気分の落ち込みはさっぱり無くなった
気分の落ち込みの底辺が持ち上がったような感じで、落ち込めないのだ。

ココロの持ちようが薬で変わるとは!!と純粋に感心した覚えがある。

なんとか気分が落ち着いたその夏は、教習所に通ったりした
ギリギリで免許取得を果した。

パソコンスキルを研いたりしとこう、とパソコンスクールに通って
MOS(マイクロソフトオフィススペシャリスト)検定を受けたりした

まだ必死でスキルアップなんてモノに身を投じていなければ、焦るココロを暴走させてしまいそうな危うさがあったと、今は思う。

キモノの着付教室にも通い始めた。
日曜クラスだったソレは、結果的に非常に精神的によろしくない場所であったw
働く女性しかいなかったためだ。
無職の自分を常に恥じて責めていた自分には、そのうち辛くなった

そうして初パキシルから2年ほど経つ。一応薬ナシで。


去年の年越しから、精神状態は一気に悪くなる

2006年1月。社会人の友人と、アメリカに働きに出かける友人の出発式を新宿でやることになった。

私はその席で、一気にココロのダムが決壊し号泣

仕事、結婚、キャリアビジョン・・そういう話をしている友人に、
責められている気持ちがどんどこ膨らんでいってとうとう隠し通せなくなった瞬間だった。

友人が旅立つから寂しい、とかいう理由でもなく号泣し
無駄に友を動揺させて解散。ひどい出発式であったw

1週間経たないうちに39度の熱とともにインフルエンザ発症

恐怖心ごとタミフルを飲み込んで寝込んでいる間に、新潟の祖父が亡くなる。
葬式のため空になった家で寝込む。雪が降っていたりして余計に凹む

帰宅した母から姉の妊娠を聞かされる。


度重なる出来事に、もう精神的にはぐったりしきってしまった
順序ってモノがあるでしょうよ・・と神に愚痴っていたりした


そして3月に母が退職した。
共働きで、日中家には私一人だった生活が一変する。

そして2006年初夏。
2度目の通院が始まるのだった

初通院の思い出

2007年03月05日 | 社会不安障害と診断されるまで
精神・神経科に初めて足を運んだのは大学4年の夏だった

それからブランクを空けて、2006年の初夏にまた行くことになる。今日に至るまでの長期間世話になるとは思いもよらなかった。。


3年前は就職活動中にひどく落ち込み、それが終わらなかったのが始まりだった。

模擬面接で傷つき、就活で傷つき、
姉のなんでもない言葉に落ち込み、
自分の本当にやりたいことだの性格だのを探れば探るほど(←自己分析と言う)
どんどん自分が不確かに思え、意味のない存在に思えて止まなかった。

死にたかった。
死ね、と自分に唱え続けていたと思う。

夜中に6回目が覚めた。

その頃ようやく病院に行くことを決めたのだ。なんとなくだが、自分の中に「眠れなくなったらヤバイ」という一線が決まっていたためだ。


近所の精神・神経科はフローリングと生成りの壁でこぎれいだった。

初診の人用問診表に記入後、ナースさんが別室で詳しい話を聞いてきた。

その時点で号泣である。
ナースさんに説明したことを、またドクターに話さなきゃならんのか・・と、診察前からえらく泣き疲れた。
のちのちこのナースさんは、私担当のカウンセラーとなるひとであった。
つまり看護士ではなかった。

待ち合い室で既に目が真っ赤なまま診察順を待つのは恥ずかしかった。
しかしそこは精神科。
みなさん軽く伏し目がちに視点をセットしている(と信じていた)ので、
まあ特別目立ってはいなかっただろう。

ドクターは、初めて見る「白衣を着ていない医者」だった。
背後に専門書が詰まった本棚を背負って、しかもコーヒー飲んでいる。
空のコーヒーカップが風水的にイイと聞いたコトは無いので、たぶんさっきまで飲んでいたはずだ。

もう一度どういう経緯で病院に来たかを説明し、もう一度泣くことになった。

目の前で喋りながらずびずび泣いてる人間がいても、
そのことにはノータッチである。さすがプロだ・・と妙に感心した記憶がある。

「働かなくてもいいじゃない」と言われた。
うそつけ、そんなコト思ってもないくせに、と反発する気持ちはあったものの、
やはりどこか救われた。もちろんそこから治療が始まっていたのだろう。
医者は別に本心で話す必要はないので、それはつまり
治療のためのコトバであった。
しかし口からでまかせであろうと、私はそこで確実に
少し救われた思いがしたのだった。コトバは不思議で悔しいもんである。

薬をもらった。今も飲んでいるパキシルとの出会いだった。

その日はひどくよく眠った気がする
抱え込んで飲み込んでいるようなタイプには、考えていることを吐き出すのがひどく疲れるんだろうな~と今は思う。