2.イエス,洗礼を受ける(福音の初め)
マルコによる福音書1:9-11
(イエス,洗礼を受ける)
(マルコ1:9-11)
「そのころ,
イエスはガリラヤのナザレから来て,
ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。
水の中から上がるとすぐ,
天が裂けて“霊”が鳩のように
御自分に降って来るのを,
御覧になった。
すると,
『あなたはわたしの愛する子,
わたしの心に適う者』という声が,
天から聞こえた。」
Ⅰ
(マルコ1:1 福音の初め)
マルコによる福音書は,
創世記,ヨハネの福音書と同じく,
「初め」(マルコ1:1)という言葉で
始めています。
新共同訳聖書では,
「初め」という言葉が
最後におかれています。
しかし,ギリシャ語聖書では
「初め」ということばが,
最初に書かれています。
マルコによる福音書の特徴は
簡潔に出来事を書いていることです。
今日の「イエス,洗礼を受ける」,
それに続く「誘惑を受ける」,
「ガリラヤで伝道を始める」
もまた出来事を簡潔に書いています。
ですから,
マルコによる福音書の最初の文章は,
「神の子イエス・キリストの福音の初め」
(マルコ1:1)
と日本語ではなっています。
文章というより,
この福音書の題として書き,
これから書くことのテーマを簡潔に
並べているといっていいと思います。
そうすると,
この第一の箇所を黒板に板書するとすれば,
まず「第一」と書き続いて,
次に来る言葉が
ここでの文章の一番大切な言葉になります。
「福音」という言葉です。
この言葉が
マルコによる福音書のテーマなのです。
この福音,喜ばしい知らせは,
だれの知らせかということが,
「イエス・キリスト」(マルコ1:1)
という言葉と,
「神の子」(マルコ1:1)
という言葉が明らかにします。
この福音は
「神の子イエス・キリストの福音」
なのです。
マルコによる福音書は,
まず最初に
「神の子イエス・キリストの福音」
を書くと宣言しています。
そして,この宣言自体が,
福音を指し示しているのです。
イエスという名はヘブライ語では
ヨシュアということばですから,
特別な言葉ではないのですが
「神は救う」という意味の言葉であります。
「キリスト」はメシア,
救い主を意味する言葉です。
そうすると
神の救いという名であるイエスは
救い主であり,
神の御子であるということを,
まず初めに明らかにします。
これからか書こうとしていることは,
イエスという救い主であり,
神の子である方のもたらしてくださった
喜ばしい知らせですと宣言しているのです。
またこの宣言は,
この福音を書こうとしている
人の信仰告白であります。
Ⅱ
(マルコ1:9-11)
(イエス,洗礼を受ける)
このような信仰告白をもって表題を書き,
神の御子,イエス・キリストの福音を
書き始めますが,
マルコが福音として,
最初に上げたのが,
この救い主であり,
神の御子であられる
イエスの洗礼でありました。
神の御子であり救い主が
ヨハネから洗礼を受けられたことを,
喜ばしい知らせの最初の出来事としました。
福音は,ここに始まるというのが,
マルコによる福音書の主張です。
ヨハネによる洗礼は
「罪のゆるしを得させるための
悔い改めの洗礼」(マルコ1:4)
ですから,
神の御子であり,
救い主である方が
受ける必要がないはずです。
だから,マタイによる福音書では,
イエスさまがヨハネから洗礼を
受けようとなさるとヨハネは,
洗礼を思いとどまらせようとして,
次のように言います。
「わたしこそ,
あなたから洗礼を受けるべきなのに,
あなたが,
わたしのところへ来られたのですか。」
(マタイ3:13,14)
このような問題があったはずですが,
マルコによる福音書は,
そこであったことを簡潔に書くだけで,
一言もイエスさまの言葉を書いていません。
この洗礼の出来事において,
イエスさま御自身のなさったことは
4つの言葉で簡潔に書くだけです。
その4つの言葉とは「来て」
「洗礼を受けられた」「御覧になった」,
それに「水から上がられる」
という言葉です。
この「上がられる」という言葉は分詞形で,
他の動作「ご覧になった」との関連で
使われている言葉です。
洗礼に関する一連の出来事において
大切な言葉は,
「来て」「洗礼を受けられた」
「御覧になった」
という3つの言葉です。
簡潔な名文として,シーザーでしたか
「来た,見た,勝った」
という言葉がありますが,
マルコによる福音書も
簡潔な名文と言うことが出来ます。
「来て」という言葉で,
イエスさまがガリラヤのナザレから
来られたことを示してます。
救い主神の御子は,
人の子としてお育ちになった
ガリラヤのナザレから来て,
いよいよ福音が
実現し始めることを記します。
その手始めに,
ヨルダン川でヨハネから
洗礼をお受けになるのです。
これは救い主であり,
神の御子であるイエスさまが,
人間の側に身を
置かれたという福音なのです。
神がわたしたちの味方であるということを,
イエスさまの洗礼で明らかにされました。
イエスさまは,
「天が裂けて“霊”が御自分に
降ってくるのを御覧になった」
(マルコ1:10)のです。
人の立場になって
ヨハネから洗礼を受けられたイエスさまを
神様は祝福します。
天を裂いてイエスさまのところに
神様の御霊を降して来てくださったのです。
イエスさまの洗礼は
神様が天を割いて
降ってくださるほどの喜びであったのです。
その喜びをイエスさまは御覧になりました。
そればかりではなく,
裂かれた天から
イエスさまにつぎの声が
聞こえてきたのです。
「あなたはわたしの愛する子,
わたしの心に適う者」
(マルコ1:11)
イエスさまにとっても,
わたしたちにとっても,
このみ声は何物にも代えがたい
喜ばしい知らせ,
福音なのです。
神様は人の立場に立って
福音を宣べ伝えようとされる
イエスさまを喜びを持って
認証されたからです。
祈り
救い主であり,
神の御子であるイエスさまが,
洗礼を受け,
福音を伝えてくださったことを感謝します。
この喜びを持って,日々を歩み,
イエスさまをお遣わしになった
この御恵みに生き,
そのみ恵みを伝えることができますように。
苦しみの中にある方々,
病に伏しておられる方々にも
神様の恵みが豊にありますように。
(松隈貞夫牧師)
(2009年1月11日 主の洗礼日)
2021-02-28