5.4人の漁師を弟子にする
(福音の初め)
マルコによる福音書1:16-20
(4人の漁師を弟子にする)
マルコによる福音書1:21-28
(汚れた霊に取り付かれた男をいやす)
コリントの信徒への手紙一8:1-13
(万物の創造者である神)
「イエスが,
『黙れ。この人から出て行け』
とお叱りになると,
汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ,
大声をあげて出て行った。」
(マルコ1:25)
Ⅰ
(マルコ1:16-20)
(4人の漁師を弟子にする)
神の御子イエス・キリストは荒れ野で,
悪魔から誘惑を受け,
人間の弱さ,悩み,苦しみを経験され,
ガリラヤに行って,宣教を開始され,
ガリラヤ湖のほとりで,
漁師たちを招かれました。
すると彼らは網を捨て,
あるいは父親や雇人たちを舟に残して,
従いました。
マルコによる福音書は
その出来事を生き生きと書いています。
イエスさまが,
シモンとシモンの兄弟アンデレが
湖で網を打っているのを御覧になり,
「わたしについて来なさい。
人間をとる漁師にしよう」
(マルコ1:18)
と呼びかけられると,
この二人はすぐに網を捨てて従います。
つぎに,舟の中で網の手入れをしていた
ゼベダイの子ヤコブと
その兄弟ヨハネとを御覧になり,
すぐに彼らをお呼びになると
「この二人も父ゼベダイを
雇人たちと一緒に舟に残して,」
(マルコ1:20)従いました。
マルコによる福音書は,
神の御子,イエスさまの呼びかけと
その呼びかけて答える人たちの様子を
「すぐに」(マルコ1:18,20)
という言葉で表しています。
この「すぐに」という言葉で,
イエスさまの言葉の力を示している
ということができます。
その言葉は人に命を与える
創造の言葉なのです。
神が「光あれ」(創世記1:3)
といわれると光があったように,
わたしたちも神様のみ言葉によって,
存在し,保たれ,
神様のもとへ帰って行きます。
Ⅱ
(Ⅰコリント8:1-13)
(万物の創造者であう神)
パウロは今日の聖書日課の中で,
次のように記します。
「わたしたちにとっては,唯一の神,
父である神が万物はこの神から出,
わたしたちはこの神へ帰っていくのです。」
(Ⅰコリント8:6)
そして,
わたしたちの主としてのイエスさまのことを,
わたしたちには,唯一の主としての,
イエス・キリストが
おられることを次のように記します。
「万物はこの主によって存在し,
わたしたちもこの主によって
存在しているのです。」
(Ⅰコリント8:6)
このように,
イエスさまの言葉には
わたしたちを存在させる
創造の力がするのです。
この力があるので,
イエスさまが招かれると
シモンとアンデレの兄弟は
「すぐに網を捨てて従った」
(マルコ1:18)のです。
神の御子イエス・キリストの福音を
記そうとするマルコによる福音書は
イエス・キリストの創造の業を
書き記しています。
ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが,
舟の中で網の手入れをしているのを
御覧になったイエスさまは
「すぐに」二人をお呼びになると
彼らもすぐに従います。
Ⅲ
(マルコ1:21-28)
(汚れた霊に取り付かれた男をいやす)
こうして,
4人の弟子たちをお招きになった
イエスさまは安息日に会堂には入って,
教え始められます。
どのような教えであったかは
書いてありませんが,
その教えは次のという言葉で,
まとめることのできる教えで
あったと思われます。
「時は満ち,神の国は近づいた。
悔い改めて,福音を信じなさい。」
(マルコ1:15)
それで,マルコによる福音書は,
その教えの内容を記るさず,
その教えを聞いた人々の反応を
次のように記します。
「人々はその教えに非常に驚いた。
律法学者のようにではなく,
権威ある者として
お教えになったからである。」
(マルコ1:22)
イエスさまの教えは今まで,
聖書のことを解き明かしていた
律法学者たちのように,
聖書を解釈するのではなく,
聖書に書かれている神様の約束の言葉を
満たすことであったのです。
ルカによる福音書4章16節以下では,
安息日に会堂に入られたイエスさまが,
聖書を朗読され時のことが書かれていますが,
朗読の後で,次のようにおっしゃいました。
「この聖書の言葉は,今日,
あなたがたが耳にしたとき,実現した。」
(ルカ4:21)
イエスさまの教えは
聖書の言葉を実現する者としての
教えなのです。
だからその教えに権威があったのです。
イエスさまが「救い」の教えをなさると
「救い」は実現し,
「恵み」の教えをなさると
恵みもまた実現したのです。
マルコによる福音書は
教えがどのようなものであったかは
書きませんが,
そこで起きたことを書いて,
その力の証明をするのです。
イエスさまがお教えになっている会堂に,
そのとき,
汚れた霊に取り付かれた男が
次のように叫びだすのです。
「ナザレのイエス,かまわないでくれ。
我々を滅ぼしに来たのか。
正体は分かっている。神の聖者だ。」
(マルコ1:24)
その叫びから汚れた霊さえも,
イエスさまが神のもとから
来られた方であることを知っていたことが,
明らかになります。
イエスさまはその霊に向かって,
「黙れ,この人から出て行け」
(マルコ1:25)とおっしゃると,
汚れた霊は
その人を痙攣させて出て行ったのです。
イエスさまの教えを聞き,
この有様を見た人々は
イエスさまの教えについて,
「権威ある新しい教えだ」
(マルコ1:27)と言うのです。
この人たちは新しい教えとして,
律法学者たちと
違う教えであることに驚いたでしょうが,
イエスさまの教えは人を人として,
存在させるようになる
権威のある教えなのです。
汚れた霊に取り付かれていた人は
イエスさまによって,
人として存在することが
できるようになりました。
そして,その出来事によって,
安息日は律法学者たちが
いろいろと規制していた日ではなく,
恵みの日であることが
明らかになったのです。
イエスさまのお教えは
恵みを実現する教えとして,
新しい教えなのです。
祈り
イエスさまによって示された安息日を
まことの恵みの日に変える
新しい教えに感謝します。
わたしたちもこの日に,
イエスさまの創造のみ業に与かることが
できるようにしてください。
☆彡
(マルコ1:21-28)
(汚れた霊に取り付かれた男をいやす)
一行はカファルナウムに着いた。
イエスは,
安息日に会堂に入って教え始められた。
人々はその教えに非常に驚いた。
律法学者のようにではなく,
権威ある者としてお教えになったからである。
そのとき,
この会堂に汚れた霊に取りつかれた
男がいて叫んだ。
「ナザレのイエス,かまわないでくれ。
我々を滅ぼしに来たのか。
正体は分かっている。神の聖者だ。」
イエスが,
「黙れ。この人から出て行け」
とお叱りになると,
汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ,
大声をあげて出て行った。
人々は皆驚いて,論じ合った。
「これはいったいどういうことなのだ。
権威ある新しい教えだ。
この人が汚れた霊に命じると,
その言うことを聴く。」
イエスの評判は,
たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。
(松隈貞夫牧師)
2009年1月25日
2021-02-28