(5 いやしのために)
復活の命を注ぐ
(ガラテヤ6:8)
「自分の肉のために蒔く者は,
肉から滅びを刈り取り,
御霊のために蒔く者は,
御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」
(ローマ6:4)
「私たちは,
キリストの死にあずかるバプテスマによって,
キリストとともに葬られたのです。
それは,キリストが御父の栄光によって
死者の中からよみがえられたように,
私たちも,
いのちにあって新しい歩みをするためです。」
「捨てるのは,ごみくず。注ぐのは宝物。」
と言った方がいます。
罪に死に,
受けるのは永遠の命,喜び,平安,和解です。
わたしたちの信仰の人生は,
「十字架につける → 命を注ぐ」
というプロセスを繰り返します。
根っ子をさぐるのに,浅い部分にしかしないと,いやされません。
いやしは,十字架とよみがえりにかかっています。
いやしきった人は,いません。
目的は,いやしではなく,
神の十字架の近くに生きることです。
毎日,十字架を見上げ,
神の愛と赦しの日々を体験し,
周りの人々に,神の赦しと愛を
流す管となりたいものです。
☆
(ガラテヤ4:19)
「私の子どもたちよ。
あなたがたのうちにキリストが形造られるまで,
私は再びあなたがたのために
産みの苦しみをしています。」
パウロは
わたしたちがイエス・キリストを信じ成長し,
わたしたちのこころにキリストが形造られる,
キリストに似る者となるようにといっています。
わたしたちがいやしされるのは,
イエス・キリストをこころに受け入れ,
復活のいのちに生きることです。
わたしたちは
罪深い習慣を十字架に持ってきて
(悔い改めて),
罪の生活,古い生き方に死ぬことと同時に,
新しい命へと復活することです。
2014-04-17