1.山上の説教 (空の鳥,野の花)
マタイ5:1-12
(山上の説教を始める)
「心の貧しい者は幸いです。
天の御国はその人のものだからです。」
(マタイ5:3)
(マタイ5:1-12)
(山上の説教を始める)
召天された方々を覚えて,
礼拝を守っています。
今日の福音書の箇所は,
イエスさまが山の上でなさった
説教の冒頭の箇所です。
イエスさまは,
その説教を聞く弟子たちを
祝福することからお始めになりました。
○
(マタイ5:4 悲しむ人たち)
その祝福には,次の言葉があります。
「悲しむ人たちは幸いである,
その人たちは慰められる。」
(マタイ5:4)
わたしたちもこの祝福の言葉によって,
慰められる者の幸いに
与かりたいと思います。
この慰めの言葉は,
イエスさまに従って来た
弟子たちになさった祝福の中の一つで,
ただ悲しむ者のみになされた
祝福の言葉ではありません。
わたしたちは
亡くなった方をしのびつつも,
悲しむだけではありません。
共に歩むことのできた喜びや,
亡くなった方から受けた
深い愛への感謝を覚えています。
イエスさまの祝福の言葉は,
弟子たちが直面するであろう
様々なことへ向けられています。
イエスさまは祝福の最後のところで,
弟子たちが遭遇するであろう
迫害をも捉(とら)えて,
祝福の言葉を
つぎのようにおっしゃっています。
「わたしのためにののしられ,
迫害され,
身に覚えのないことで
あらゆる悪口を浴びせられるとき,
あなたがたは幸いである。
喜びなさい。大いに喜びなさい。
天には大きな報いがある。
あなたがたより前の預言者たちも,
同じように迫害されたのである。」
(マタイ5:11,12)
○
(マタイ5:3 心の貧しい人々)
これらの祝福の言葉は,
まず「心の貧しい人々」
(マタイ5:3)に向けられ,
「天の国はその人たちのものである」
と祝福されています。
この心という言葉は,
後の祝福の言葉にある
「心の清い人々は,幸いである」
との祝福の言葉にある「心」とはちがって
「霊」という文字が使われています。
わたしたちが
「聖霊を信じます」と使徒信条で告白する
聖霊の「霊」のことです。
「心の貧しい人々」とは
「霊において貧しい人々」のことです。
すなわち,神様に依り頼む以外に
生きることのできない人々です。
弟子たちとは,そのような人々でした。
その弟子たちに向かって,
祝福の言葉をかけ,
「天の国はその人たちのものである」
とおっしゃっています。
この祝福の言葉こそが,
その後に続く「悲しむ人々」「柔和な人々」
「義に飢え渇く人々」「憐れみ深い人々」
「心の清い人々」「平和を実現する人々」
「義のために迫害される人々」
のすべてに当てはまる祝福の言葉です。
○
(マタイ5:3-11 幸いな祝福)
ここでの祝福の言葉は9つありますが,
次々になされる祝福は途中で,
まとめがなされています。
「心の貧しい人々」「悲しむ人々」
「柔和な人々」へは,
「義に飢え渇く人々は,幸いである。
その人たちは満たされる」
(マタイ5:6)という祝福の言葉で
まとめられます。
そして,その後に続く,
憐れみ深い人々も,心の清い人々も,
平和を実現する人々は,
「義のために迫害される人々は,
幸いである。
天の国はその人のものである。」
(マタイ5:10)
の祝福でまとめられます。
これらの祝福の言葉は,
神様によってすでに実現されています。
そこでは,
神様という言葉は使われていませんが,
「神様によって」という言葉を補なって
理解する必要があります。
すなわち,「神様によって,慰められる」
「神様によって,満たされる」
「神様によって,憐れみを受ける」
「神様によって,神の子と呼ばれる」
のです。
イエスさまの祝福の言葉は,
神様によって,すでに実現しています。
わたしたちは神様によって慰められており,
神様によって神の義で満たされており,
神様によって,すでに憐れみを受けており,
神様によって神の子と呼ばれています。
ただ,
感謝をもって答える以外にないのです。
(松隈貞雄牧師)
(2008.11.2)
2021-02-28