じいばあカフェ

信州の高原の町富士見町:経験豊富なじいちゃん・ばあちゃんのお話を
聞き書きした記録です
ほぼ一ヶ月に一回の更新です

甲斐駒ケ岳の信仰

2010-12-26 14:23:37 | Weblog
(行者と信者)
「乙事で甲斐駒に登るようになったのは、昭和も初めの頃って聞いてるがな。駒ヶ岳講ってのを作って、そうだなぁ、乙事で5~60人は信者がいたんじゃねえ。まっとあったかもしんねえ。俺は、山へは3回登ったけんど、おじいさん(茂吉さんの父親)と一緒に行ったのは2回かなぁ。しまいの1回はうちの子供らが行きたがるで、連れて登ったことがある。登るのは、信者のうちで順番に、今度はここの家ちゅう具合に当番を決めて、行をしたってこんだ。乙事諏訪社の裏のほうにさ、碑が立ってるけんど、あれをたてるこらぁ盛んだったってこんだ。おやじは、年に2回くれえはの登ってたんじゃねえか。行者は、乙事で5~6人はいたんじゃねえか。おやじは、そのうち神主の資格を取ってさ。竹宇(北杜市白州町竹宇)にあった前宮の手伝いなんぞをしてたがな。」

(乙事と瀬沢)
「駒ヶ岳講はさ、乙事にもあったが、瀬沢にもあってさ。親父はどっちも顔を出してたな。
こっちでは別に仲良くしてたが、乙事の衆は横手(北杜市白州町横手)に前宮があるだよ。そこから登って、瀬沢の衆は竹宇の前宮から登っただ。ありゃぁ、勢力的な事がちったぁあっただけんど。そんで、こっから4里くれえはあるから、そこを全部歩いてさ。ここを朝5時頃出てって、その日のうちに7合目ぐれえまで、遅いときは、5合目ぐれえまで、登ったさ。どっちにも小屋があって。普通は7合目までは行ったな。翌日楽だでね。次の日は頂上から、まるしてん(摩利支天)の峰へお参りして、地獄谷を通ってけえってきた。下山すりゃだいたい夕方になるでね。うちへ夜の8時頃に着くこともあったな。そのうち、自動車で行くようになったけんどな。戦争のころまでは、みんな歩いただよ。おやじは行者だから白装束で、付いてく衆は、そんあもなぁねえから、普通のかっこさ。」

(駒ヶ岳登山)
「若い頃におやじについて登ったときにゃなんともなかったが。子供らをつれてさ、40過ぎてから登ったんだけんど、きつかったなぁ。実業行ってた娘は途中でばててたなぁ。1番強かったのは6年生の小僧だったな。5合目にさ、屏風岩ってのがあってさ、そこは、そうだなぁ、50メートル位の絶壁さ。そこへ鉄のはしごがかかっててさ。またその先にはでかい石があって、鎖で登ってくだ。ところどころ足をかけるとこに穴掘ってあってさ。後は、地獄谷って言うのは、危険で、針金がはってあるんだけんど、俺が行ったときには、それが流れて無くて、渡れなんで、持ってた杖で伝わせて、渡ったな。今かんげえると危ねえことぉしたと思うよ。落ちらあ、へえ、おしまいさ。そういうとこあって、ああ、こんなとこ降りてきて馬鹿みたと思ったけんどな。」
そんなお話を聞かせていただいた。最後に、「最近はもう信仰心なんてものはなくなったんだが、それでも、正月になれば、駒ヶ岳さんに誰かどーかおまいりしてるようだ」と一言、うれしそうに話してくださった。


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