じいばあカフェ

信州の高原の町富士見町:経験豊富なじいちゃん・ばあちゃんのお話を
聞き書きした記録です
ほぼ一ヶ月に一回の更新です

身延と乙事

2005-12-15 23:10:16 | Weblog
 12月号で、乙事の名取さんにお話をうかがったときに、山梨県の身延町の門野という地名が出てきていた。地図をみると、身延の中心地からかなり南アルプスの方へ入ったところにあるらしい。こんなに離れた場所とどんなつながりがあったのだろうか? 今回は番外編として、訪ねてみることにした。

(ばくろう商売)
 「ここら辺はなあ、上のも下のもほとんど馬飼ってただ。このは昔は30軒くらいあっただが、8割がた馬飼ってたな。馬の産地は、長野か、北巨摩(現山梨県北杜市)に増富村ちゅうのがあるら、あそこらが多かったな。このには、乙事のおじさんが持ってきてた。うちのじいさんが、ここらでは一番でかいばくろうだった。 乙事のおじさんは、始めは身延高校のところの裏にいたばくろうのじいさんと商売してたが、その、じいさんが亡くなってからだな、門野へ馬持ってくるようになったのは。 長野から、子馬を運んできて、3年預けて、手間賃を払って長野の方へ運んで、そして馬のほしい人に売るっちゅうのがばくろうの仕事だな。 うちのじいさんが、その口利きをしてたちゅうこんだ。 何で、こっちのほうとつながったかは、よくわからんな。まあ、長野の衆は、子取りがうまかったちゅうこんずら。ここらじゃなんでか子取りはできなんだな。 そういうことは下手だった。そうそう、一度乙事のおじさんとこへは、行ったことがあるだぞ。終戦のころ、こっちでも、ジャガイモの種がなくてな。あっちへ行って、種買ってしょってきたことがあるよ。せがれ(名取さんのこと)は、俺とあまり変わらん年だが、えらく威勢のいい大将だったぞ。」

 このお話をしてくださったのは、身延町門野に住む佐野さんだ。門野は、甲府と清水をつなぐ国道からが3キロほど入ったところにある、谷あいの急斜面に張り付くような集落だ。集落の入り口の家で、道をたずねたのだが、その時に庭に豆が干してあり、その中のひとつが大変気になっていたので、帰りにそのお宅によっておかあちゃんにお話をうかがった。

(じゅうろくささげ)
 「うちでは、白いものと、うずら縞の2種類を作ってます。ここらではインゲンのことを“じゅうろくささげ”とか“じゅうろく”って言うですが、うちで作ってるものは、秋に取れるので“あきじゅうろく”って言います。この縞のほうですか? これは祇園のころ、7月の15日すぎですか、その頃に播いて、霜の降るころにとります。 鞘も食べますよ。モロッコいんげんなんかよりなんかこう“こく”があっておいしいです。へ~そうですか、長野にもこれと同じものがあるんですか? つる性で、熟すと鞘に赤い筋模様が入って、豆には白っぽいのと紫っぽいのが混ざって、普通のインゲンより小ぶりで・・・じゃあまったくおんなじですねぇ。 私はこれを、嫁に来たときに、近くのおばさんからもらったんです。収量は少ないんだけど、おいしいから、ずっと種取りしてます。身延でも他で結構作っていますよ。」

 そうなのである。なんと、このお宅で作っていたのは、あの乙事や富士見のあちこちで作られている“乙事ささげ”とか“乙事みつむね”と呼ばれている豆と、瓜二つの豆だったのだ。豆の姿はもちろん作型、特徴などから、まったく同じものと言っていいと思う。これだけ離れている地域で同じものが作られ、古くから馬を通したつながりがあったという状況証拠もある。どちらが先かはわからないが、あきらかにどの時代かにこの豆が伝播し、それが双方の地域で作られ続けているということだ。一粒の小さな種の中に、ばくろうが馬を追う姿が見えるような気がする。種は貴重な文化財という思いを強くして、門野を後にした。