じいばあカフェ

信州の高原の町富士見町:経験豊富なじいちゃん・ばあちゃんのお話を
聞き書きした記録です
ほぼ一ヶ月に一回の更新です

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おかいこさま

2007-03-10 09:20:51 | Weblog
(桑切り)
「そうだなぁ。春の仕事は桑切りからだなぁ。この辺では養蚕がうんと盛んだったから、桑切りの仕事が3月からはじまるだよ。いや、葉っぱじゃなくてな。秋になると、葉っぱが全部落ちちまう。そうすると棒だけになっているから、春先に行って、それをかっきる。それを切らなきゃ次の新しい芽が出てこねえ。新しいのが出てきたら、『桑もぎ』っていって、それを一枚づつ摘んでびくにいれて蚕にやった。蚕の飼い方も、だんだん変わってきた。昔はこんなかごに蚕入れて、大きな棚があって、それに10枚も20枚も籠をさしてな。それで蚕が大きくなったら、やぐらって言って、そこに今度は桑の枝をやる。小さいうちは葉っぱをもいで、大きくなったら枝を与える。 今は野菜作ったりしてるじゃん、昔はみんな桑畑だ。野菜なんてうちで使うだけだ。後はみんな桑ばっかりだった」。

(養蚕の盛んな頃)
「普通は、春・夏・秋だ。まあ、おらのうちでは、今のうちとはちがって、向こうにもお蚕飼う建物があったもんで一番多い秋には100貫あった。普通のうちなら、1年で50~60貫じゃないかな。最盛期は、大正10年から15年くらいじゃねえかな。昭和に入って、値がへえ安くなっちゃったから廃れたな。昭和はじめの浜口内閣のころに大恐慌があってな。そこらあたりから景気が悪くなってきて、繭が売れなくなってきただ。それからだんだん繭が安くなっちゃただな。それでもな、養蚕をやってからのほうが、暮らしが良くなったんじゃねえ?」
 「養蚕が盛んな頃は、しゅうこ(秋蚕)っていって秋のが終わると、無尽っていって、10円なら10円を皆で持ち寄って。金のほしい人は、そこで競って落とす。今の銀行みてぇなもんだな。そういうのがさかんになった。まとまったお金をそういうとこで手に入れられるようになったってこんだ。」

(共同販売所)
「出荷はな、下諏訪とか、岡谷とか製糸(会社)があって、この部落にも5~6人いたけんど、専門に家をまわって、繭を買いに来るわけだ。その衆は、それぞれ担当の地域が決まっている。そして、農家に個々にあたって、繭を、『いくらで買う、いくらで買う』って、値をつけて、集めてまわる。そういう買い方を最初はしてたな。そのうちにこんだ、共同販売所ってのができた。この下の保育園の跡地がもとは小学校だったんだが、その頃は公会堂だったんだな。そこへ繭の共同販売所ができた。それまでは、さっき言った製糸(会社)から頼まれている人が、農家を回ったが、その共同販売所ができてからは、その広いとこに自分の取れた繭をしょっていったってわけだ。」

(繭の入札)
「そうすると、こんどそこへ各製糸から頼まれた5~6人がテーブルの周りに座って、繭を持ってきた人が、そこへ繭を広げるわけだ。それぞれ繭をみて、これなら1貫目いくらって、今で言う、お椀のようなものに値段を書くわけだ。お椀の裏には、製糸会社の名前が書いてある。そして繭の値段を10円とか書いて、別の人は9円とか書いて、お椀をそれぞれ伏せておく。その中ににひとり、値段を見て発表する人がいる。それで一番値段が高い人が落とすちゅうこんだ。」

 最初はぽつぽつと話されていた神戸の小林さん。話がのってくるともう止まらないという感じ。この後もいろいろなお話をうかがうことができた。
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