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【渋沢栄一「論語と算盤」利益の追求だけでなく人格を磨くこと】いち早く“資本主義の弱点”を見据えた渋沢栄一~満州事変の2カ月後に死去した渋沢栄一。「日本経済の父」がラジオで語った平和への願い~

2023-01-13 09:08:47 | 日記


■渋沢栄一が最も大切にした愛読書『論語』|人格形成と利益主義のバランスを重視した男の哲学

男の隠れ家デジタル 2021.02.26

https://otokonokakurega.com/learn/secret-base/27485/


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・利益の追求だけでなく人格を磨くこと


近代日本の発展に多大な業績を残し、日本資本主義の生みの親といわれる渋沢栄一が生涯のバイブルとしたのが、孔子の本『論語』である。


論語は約2500年前に孔子と弟子たちが交わした問答を、後の世にまとめたものだが、明治、大正、昭和の三代にわたって日本の近代産業の発展に大きな役割を果たした渋沢だけでなく、歴史上の偉人、あるいは現代人にも信奉者がおり、時代を超えて多くの人々の愛読書であり続けている。


ではなぜ『論語』を渋沢の愛読書として紹介するかというと、渋沢が、『論語』で人格を磨くことと、資本主義で利益を追求するという、一見相反する事柄は共存できるという考えに到達したからだ。


天保11年(1840)、渋沢は埼玉県の富農の家の子として生まれた。

幼くして父の勧めで『論語』の素読を始め、7歳になると従兄と共に本格的に『論語』を学び、全文を暗記したといわれる。


同時に、『論語』をあわせて四書と呼ばれる『孟子』『大学』『中庸』、そして五経の『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』、さらには『日本外史」『十八史略』なども学び、和と漢の教養を身につけていったのである。


さて、明治2年(1869)、渋沢は29歳の時に明治政府に召し出され、大蔵省へ出仕し財政改革に努めたが、4年後、大久保利通と衝突したことが原因で下野した。

ここから渋沢は『論語』への理解力をさらに深めると共に、心の拠り所とし、実戦に活用していく。


約束していなくとも、面会を求められると誰彼の区別なく渋沢は気軽に会ってくれた。

しかし、その際の渋沢の観察眼は鋭く、言葉はもちろん相手の眼の動きや立ち居振る舞いをつぶさに見て、その本性を見抜こうとした。


『論語』にはこういう言葉がある。

「その為すところを視、その由るところを観、その安んずるところを察すれば、人焉んぞ?さん」


面会した時の渋沢がまさに、これだった。

また、渋沢は次のようにも語っている。 

「儒教の学問には『大学』や『中庸』など様々あるが、一段高い視点から見た学問で、個人の日常生活に密着した教訓とはなりにくい。これに対して『論語』は、一言一句が全て実際の日常生活に応用がきく。読めばすぐに実行できるような基本の道理を説いている」


だからこそ渋沢は『論語』を選んで愛読書とし、記されている言葉を守り実践しようとしたのだ。

渋沢が実業界の舵取りをしたのは富国強兵の時代で、特に会社組織の創設が急がれていた。

そこで渋沢は、会社を上手に経営するには何が必要かと考える。


答えは自ずと出た。

“優れた人材”にほかならない。

そして、それらの人々には守り行うべき規範や 基準がなければならないと、さらに考えをめぐらし、ならば日常の心得を具体的に説いた『論語』がうってつけではないかと渋沢は思う。

判断を迷った時に『論語』の物差しに照らせば、まず間違いはないと確信するのだった。

 

・商人としての道義を守り国家の繁栄を願う


近年、経営者の社会的責任が取り沙汰されることが多い。

しかし渋沢は、商業で利潤を追求するのはいいが、商人の道義も高め、商業を発展させなくてはならないと考えた。


欧米諸国に比べて日本は遅れて資本主義の道を辿った。

その場合、会社は国家の庇護を受けるケースが多くなるが、それは政商と呼ばれる実業家の出現原因にもなる。

もし、現在の日本企業の大部分の土台を作った渋沢が、金儲けに血道を上げ、事業の成長だけを願ったならば、資本家の代表や財閥の代表になっていたはずだが、彼はそうはならなかった。

あくまでも『論語』から人格形成を学び、資本主義の利益主義一辺倒にならず、バランスをとることが大切であると考えた結果だ。


渋沢の経営理念は、「『論語』算盤説」や「道徳経済合一説」として知られている。

道徳を『論語』、経済を「算盤」という言葉に言い換えているわけだが、道徳と経済は両立さ せることができるとし、渋沢は強い心を持って実践してきた。

国家の繁栄や資本主義の発展のためには、個人の利益は犠牲にしなければならないと考えたのである。


そして、商工業を発展させ、国を繁栄に導き、国民生活を豊かに、しかも安定させることが大切で、それは『論語』でいう“仁義”に適うという考えに渋沢は到達したのである。

 

・論語の名言を味わう


論語を読んで内容を理解しているが、その内容を実践することのない人。

または、論語は読むことができても正しく理解していない人のことを「論語読みの論語知らず」という。

もったいない話。


なぜなら、論語に書かれている言葉は含蓄に富み、日々の暮らすなかでの行動の指針となる名言ばかりだからだ。

しかも初めから読み進める必要はない。

孔子と弟子たちとの問答集である論語は20編からなるが、それぞれの編の内容はまとまったものではないからだ。


以下に数例を挙げる。

ちなみに孔子は中国の春秋時代の学者、思想家。

役人として大成したが、政争に破れて下野し、弟子を伴って十数年間諸国を歩き、徳の道を説いてまわった。

晩年は故郷に戻り、弟子の教育に専念した。

儒教の祖でもある。


「学びて時にこれを習う、亦説(よろこ)ばしからずや。朋有り遠方より来たる、亦た楽しからずや。人知らずして慍(うら)まず、亦た君子ならずや」


意味:勉強を怠らず、切磋琢磨できる遠方に住む友を持つことは人生最上の楽しみだ。学んだものを人に伝え、その人がさらにほかに伝えることができれば、徳の完成した君子に等しい。

 

「吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(したが)う。七十にして心の欲する所に従いて、矩(のり)を踰(こ)えず」


意味:15歳で学問を志し、30歳で独り立ちし、40歳で惑わされなくなった。50歳で天命を理解し、60歳で人の意見に素直に耳を傾けられるようになり、70歳で人の道をはずさなくなった。

 

「学びて思わざれば罔(くら)し。思うて学ばざれば殆(あやう)し」


意味:学ぶだけで自ら考えることをしなければ、真の意味の知識は身に付かない。一方、考えるばかりで知識を人から学ぼうとしなければ、賢明な判断を下すことができなくなる。

 

「多く聞きて疑わしきを闕(か)き、慎んで其の餘(よ)を言えば、則ち尤寡(とがめすく)なし。 多く見て殆(あやう)きを闕き、慎んで其の餘を行えば、則ち悔(くい)寡し。 言(げん)に尤寡く、行いに悔寡ければ、禄は其の中(うち)に在り。」


意味:勤め先を求める方法を学ぼうとしていた子張に対し、孔子はこう語った。「たくさんの意見に耳を傾け、慎重に行動を起こすのであれば後悔はしないし、勤め先も自然と見えてくる」

 

或ひと曰く、「徳を以て怨みに報いば如何」。子曰く、「何を以てか徳に報いん。直(なお)きを以て怨みに報い、徳を以て徳に報ゆ」


意味:「徳を施して恨みのあるものに報いる方法はどうか」という質問に孔子は言った。「恨みのあるものには正しさで報い、徳を施してくれたものには徳で報いるのがいいのだ」


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渋沢栄一が最も大切にした愛読書『論語』|人格形成と利益主義のバランスを重視した男の哲学
男の隠れ家デジタル 2021.02.26
https://otokonokakurega.com/learn/secret-base/27485/

 

 

 

 

■渋沢栄一が「論語と算盤」の両立を力説した意味

「論語か算盤」の選別ではなく創造に結びつく

東洋経済 2020/07/25 印南 敦史 : 作家、書評家 

https://toyokeizai.net/articles/-/362925


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渋沢栄一といえば、500社もの会社の設立に関与したシリアル・アントレプレナーとして有名だ。

『33歳の決断で有名企業500社を育てた渋沢栄一の折れない心をつくる33の教え』(東洋経済新報社)の著者、渋澤健氏はその玄孫(やしゃご)にあたる人物。栄一から数えて5代目になるという。


「日本の資本主義の父」と呼ばれる栄一が残した『論語と算盤(そろばん)』は、いまなお広く読み継がれる談話録だが、同書を中心に、ビジネスパーソンに覚えておいてほしい栄一の言葉をまとめているのが本書である。


『論語と算盤』が出版されたのは、大正デモクラシーの中で経済がバブル化し、若い人を中心に立身出世、金儲けが注目された1916年のこと。そうした時代背景の中で出されたこの本で注目すべきは、「一見して相反する2つ」を融合させたことにあると渋澤健氏は指摘している。


商売で儲けたいなら、「慈善活動ではないのだから、多少は道徳に反することでも致し方ない」と考えがちだ。

かといって道徳ばかりを重視していると、「儲かる案件も儲からなくなる」可能性が生じる。

 

・「論語か算盤」ではなく「論語と算盤」


つまり論語と算盤は相反するもので、多くの利益を追求するにあたっては、どうしても道徳は無視されがちだということ。

しかし、そうではないと考えたのが栄一で、だから「論語か算盤」ではなく「論語と算盤」だというのである。


なお、いま改めて『論語と算盤』に注目することにも、大きな理由があるようだ。

日本は、バブル経済の崩壊によって「失われた20年」とも言われる長期の低迷を経験し、その間に人口減少に転じました。


いまの日本も、渋沢栄一が活躍した時代と同じように先が読めない、難しい時代に入っていますが、大変革の時代には、若い人が活躍するチャンスが訪れます。


現状を嘆いて立ち止まってしまうのはもったいない。

渋沢栄一のように未来を信じる気持ちを強く持てば、きっといまの停滞ムードを吹き飛ばせるはずです。(「はじめに」より)

もちろん、過酷なビジネスの現場に身を置いていれば、時には心が折れそうになることもあるだろう。

しかし、そんなときにこそ、渋沢栄一が残した言葉に触れ、“未来を信じる力”を取り戻してほしいと渋澤健氏は訴える。


たしかに、コロナ禍によってさらに先が見えにくくなっている状況だからこそ、それは重要な視点なのではないだろうか?

社会人になったばかりのころは期待や希望を胸に秘めていたかもしれないが、10年もキャリアを積めば、夢よりも現実が先に立ってくるものだ。


なかなか変えられない過去の慣行、上位下達で行われる命令系統、複雑な人間関係など、さまざまな要因に絡めとられ、次第に「組織の論理」に巻き込まれてしまうからだ。

しかも組織の規模が大きくなるほど、その傾向は強まっていく。


ならば転職という選択肢もあるだろうが、そこには勇気が必要となる。

ましてや現在の職場において“夢はないけれど生活は安定している”のであれば、ますます転職しようという方向に気持ちを切り替えることは難しくなる。


とはいえ、いま安定していると感じている職場は、本当に安定しているのだろうか??

渋澤健氏はその点を指摘している。


会社が大企業であったとしても、いつリストラされるかわからず、M&Aによって人員が削減するケースもあるだろう。

つまり現時点では、「一生涯、安定した生活が保証されるかどうか」などということは誰にもわからないのだ。

 

・未来を信じろ!


それは栄一にしても同じで、必ずしも順風満帆で「日本の資本主義の父」と呼ばれる地位を築いたわけではない。

大きな時代の変化を受けて、幾度となくキャリアチェンジを余儀なくされ、「4度目の正直」でようやく自分が本当にやりたいことにたどり着いたのだ。


【渋沢栄一の三度の挫折】

挫折①元々は尊王攘夷派の志士だったのに、若気の至りのクーデターに失敗して徳川慶喜に仕えることになった。

挫折②第二のキャリアがスタートしたと思ったら、大政奉還でそこから先のキャリアが望めなくなった。

挫折③明治政府で第三のキャリアがスタートして大蔵省のナンバー2まで上り詰めたものの、トップとぶつかって辞職することになった。(32ページより)


こうした度重なる挫折にもかかわらず、なぜ栄一は生涯をかけて500社もの会社を立ち上げ、日本の経済力を高めることに貢献できたのか??

この問いについて渋澤健氏は、未来を信じることができただけでなく、自分の夢を諦めなかったからだと答える。


事実、栄一は『渋沢栄一訓言集』で次のように語っている。

目的には、理想が伴わねばならない。その理想を実現するのが、人の務めである。(33ページより)


さらに『渋沢栄一訓言集』には、以下の言葉もあるという。

無欲は怠慢の基である。(33ページより)


夢には、欲につながる側面がある。「こうしたい」「ああしたい」という欲求があるからこそ、人は一生懸命になって、事に当たれるということだ。


ただし「無欲は怠慢の基である」と言ってはいるものの、栄一が求めているのは、「世の中をもっとよいものにしたい」という、よりよい社会の実現に対する欲。

それを率先垂範したのだ。


官尊民卑の傾向が強かった世の中にあって、民間の力をより強いものにするため、将来の日本の成長に必要な会社を次々と立ち上げていったわけである。

なお、そのうち186社が現存しており、みずほ銀行、王子製紙、東京海上日動、帝国ホテル、サッポロビール、東洋紡、IHI、清水建設、いすゞ自動車、太平洋セメント、川崎重工業、第一三共、朝日生命など、超有名企業ばかりが並ぶ。


しかし、いずれにも「渋沢」の名は冠されていない。

いわば栄一は、日本経済の「影の立役者」的な存在だったのだろう。


また栄一は、生涯を通じて「合本主義」を理想としていた。

それは、公益を追及するのに最適な人材と資本を集めて事業を推進し、そこで得た利潤を、出資した人同士で分け合うという考え方だ。

だが渋澤健氏はそれを、近年、欧米財界トップが提唱している「ステークホルダー資本主義」の原型であると解釈しているそうだ。


いずれにしても「合本主義」を強く推し進めることにより、自身が青年時代から“解決すべき社会の課題”と考えていた官尊民卑の風潮にメスを入れていったのである。

 

・「か」ではなく「と」の精神を持て!


冒頭で、「論語か算盤」ではなく「論語と算盤」であることの重要性について触れた。

さらに詳しくいえば、この点について渋澤健氏は「との力」を持つことの重要性を説いている。


「との力」に対する、もう1つの大きな力が「かの力」だ。

「か」とは、「or」。

右か左か、上か下か、白か黒か。

デジタルの世界でいえば、ゼロか1かの世界。

何かを進めるにあたり、物事を区別し、選別して進めることで効率性を高めることができる。

すなわち、それが「かの力」である。


もちろん「かの力」は、組織を運営していくうえで不可欠な力である。

また、A店とB店の値段を比較するなど、日常生活においても必要となってくる。


だが、そうは言っても「かの力」だけでは、無から有を生み出すことはできない。

「か」は2つの有を比較して選別するだけにすぎないため、新しいクリエーション、創造に結びつかないのである。


一方、「との力」は、一見すると矛盾しているようなもの同士を組み合わせることによって、そこにある条件が整うと、化学反応が起こり、それまで考え付かなかったような新しいものを生み出す力と考えることができます。(60ページより)


その典型的な例が「論語と算盤」だ。

算盤をしっかり勉強し、ある程度理解が進んでから論語の勉強をするとか、あるいは損得感情は後回しにして、まずは道徳を重視して仕事を進めるという人は多いことだろう。

しかし栄一は、論語と算盤に優劣をつけることなく、一緒に進めていこうと主張しているのだ。


たしかにビジネスを効率よく回していくためには、「かの力」で選別することのほうが適しているだろうし、少なくとも目先の効率は上がるかもしれない。

ただ、あくまでそれは「いま、ここにあるもの同志の選別」にすぎない。

したがって、それを繰り返していると、いつかは尻すぼみになってしまう。


一方「との力」は、先に触れたように一見すれば矛盾しているし、なかなか答えが出るものでもない。


論語と算盤を組み合わせて何が生まれるのかは、いまとなれば、ある程度の答えが見えているものではある。

だがそれは『論語と算盤』が世に出て100年近い年月が経過し、さまざまな事例が積み上げられてきたからだ。


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渋沢栄一が「論語と算盤」の両立を力説した意味
「論語か算盤」の選別ではなく創造に結びつく
東洋経済 2020/07/25 印南 敦史 : 作家、書評家 
https://toyokeizai.net/articles/-/362925

 

 

 


■この1文字で「論語と算盤」の精神がわかる!

3分で解説!なぜ、いま「渋沢栄一」なのか?

東洋経済 2021/03/16 渋澤 健 : シブサワ・アンド・カンパニー代表取締役、コモンズ投信会長 

https://toyokeizai.net/articles/-/413743


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・100年読み継がれる商売繁盛の指南書


渋沢栄一といえば実に500社ほどの会社の設立に関与したシリアル・アントレプレナーで、「日本の資本主義の父」と言われています。

その彼が行った講演を1冊にまとめた本が『論語と算盤』です。

100年も前に出版された本が、いまなお多くの経営者、ビジネスパーソンの座右の書として読み継がれています。


『33歳の決断で有名企業500社を育てた渋沢栄一の折れない心をつくる33の教え』

「論語」は、中国春秋時代の思想家だった孔子と弟子の会話を記したもので、孔子の名言集といってもいいでしょう。

人としての物事の考え方や道徳などについて述べているもので、聞けば知っている言葉がいくつもあると思います。

たとえば、「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る」は、「温故知新」という四字成語で広く知られています。


一方、「算盤」は商売のことを指しています。

そもそも商売は、他のライバルを出し抜いたり、さまざまな駆け引きが行われたりする、まさに「生き馬の目を抜く」世界ですが、だからといって何をしてもいいというわけではありません。


渋沢栄一は、『論語と算盤』を通じて、「道義を伴った利益を追求しなさい」と言ったのです。

それと同時に、「公益を大事にせよ」とも言っています。


『論語と算盤』が出版されたのは大正5年(1916年)です。

大正デモクラシーのなかで経済がバブル化し、若い人を中心にして立身出世、金儲けが注目された時代でもあります。

そのような時代背景のなかで、栄一は警世の書としてこの本を出したのではないでしょうか。


『論語と算盤』で注目するべきは、「一見して相反する2つを融合させた」ことだと思います。


商売で儲けようと思ったら、「少々、道徳に反することでも、まあ致し方ない。慈善活動じゃないから」などと考えてしまいがちです。

逆に道徳ばかりを重視していると、「儲かる案件も儲からなくなる」かもしれません。

したがって論語と算盤は相反するものであり、かつ人は少しでも多くの利益を欲するため、商売繁盛を目指すうえでは、どうしても道徳は無視されがちです。


でも、そうではないというのが栄一の考え方です。

だから「論語か算盤」ではなく、「論語と算盤」なのです。


ビジネスでもSDGsへの取り組みが求められているいまなら、当然と思えるかもしれませが、渋沢栄一は100年も前に、持続可能な企業や社会のあり方に気づいていたのです。

 

・よい金儲けと悪い金儲け


渋沢栄一のこの考え方を、「倫理的資本主義」と称する人もいるのですが、本人は「道徳経済合一説」と言っていました。

ポイントは2つあります。

【ポイント①】

経営者だけが利益を得るのではなく、社会全体が利益を得る「理念」「倫理」にかなう志の高い経営を行わなければ、幸福は持続しない。


経営者は従業員よりも収入が多いのは当然ですが、あまりにも経営者と従業員の所得格差が広がったり、あるいは社会全般が貧困に陥ったりすれば、いくら大金を稼いだとしても、経営者の幸せは持続しません。

社会が貧困になればなるほど、社会情勢は不穏なものになるからです。


もちろん、栄一自身は決してお金儲けを否定したりはしませんでした。


「富を求め得られたなら、賤(いや)しい執鞭の人となってもよい」という栄一の言葉があるくらいです。

ただし、この言葉の後には、こう続きます。


「『正しい道を踏んで』という句がこの言葉の裏面に存在しておることに注意せねばならぬ」


よく1代で財を成した人に対して、「あいつは成金だからな~」などとさげすみの視線を浴びせるケースがあります。

これはたぶんに品位の問題があると思います。

1発当ててにわかに大金持ちになったものだから、銀座のクラブで豪遊したり、高級スポーツカーやクルーザーを乗り回したりするなどというのは、まさに品位に欠けた行為と言わざるをえません。


渋沢栄一の場合、もともとお酒が飲めない体質でしたし、時代が時代なので、クルーザーで遊ぶようなこともありませんでした。

唯一の道楽は、きっと事業だったのだと思います。


それに、渋沢栄一はいまでいうシリアル・アントレプレナーのようなもので、事業で得た利益はほぼ全額、次の新しい事業に投資することを繰り返していました。

なので、結局のところ手持ちのお金は、かなり限られていたと思います。

500社近い会社や団体を設立した割には、派手なことは一切しませんでした。

自分一人が利益を得て、自分だけがいい思いをすることを、潔しとしなかったのです。


【ポイント②】

利益はすべて自分のものだとひとり占めすることなく、利益を社会に還元しなければ、経済活動は持続しない。


『論語と算盤』の「処世と信条」は、「論語と算盤は甚だ遠くして甚だ近いもの」という項目から始まります。

言わんとすることを意訳すると、次のようになります。


「算盤は論語によってできている。論語は算盤の働きによって、本当の経済活動と結びついている。したがって論語と算盤は、懸け離れているように見えるが、実はとても近いものなのだ。私は常々、モノの豊かさとは、大きな欲望を抱いて経済活動を行ってやろうという気概がなければ進展しないものだと考えている。空虚な理論に走ったり、中身のない繁栄をよしとしたりするような国民では、本当の成長とは無関係に終わってしまう。だからこそ、政界や軍部が大きな顔をせず、実業界ができるだけ力を持つようにしたいと希望している。実業とは多くの人にモノが行き渡るようにする仕事である。これが完全でないと国の富は形にならない。国の富を為す根源は何かというと、社会の基本的な道徳を基盤とした正しい素性の富なのだ。そうでなければ、その富は完全に永続することができない。ここにおいて論語と算盤という懸け離れたものを一致させることが、今日の急務だと私は考えている」


ちょっと長くなりましたが、ここに『論語と算盤』のすべてがあると私は思います。

「論語(道徳)と算盤(経営)を一致させること」が極めて大切な務めであることを言っており、それは「よい金儲け」とイコールです。

逆に、道徳を無視して金儲けに走るのは、「悪い金儲け」ということになります。

 

・「との力」が新しいものを生み出す


渋沢栄一の『論語と算盤』について、もう1つ覚えていただきたい言葉があります。

たったの1文字です。それは「と」です。

と??疑問に思った方も多いと思いますが、「との力」を持つことの大事さについて考えてみたいと思います。


「との力」に対して、もうひとつ大きな力があります。

それは「かの力」です。

「か」というのは、orです。

右か左か、上か下か、白か黒か。


何かを進めるに際して、物事を区別し、選別して進めることで効率性を高めることができます。

それが「かの力」です。


「かの力」は、日常や仕事などあらゆる場面で必要不可欠なものですが、「かの力」だけでは、無から有を生み出すことができないと思います。

新しいクリエーション、創造につながらないのです。

なぜなら「かの力」は2つの有を比較して選別するだけにすぎないからです。

分けて隔離すれば、そこからは化学反応、つまり、新しいクリエーションが生まれないのです。


一方、「との力」は、一見すると矛盾しているようなもの同士を組み合わせることによって、そこにある条件が整うと、化学反応が起こり、それまで考えつかなかったような新しいものを生み出す力と考えることができます。


『論語と算盤』は典型例です。

算盤をしっかり勉強して、ある程度理解が進んでから論語の勉強をするとか、仕事をするうえでも算盤勘定は後回しにして、まずは道徳を重視して仕事を進めるという人は多いと思いますが、渋沢栄一が言っているのは、「論語と算盤に優劣をつけることなく、一緒に進めよう」ということなのです。


確かに、「との力」は、一見すると矛盾していますし、なかなか答えが出てきません。

「との力」を用いることによって何が生まれるのかがはっきりするためには時間がかかりますし、それが見えてくるまでじっと耐える忍耐力も必要です。

おそらく何の成果も出てこないうちは、ただの無駄にも思えるでしょう。


でも、その時間の経過をじっと耐えているうちに、矛盾や無駄の中から、「あ、これはいける!」というものが、パッと眼前に現れます。それによって飛躍が生まれます。


その能力を発揮するためには、『論語と算盤』の根幹をなす「との力」を十分に発揮させることが肝心なのです。

渋沢栄一は、「との力」を原動力に、次々と新しいことに挑戦し続けたのでしょう。


いま目の前に渋沢栄一が現れたとして、コロナ禍の対応策で大事なのは、感染防止か、経済活動かと問えば、「感染防止と経済活動」と、きっと答えるでしょう。

「との力」が求められるいまだからこそ、いま渋沢栄一が注目されているのだと、私は思っています。


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この1文字で「論語と算盤」の精神がわかる!
3分で解説!なぜ、いま「渋沢栄一」なのか?
東洋経済 2021/03/16 渋澤 健 : シブサワ・アンド・カンパニー代表取締役、コモンズ投信会長 
https://toyokeizai.net/articles/-/413743

 

 

 

 


■渋沢栄一、儒教の教えを近代に 利益と道徳の両立で社会をつくる

朝日新聞 2021年12月5日 西田健作

https://www.asahi.com/articles/ASPD26637PCBUCVL01R.html


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「日本資本主義の父」と称され、生涯を描いた大河ドラマ「青天を衝(つ)け」が放送中の渋沢栄一は、儒教の経典「論語」を指針とした。

なぜ、封建制度を支えた儒教の教えを、近代に採り入れようとしたのか。


儒教の始祖・孔子(前551?~前479)は、中国・春秋時代の魯(ろ)の思想家だ。

動乱期に理想の政治を追求したが、政治家としては不遇で、晩年は弟子の教育に努めた。儒教は漢が前2世紀に国教化したとされ、以後、清の20世紀初めまで中国の王朝支配を正統化してきた。

中国では、仏教や道教と共に三大宗教の一つに数えられる。


儒教の道徳に「五常」の「仁義礼智信(じんぎれいちしん)」がある。

早稲田大学の渡邉義浩教授(中国古代思想史)は、孔子がこの中で重視したのは、「仁」と「礼」だと説明する。

「分かりやすく言うと、人としてどうあるべきかが『仁』、社会の中でどう生きるかが『礼』です」


一方、基本とする人間関係に「三綱(さんこう)」「五倫(ごりん)」がある。

「三綱」は父子、夫婦、君臣の関係で、「五倫」は長幼、朋友(ほうゆう)が加わる。

親に「孝(こう)」を尽くすことが最重要で、臣下は君主への「忠(ちゅう)」が求められた。

妻は夫に、年少者は年長者に従う。

儒教は秩序を重視し、体制維持に役立った。


孔子の没後に、孔子や弟子の言行を全20編約500章にまとめたのが「論語」だ。

渡邉教授はその成立を前漢(前202~後8)とみる。

宋代の12世紀に朱熹(しゅき)によって四書五経の経典に格上げされた。

渡邉教授は「『論語』は東アジアで最も読まれた古典。

それぞれの解釈で内容を説明する『注』によって理解されてきた。

論語の読み方は様々で『注』は古今で3千種類はあると思います」と話す。


日本に儒教が広まったのは江戸時代だ。

二松学舎大学の牧角悦子教授(中国文学・日本漢学)は、江戸時代と漢代は似ていると指摘する。

「乱世には武力が必要だが、統一後は体制維持のために秩序と理念が必要になるからだ」


徳川幕府は、朱熹が儒教を再解釈した「朱子学」を官学とした。

牧角教授は「修身斉家治国平天下(しゅうしんせいかちこくへいてんか)」という言葉にそのエッセンスが詰まっているという。


「まず、自分自身が儒教的な精神を整えて身を修める。それが家を整(斉(ととの))えることにつながり、国が治まり、最終的には天下国家を秩序づけることになる」


江戸後期になると「寛政異学の禁」で朱子学以外が禁止され、朱子学がさらに広まった。

「各藩の武士は藩校で、庶民は寺子屋で学んだ。『論語』を通じて、身分に応じた道徳理念や清廉の思想を身につけた」


その一人が、豪農の家に生まれ、武士、官僚から商人に転じた渋沢栄一だった。

牧角教授は「渋沢も、まず修身が大事だと繰り返し言っている」と話す。


渋沢の考えは『論語と算盤(そろばん)』(1916年)に記されている。

講演をまとめたもので、2010年出版の『現代語訳 論語と算盤』(ちくま新書)が60万部発行されるなど、現在も広く読まれている。


同書の訳者で作家の守屋淳さんは、企業経営者が注目する理由の一つに、08年のリーマン・ショック以降に欧米流の強欲な資本主義が行き詰まりを見せていることを挙げる。「原点に返り、日本人が資本主義を導入したころに重視していた価値観を振り返ってみようということではないか」


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渋沢栄一、儒教の教えを近代に 利益と道徳の両立で社会をつくる
朝日新聞 2021年12月5日 西田健作
https://www.asahi.com/articles/ASPD26637PCBUCVL01R.html

 

 

 

 

■満州事変の2カ月後に死去した渋沢栄一。「日本経済の父」がラジオで語った平和への願い【戦後76年】

Business Insider Japan 吉川慧 [編集部]Aug. 15, 2021

https://www.businessinsider.jp/post-240385


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「日本資本主義の父」「近代日本経済の父」と呼ばれる渋沢栄一(1840?1931)だが、その活動は一人の実業家の枠には留まらなかった。


貧困者や孤児、老人などを救済する東京養育院の運営などの社会福祉事業に奔走し、晩年は民間外交にも尽力。

日本が国際的孤立を招きつつある時代、アメリカや中国との親善にも力を注いだ。


晩年には世界平和への理想をラジオで国民に語りかけた。

それでも、渋沢の願いは届かなかった。


1931年9月、日本の関東軍は満州事変を引き起こし、中国東北部を占領。

その2カ月後、渋沢はこの世を去っている。


歴史が教えてくれるように、渋沢の死と前後して日本が歩み始めたのは「1945年8月15日」へと至る道だ。

渋沢は民間外交でどんな動きを見せたのか。


そして、どんな言葉を紡いだのか。

その足跡を知るために國學院大學の杉山里枝教授(日本経済史)を訪ねた。(聞き手:吉川慧)

 

・民間外交の担い手、日米関係の改善に尽力

 

ー生前の渋沢栄一は、中国を軸とした日米関係を重視していました。

 

渋沢は辛亥革命で中華民国の「建国の父」となった孫文、さらには袁世凱、孫文の後継者となった?介石とも親交がありました。


アメリカ側とも関係を結び、1879年にはグラント前大統領を歓待しています。

渋沢も日露戦争前から大正期にかけて4回アメリカを訪れています。

最初は1902年、日本の国際化を目指す中での欧米視察でした。


1906年にサンフランシスコで大地震が起こった時には、渋沢が頭取をつとめる第一銀行は当時の価格で1万円という大金を義捐金として供出し、その他にも多額の義捐金を集めてアメリカに送りました。


さらに1909年、渋沢は外務省の協力を得て、約50名からなる渡米実業団の団長としてアメリカを訪れています。


ただ、アメリカ国内では19世紀末から黄禍論があり、日本人移民の排斥運動の空気も次第に生まれていった。

訪米した渋沢も、これを感じ取ってはいたようですね。

 

ーそうした中、1914年に第一次世界大戦が勃発すると、日本は日英同盟を口実に連合国として参戦。中国での利権拡大を狙って「二十一カ条要求」を中国側に要求しました。英・米は大戦中で大きく介入できませんでしたが、日本への警戒心が高まった事件でした。

 

ところが1920年にはカルフォルニア州で日本人の土地所有の禁止を決めた排日土地法が成立し、日米関係は悪化へと向かいます。


それでも渋沢は、なおも努力を続けます。

第一次世界大戦後、軍縮を協議した1921年のワシントン会議には民間の立場で視察。オブザーバーとして参加します。


この時すでに80歳だった渋沢ですが、太平洋地域の安定のためにも、日本を警戒するアメリカが主導した軍縮に賛同。ハーディング大統領に面会し、ニューヨークでは財界人と交流しつつ、日米親善を目指しました。


さらに1923年の関東大震災では、自身のネットワークを通じてアメリカからの復興支援も取り付けます。

日米の実業界の関係は決して悪いものではなかった。


そうした中で1924年、アメリカで「排日移民法」が成立してしまうんですね。

 

ーこの「排日移民法」は、低賃金の日本人の移民がアメリカ人の雇用を妨げるとして、日本からの移民を全面禁止する内容を含んだものでした。渋沢にとって大きなショックだったようですね。それでもあきらめず、冷静に未来への望みを説いていましたが…。

 

意外かもしれませんが、渋沢としては移民には肯定的な立場だったんですね。

それこそ、渋沢の頭の中にはグローバルな地球儀がいつもあったと思います。


そうなると、人が移民し、適材適所でやっていくということは必然。

それでゆくゆくは日本も世界も豊かになると考えていたことでしょう。


しかし排日移民法は、こうした渋沢の考えとは相容れません。

東京養育院で社会的な弱者を救済する活動をする渋沢にとって、アジア人、日本人だからという理由で排斥されることは、望ましいことではなかったはずです。

 

ー渋沢自身は、第一次世界大戦での二十一カ条要求やシベリア出兵に反対論を唱えていました。ただ、中国をめぐり日米関係は悪化していった。

 

特に、大戦期の日本は好景気にのって輸出を強化していきましたが、そのことでも他の列強からバッシングを招くようになりました。


また、日本が対外膨張に傾倒していき、警戒される存在になっていった時期とも重なっていますね。


だからこそ、アメリカとの関係は民間外交によってなんとか改善したいという思いがベースにあったようです。

ただ、それも次第に実現が難しくなっていきます。

 

ーそれでも、渋沢は日米関係を良好に保ちたいと様々な取り組みをしています。そのうちの一つが「青い目の人形」による人形外交でした。

 

きっかけは、アメリカで排日運動が深刻になっていた1926年に知日派の宣教師シドニー・ルイス・ギューリック博士から寄せられたある申し出でした。


アメリカの子どもたちから、日本の子どもたちへ、友情の象徴として人形を贈り、両国の親善を図りたい、と。

渋沢はギューリックの求めにすぐに応じ、翌年の1927年に日本国際児童親善会を設立し会長になります。

 

ーアメリカから約1万2000体の「友情人形」が贈られ、日本からも「答礼人形」として58体の市松人形を贈りました。ただ、友情人形は太平洋戦争下でその多くが失われた。およそ300体が現存しているそうですね。

 

こうした国際親善が評価されたことから、1926年と1927年には渋沢は日本の政府関係者からの推薦などを受け、ノーベル平和賞の候補にもなりました。

アメリカからも推薦状が届いたとか。

ただ、受賞には至りませんでしたが……。

 

渋沢の発言をたどると、明治期の台湾出兵のころから戦争には反対の立場でした。第一次世界大戦中にも軍備拡張による対外膨張を戒めています。

 

渋沢の平和への考えは、戦争が国の財政を圧迫し、市民の暮らしを苦しめることになるという経済的な側面からの意見でもありました。

ただ、渋沢が関わっていた第一国立銀行は、1876年の日朝修好条規の締結の頃から、朝鮮への侵出に関心をもっていました。

これは渋沢自身が植民地支配を志向したというより、新たなビジネスの地として見ていた向きがあります。

 

ー一方で渋沢は、第一次世界大戦後、その反省から国際連盟の精神を達成する目的で各国につくられた「国際聯盟協会」の会長になりました。

 

1926年11月11日には、第一次世界大戦の休戦から8年の記念日にラジオで世界平和を訴えています。

その中でも渋沢は自らが大切にしてきた儒学の教えを引いて、道徳心からの平和を説いています。


渋沢の肉声は、東京都北区飛鳥山の渋沢史料館でその一部を聴くことが出来ます。

以降1929年まで、最晩年の渋沢にとっての毎年の恒例行事となりました。

 


ーこうした渋沢の訴えは実らず、1931年9月には満州事変が勃発。日中の対立は決定的となり、中国との十五年戦争へと突入します。

 

この年に中国で大洪水が発生すると、渋沢は義援金を集めました。

ただ、中国側は満州事変を受けて、やむを得ず支援を断っています。

 

ー満州事変の2カ月後、渋沢は91歳でこの世を去りました。この後、日本は渋沢が思い描いた方向とは真逆に進んでいきます。

 

渋沢の没後、日本は戦時体制へと移り、国際社会からはますます孤立していきます。

やがては太平洋戦争へと突入しました。


戦時下で財閥系の企業の影響力が拡大する中、渋沢の存在も戦争を通じて薄れていった面もあると思います。

渋沢の『論語と算盤』のうち、「論語」である道徳も薄れていった。

戦後も一般的な知名度は必ずしも高いとは言えない状態が続きましたから。


当の渋沢本人は、死の床に際して「100歳まで生きて奉公したい」と語っていました。


渋沢の葬儀の日のこと。

棺を乗せた車が走った沿道は数万の人で埋め尽くされたそうです。

渋沢を慕う人が、少なからずいたことを伝えるエピソードですね。


仮に100歳まで健在だったのなら、日米開戦前夜の1940年まで生存していたことになります。

もしかしたら、また日本が歩んだ道は違ったかもしれない……と、つい想像してしまう。

そんな不思議な魅力が、渋沢にはあったのかもしれません。

 

渋沢の人生は、近代アジアの激動期と奇しくも重なる。

生まれ年の1840年は中国最後の王朝・清朝がイギリスと戦って敗れた「アヘン戦争」勃発の年。

亡くなった1931年には、日本の中国侵略の契機となった「満州事変」が勃発した。


列強と渡り合うため日本の富国強兵が進められた時代。

先見性に優れた経済界の大御所も帝国主義・植民地主義を止めることはできなかった。

こうした点を渋沢の「限界」と指摘する意見もある。


渋沢の没後、日本は大きな岐路に立った。

1932年には満州国の成立、五・一五事件。

33年には国際連盟を脱退。次第に国際的な孤立を深め、軍国色が強まっていく。


世界に目を向けると、1933年にドイツでナチスが政権を獲得し、アドルフ・ヒトラーが首相に就任。

一方、アメリカではフランクリン=ルーズベルトが大統領に。

渋沢の死から6年後の1937年、盧溝橋事件を発端に日中戦争へと突入した。


世界は刻一刻と第二次世界大戦へと近づき、渋沢が心血を注いだ経済界を中心とした民間外交は頓挫。

重要視していた日本と米・中の関係はもはや修復不可能に。

そうして行き着いた先が、76年前の8月15日だった。


渋沢が生きた時代をいま一度ふりかえることは、「過ち」を繰り返さないためにも大切な試みだ。


大河ドラマなどで渋沢に注目が集まる2021年。

彼が晩年にラジオで人々に語りかけた平和への言葉は、今の世界にどう響くだろうか。

 


ーーー

まずアメリカ人の中には、善い者もあり悪い者もあるということを理解せねばならぬと思います。
アメリカの日本移民に対する関係が、私の知っている限り今の有様であって、こう申すと脈が切れたようにお感じなさるか知れませぬが、いまだそうではございませぬから、たとえ万一にこれが思うように行きませぬでも、また未来に望みないと申せぬであろうと思います。
なるべく短気を起されぬようにお願いをしとうございます。
(「米国における排日問題の沿革」1924年5月20日東京銀行倶楽部晩餐会演説)

ーーー

「生産殖利によって武力を拡張し、これによって他国を併呑するのは、これ国際道徳を無視した野蛮の行為である」(1918年3月「竜門雑誌 第三五八号」)

ーーー

国際間の経済の協調が、連盟の精神をもって行はるるならば、決して一国の利益のみを主張することはできない。

他国の利害を顧みないということは、正しい道徳ではない。

いわゆる共存共栄でなくては、国際的に国をなしていくことはできないのであります。

経済の平和が行われて、始めて各国民がその生に安んずることができる。

而(しこう)してこの経済の平和は、民心の平和に基(もとい)を置かねばならぬことは、申すまでもありません。

他に対する思いやりがあって、即ち自己に忠恕(ちゅうじょ)の心が充実してはじめてよく経済協調を遂げ得るのであります。

中庸に「誠者天之道也誠之者人之道也」という警句があります。いかにも天は昭々として公平無私で、四季寒暑みなその時を違えず、常に誠を尽して万物を生育しておりますが、人間はこれに反して互いにに相欺き相争い、この天の誠を人の道とすることを忘却しているのは、実に苦々しい限りであります。

どうぞ前に申した通り、一人一国の利益のみを主張せず、政治経済を道徳と一致せしめて、真正なる世界の平和を招来せんことを、諸君と共に努めたいのであります。

(1928年11月11日「御大礼に際して迎ふる休戦記念日に就て」)

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満州事変の2カ月後に死去した渋沢栄一。「日本経済の父」がラジオで語った平和への願い【戦後76年】
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