■田中角栄が挑んだ資源立国 - J-Stage
前野雅弥 (日経新聞 シニアエディター) (2018)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jaesjb/60/11/60_656/_pdf/-char/ja
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もう少し角栄が首相を続けていたなら,角栄は何を成していただろうか。
それは間違いなく資源外交だった。
角栄は中国との国交正常化を成したあと,すぐさま資源問題に着手した。
角栄にはもともと日本にとって資源問題は極めて重要な問題との認識が強かった。
首相に就任した時から側近に「このまま日本が資源を海外に牛耳られているのは問題だ。
特に石油をメジャー(国際石油資本)に押さえられた現状ではダメだ。
こういうことこそ,政治のトップが前面に立って突破口を開いていかなければならない」。
こう話していたのだった。
ここで筆者が思い出すのが 1990 年代の後半,筆者はエネルギー記者クラブの配属となった時のこと。
エネルギー記者クラブの主な守備範囲は電力・ガス業界と石油業界なのだが,ここで奇妙な日本語を耳にする。
「石油元売り会社」という日本語だ。
日本には「石油会社」はない。
あるのは「石油元売り会社」だけだというのだ。
石油会社というのは探鉱,掘削など石油開発と石油精製をあわせて行うというのが必要条件。
日本の場合,石油開発はほとんど行っておらず,手がけているのは石油精製と販売だけ。
精製する大本の原油はその大半をメジャーに掘り出してもらい日本に回してもらっている。
だから「石油元売り会社」というのが正確なのだというわけだ。
分かったような分からないような話だが,いずれにしても日本のエネルギー調達が完全に海外に押さえられてしまっているという事実だけはよくわかる。
角栄はこれを危惧した。第2次世界大戦で中国に出兵した時,「ガソリンがないから」という理由で車に乗せてもらえず歩いたというエピソードを披露しているが,エネルギーがないということがいかに惨めなことなのか,角栄は身に染みて感じていた政治家だった。
だから,角栄は日中国交正常化を成し遂げた後,さほど時間を置かずに資源外交に乗り出した。
1973年9月のことだ。
フランスを皮切りに英国,ドイツ,ロシアと角栄にしては珍しい長期の外遊だったが,そこで角栄は徹底的に日本のエネルギー調達ルートの多角化に道筋をつけようと奮闘した。
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田中角栄が挑んだ資源立国 - J-Stage
前野雅弥 (日経新聞 シニアエディター) (2018)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jaesjb/60/11/60_656/_pdf/-char/ja
■「その油、米国が回してくれるのか」(田中角栄のふろしき)小長秘書官の証言
2018年4月30日
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO29918350X20C18A4X12000/
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フランスを皮切りに英国、西ドイツと欧州からスタートした2週間あまりの資源外交。
ソ連でのブレジネフ会談をもって、ひとまず幕を閉じた。
期待が大きかった北方領土返還で決定的な言質を引き出せなかったとはいえ、日本とソ連の間で領土問題が懸案として存在することを認めさせたのは間違いなく角栄の剛腕だった。
そして何より肝心の資源の共同開発では欧州の国々との間で大筋で合意を取り付けることができた。
角栄自身、「いくばくか」と抑制を利かせながら「実りある旅だった」と資源外交を評価した。
万事、自分のことには控えめな角栄にしては珍しいことだったが、確かに中東一極集中、石油に依存しきった日本のエネルギー調達体制に警鐘を鳴らした意味は大きかった。
ただ、皮肉なことに角栄が鳴らした警鐘の有意性はすぐに証明されることになる。
まるで角栄がソ連から東に向かうのに歩調を合わせたかのようにイスラエル軍は戦線を東に拡大、ゴラン高原で一部、1967年の休戦ラインを突破したのだ。
第4次中東戦争が激しさを増し、日本の石油調達に黄色信号がともった。
こうなると角栄は再び激務の中に放り込まれる。
「郷に入れば郷に従えとはいうけれど……」。
資源外交中、欧州の長い食事に辟易(へきえき)としていた角栄だったが今度は食事をとる時間もなくなった。
裏を返せばそれだけ日本は緊迫していた。
決定的だったのは10月17日。
石油輸出国機構(OPEC)加盟のサウジアラビア、イランなどペルシャ湾岸6カ国が原油の「公示価格」を21%引き上げることを決める。
ウィーンでメジャー(国際石油資本)と引き上げ交渉に臨んでいたが中東戦争を背景に値上げを強行したのだった。
危機は石油の価格だけにとどまらなかった。
「中東戦争に石油を武器に」と唱えるアラブ石油輸出国機構(OAPEC)がその閣僚会議で、イスラエル支援国に対する制裁を打ち出したのだ。
親アラブの「友好国」にはこれまで通り石油を供給するが、イスラエル支援する「反アラブ」、またはその中間でも「非友好国」と判断し石油の供給を絞り込む措置を決めたのだった。
この決定で日本は凍りついた。
政界、官界はもちろん経済界は混乱を極めた。
日本はどっちだ。
友好国に入れば、間一髪で命脈を保つ。
しかし、仮に反アラブと見なされれば……。
日本経済は間違いなく致命的なダメージを受ける。
反アラブか友好国か、それとも非友好なのか。
情勢を見極めようと角栄もあらゆるルートから情報収集を試みる。が、簡単ではなかった。
1973年7月に角栄が設立した資源エネルギー庁はフル稼働、世界情勢を刻々と伝えてきたが、それだけでは十分ではなかった。
時間とともに事態は悪化の一途をたどる。
10月末、エクソンなど国際石油資本(メジャー)が日本に対して原油の供給量の削減を通告してきたころには、一部地域はパニックといっていい状況に陥っていた。
銀座のネオンは消え、スーパーマーケットにはトイレットペーパーを求め長蛇の列ができた。
「このままだと日本はまずい」。
ヒリヒリするような角栄の緊張感が秘書官の小長啓一に伝わってきた。
そんな時だ。
中東からの帰途、米国務長官、キッシンジャーが日本にやってくる。
11月15日。午前11時から行われた角栄との会談ではまさに「息が詰まるようなギリギリのやり取り」だった。
「国務長官ご就任おめでとうございます」。
和やかだったのは冒頭だけ。
キッシンジャーはすぐに切り込んできた。
「米国と一緒にイスラエルの味方をしてくれとまでは言わない。ただ、アラブの友好国となりアラブの味方をするのはやめて欲しい」
しかし、角栄がひるむことはなかった。
そしてピシャリ。
「日本は石油資源の99%を輸入、その80%を中東から輸入している。もし輸入がストップしたらそれを米国が肩代わりをしてくれますか」――。キッシンジャーが一瞬黙る。すかさず角栄が「そうでしょう」。
そのうえで畳みかけた。
「アラブにある程度、歩み寄った対応をせざるを得ない、日本の立場を説明するためアラブ主要国に特使を派遣する準備を進めている」。
日本はこれまで通り同盟国である米国との友好関係を維持しながら、石油資源については独自の外交を展開せざるを得ないことを毅然として説明したのだった。
11月22日。
角栄の言葉は現実のものとなる。
閣議で石油危機を打開するため中東政策を転換することを了承したのだ。
武力による領土の獲得や占領を許さないこと、1967年戦争の全占領地からイスラエルが兵力を撤退させることなどを官房長官、二階堂進の談話としてアラブ支持を明確に発表したのだった。
12月10日、今度は副総理の三木武夫を中東八カ国に差し向けた。
いわゆる「油乞い外交」。
経済協力という切り札も切ったが、何よりも「国際紛争の武力による解決を容認しないというのが日本外交の基本的態度」という姿勢が中東諸国の共感を呼んだ。
そして運命の12月25日、クリスマス。
ついに朗報が舞い込む。
OAPECが日本を「友好国」と認めたのだった。
日本に必要量の石油が供給されることが決まり危機は去った。
ここでもまた角栄の舞台回しが国難を救ったのだった。
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「その油、米国が回してくれるのか」(田中角栄のふろしき)小長秘書官の証言
2018年4月30日
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO29918350X20C18A4X12000/
■『田中角栄の資源戦争』
アメリカの傘下を離れ、世界の資源国と直接交渉する大胆な「資源外交」
アメリカや欧州の覇権、石油メジャーやウラン・カルテルの壁を突き破ろうとした角栄
著者:山岡淳一郎
出版社:草思社
発売日:2013年04月02日
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