麦の秋雀ら海へ出てかへす 山口誓子
田を植ゑるしづかな音へ出でにけり 中村草田男
たまたま、田を植えているところに出会った。田植え機もない時代
の田植えは、苗を一さし、一さし植えていく作業だ。位置を変える
ために田から足をぬくと、田水の音がする。田の隅からは、水が流
れ入っているだろうが、それも静かである。交わされる言葉も少な
れている。「田を植ゑるしづかな音」への親しみが感じられる。
たまたま、田を植えているところに出会った。田植え機もない時代
の田植えは、苗を一さし、一さし植えていく作業だ。位置を変える
ために田から足をぬくと、田水の音がする。田の隅からは、水が流
れ入っているだろうが、それも静かである。交わされる言葉も少な
れている。「田を植ゑるしづかな音」への親しみが感じられる。
夏潮の今退く平家亡ぶ時も 高濱虚子
虚子のこの俳句は、源氏と平氏の壇の浦の戦いを踏まえている。屋
島の合戦で勝利を得た源氏ではあるが、義経は追撃を緩めず長門ま
で追い詰め、屋島の合戦の一ヶ月ばかりあとの3月、平家の軍船と
源氏の軍船は、壇の浦において戦うことになった。朝6時ごろから
始まった戦いであるが、当初、潮の流れをうまく掴み優勢であった
平家は、午後になり、潮の流れが変わり戦勢が逆転して、多くの武
将も捉えられ、安徳天皇の入水に、ついに滅亡することになった。
華やかだった平家の滅亡を思い遣って、夏潮の激しく引く勢いに、
哀れさえ覚えて詠んだもの。夏潮の青さ、干満の激しさなど、潮の
引く勢いは、今も往時も変わらないが、平家の滅亡を思うと、無常
観に浸されるものである。
虚子のこの俳句は、源氏と平氏の壇の浦の戦いを踏まえている。屋
島の合戦で勝利を得た源氏ではあるが、義経は追撃を緩めず長門ま
で追い詰め、屋島の合戦の一ヶ月ばかりあとの3月、平家の軍船と
源氏の軍船は、壇の浦において戦うことになった。朝6時ごろから
始まった戦いであるが、当初、潮の流れをうまく掴み優勢であった
平家は、午後になり、潮の流れが変わり戦勢が逆転して、多くの武
将も捉えられ、安徳天皇の入水に、ついに滅亡することになった。
華やかだった平家の滅亡を思い遣って、夏潮の激しく引く勢いに、
哀れさえ覚えて詠んだもの。夏潮の青さ、干満の激しさなど、潮の
引く勢いは、今も往時も変わらないが、平家の滅亡を思うと、無常
観に浸されるものである。
夏川を二つ渡りて田神山 正岡子規
明治29年夏の作。子規の「松羅玉液」にか書かれている夏川十句
のうちの一句で前書に、「昔、帰省している頃の田舎の友を訪ひた
る時のけしきを思ひ出し」とある。田舎の友は永田村(現松前町)
に住む武市庫太のことで、永田村からは田神山(谷上山)がよく見
える。二つの川は、石手川、重信川のことであろうと思われるが、
涼しい川を二つ渡り、友の住むところに来て、田神山を親しく眺め
たのであろう。田神山は標高456mの山で、苔むした参道を登る
と山頂近くに宝珠寺という立派な寺がある。私が訪れたのは、門前
の海棠の花が雨に濡れているときであったが、ほどほど世俗から離
れ、どこか漱石の『草枕』の雰囲気を窺わせている感じであった。
また、この句は昭和58年に句碑となって、宝珠寺山門前広場に据
えられてた。
明治29年夏の作。子規の「松羅玉液」にか書かれている夏川十句
のうちの一句で前書に、「昔、帰省している頃の田舎の友を訪ひた
る時のけしきを思ひ出し」とある。田舎の友は永田村(現松前町)
に住む武市庫太のことで、永田村からは田神山(谷上山)がよく見
える。二つの川は、石手川、重信川のことであろうと思われるが、
涼しい川を二つ渡り、友の住むところに来て、田神山を親しく眺め
たのであろう。田神山は標高456mの山で、苔むした参道を登る
と山頂近くに宝珠寺という立派な寺がある。私が訪れたのは、門前
の海棠の花が雨に濡れているときであったが、ほどほど世俗から離
れ、どこか漱石の『草枕』の雰囲気を窺わせている感じであった。
また、この句は昭和58年に句碑となって、宝珠寺山門前広場に据
えられてた。
谺して山ほととぎすほしいまま 杉田久女
ほととぎすは、夜中でも明け方早くにも、また真昼間にも、「テッ
ペンカケタカ」と聞きなしているその独特の鋭い鳴き声を聞くこと
ができる。盛んに鳴く声は、山に谺して、一層、夏のときを「ほし
いまま」にして印象を強めている。「谺して」も、「山ほととぎす
」の「山」も、緑濃い季節のさわやかな奥深さを表して、そんな中
にほしいままに鳴くほととぎすに、久女、自身を重ねるのも、無理
なことではないだろう。名句である。
ほととぎすは、夜中でも明け方早くにも、また真昼間にも、「テッ
ペンカケタカ」と聞きなしているその独特の鋭い鳴き声を聞くこと
ができる。盛んに鳴く声は、山に谺して、一層、夏のときを「ほし
いまま」にして印象を強めている。「谺して」も、「山ほととぎす
」の「山」も、緑濃い季節のさわやかな奥深さを表して、そんな中
にほしいままに鳴くほととぎすに、久女、自身を重ねるのも、無理
なことではないだろう。名句である。
うのはなくたし
卯の花腐し君出棺の刻と思ふ 石田波郷
「卯の花腐し」は、卯の花の咲く時期、陰暦の四月の別名を「卯の花月」といい、そのころに降る霖雨のことである。しとしとと降り続く雨が白い卯の花を朽ち果てさせるような雨という意味であろう。毎日振り続く雨に、病院で闘病生活をともにした友人の葬儀がある。しかし、自分は入院中で、君の葬儀にも出ることもできない。今頃、君の出棺の時刻でろう。葬儀に出ないまでも葬儀の進む順序を追って、君との別れを思い悲しんでいる。「卯の花腐し」がやりきれぬ悲しみを深めた。
卯の花腐し君出棺の刻と思ふ 石田波郷
「卯の花腐し」は、卯の花の咲く時期、陰暦の四月の別名を「卯の花月」といい、そのころに降る霖雨のことである。しとしとと降り続く雨が白い卯の花を朽ち果てさせるような雨という意味であろう。毎日振り続く雨に、病院で闘病生活をともにした友人の葬儀がある。しかし、自分は入院中で、君の葬儀にも出ることもできない。今頃、君の出棺の時刻でろう。葬儀に出ないまでも葬儀の進む順序を追って、君との別れを思い悲しんでいる。「卯の花腐し」がやりきれぬ悲しみを深めた。
きっさき
筍の鋒高し星生る 中村草田男
第一句集『長子』(昭和十一年)所収。筍が長けて背を伸ばすと、竹の皮を纏いながらもきりりとした竹の印象が強まってくる。その筍の鋒には、朝には一粒の露を見ることがある。夜には、瞬く星へ届こうと鋒は、ひとり背丈を伸ばす。筍の鋒も、星も共に小さくもつゆけき命の象徴である。
筍の鋒高し星生る 中村草田男
第一句集『長子』(昭和十一年)所収。筍が長けて背を伸ばすと、竹の皮を纏いながらもきりりとした竹の印象が強まってくる。その筍の鋒には、朝には一粒の露を見ることがある。夜には、瞬く星へ届こうと鋒は、ひとり背丈を伸ばす。筍の鋒も、星も共に小さくもつゆけき命の象徴である。