4月30日

2010-04-30 15:06:16 | Weblog
入つて門のこりたる暮春かな      芝不器男

人が門を入って、その人は家内に消え、門だけがありありと残っている。春の終わろうとする頃である。象徴的にのこった門に、せつないような思いがある。

4月29日

2010-04-29 15:04:55 | Weblog
蝶飛べりむかしの時間かもしれず     川本臥風

春の真昼に、蝶が飛んでいる。ひらひら、ひらひらと。音のしない蝶のはばたきを見ていると、そこだけが「むかしの時間」かもしれないという感覚に陥る。今自分は、昔のあの時にいるのかも知れない。「時間とは何であるか。」との問いさえ含んでいる。現在は、過去と永劫が集約された静止点であるかもしれない。

4月28日

2010-04-28 15:04:10 | Weblog
くらやみに蝌蚪の手足が生えつつあり    西東三鬼

春のくらやみ。なにかを生まんとする闇である。蝌蚪に手足が生えつつあると想像するも難くないが、その想像は、なまなましく、男性的である。

4月27日

2010-04-27 15:03:25 | Weblog
雉子かなし生みし玉子を吾にとられ     杉田久女

雉子は、長くひき啼く声もかなしげであるが、今生んだ玉子を「同性の吾」にとられてしまって、かなしいことだろうよ。よりかなしみが深いのは、雉子の玉子をとる「吾」である。

4月26日

2010-04-26 15:02:33 | Weblog
春宵や駅の時計の五分経ち     中村汀女

春の宵、誰かを駅に待っている。駅の時計が5分経った。長針の30度の傾き。春の宵なれば、その傾きも愛すべきものとなる。
 

4月25日

2010-04-25 15:01:46 | Weblog
春の街馬を恍惚と見つつゆけり      石田波郷

春の街を馬が行くことがあった。さんさんと降り注ぐ春の日に背中を照らされて馬が行く。馬の姿の美しさを恍惚と眺める作者であるが、その姿に、病者波郷の羨(とも)しさも読み取れる。

4月24日

2010-04-24 15:01:00 | Weblog
春の雪青菜をゆでてゐたる間も      細見綾子

青菜をゆでている間も春の雪が小止みなく降る。水分を多く含んだ春の雪が、ゆでている青菜にも降りかかるような印象がある。「間も」の「も」はさりげないが余情を出して効果的である。

4月23日

2010-04-23 15:00:20 | Weblog
浅間ゆ富士へ春暁の流れ雲        臼田亜浪

「浅間ゆ」の「ゆ」は、万葉集の「田子の浦ゆうち出でて見みれば真白ましろにぞ富士の高嶺に雪は降りける」の「ゆ」と同じ使い方で、意味は起点を表す「から」。作者の亜浪は、小諸の出身であるから、浅間は朝に夕に身近な山である。春の暁、起き出てみると、浅間から富士山の方角へと雲が流れている。山国の雲は山から山へ流れるのであるが、春の暁を流れる雲がゆったりとしている。そういった雲を見る心境が偲ばれる。「流れ雲」は、亜浪らしい一語として熟成しており、この句を引き締めている。

4月22日

2010-04-22 14:59:30 | Weblog
泣いてゆく向ふに母や春の風     中村汀女

泣いてゆくのは誰であろう。幼い子とすれば、うららかな春の風が吹く日、転んで泣いている子だろうか。泣き泣き向かう先には、母が微笑んで立っている。優しい日本の母と子の母子像である。



4月21日

2010-04-21 14:58:47 | Weblog
藤を見に行きしきのふの疲れ哉       正岡子規

子規は結核を病んでいたが、病の身にも快い日があったのだろう。藤を見に出かけた。藤の芳しい匂い、ひんやりとした花房の感触、風に揺れる様など楽しんだ。それはそれでよかったのだが、それにしても、昨日の疲れが残っていることよ。藤が咲くころは、うっすら汗ばむような日があって、ことに病身には、外出は疲れを今日に残すことになろう。

4月20日

2010-04-20 14:58:08 | Weblog
天耕の峯に達して峯を越す        山口誓子

天耕は、天まで耕すこと。誓子の造語。季語は、「耕」で春。「耕して天に至る」は、平野の少ない日本の貧しい農業の一つの象徴であった。段畑の一枚を耕し、次の一枚へと移る。とうとう峯まで達したが、それで終わらず、峯を越えて向こう側まで耕し及んだというのだ。「峯を越す」に人の力の尽きぬことへの感嘆がある。対岸の倉橋島を詠んだ句とされる。

4月17日

2010-04-17 09:22:32 | Weblog
引いてやる子の手のぬくき朧かな     中村汀女

春は水蒸気が多く、気象現象で霧ができ、春の月もぼんやりとかすむ。昼は霞、夜は朧と区別される。夜になって幼い子どもの手を引いて歩くことがあった。月も朧にかすみ、ほんのりとした、いい夜である。引いている子どもの手が意外にもぬくい。小さな手にあるぬくみに愛おしさを感じた。

4月16日

2010-04-16 09:21:44 | Weblog
蟇(ひき)ないて唐招提寺春いづこ        水原秋櫻子

蟇は、早春のころ、一時冬眠から覚めて産卵し、ふたたび春眠して、晩春から初夏のころ這い出して来る。「蟇」そのものは、夏の季語だが、晩春のころ出てきて鳴く蟇は、夏の魁とも、また行く春を惜しむ対象とされる。鑑真和上のおわします唐招提寺に来てみれば、蟇が鳴いて、薄く汗ばむほどである。「春いづこ」という思いが湧く。春はどこに行ってしまったのだろうか。春を惜しみながらももう夏になるのだという感懐が述べられている。唐招提寺の屋根の姿が目裏に浮かび、蟇の声が耳にはっきりと聞こえる。