我が家の壁にはヒビが入っている。
それも、遠目からはっきりわかる亀裂である。
財政難から長年放置していたのだが、
ついにこの壁を、塗り替えることになった。
一大イベントにはりきった父が、
昔から馴染みの業者に頼んでくれるという。
足場を組むことから始まり、壁を洗浄し、
ペンキを塗って乾かして……
もろもろで、作業は2週間ほどかかるという。
我が家で、こんな大規模なリフォームは初めてである。
足場を組むなんて、金持ちのやることだと思っていた。
我が家は貧しいのに、一体どうしてしまったのか。
これではプチセレブ気取りではないか。
これからどんな生活が始まるのか。
などと、初のセレブ体験にワクワクしていたのだが、
作業が始まってすぐ、そう甘いことばかりではないと気づいてしまった。
家の外側の壁を塗るということは、
職人さんがいつも壁のそばにいるということである。
つまり、家の中からは、彼らの声が丸聞こえなのだ。
もちろん窓や雨戸を締めきって作業してもらっているので、
相手の姿は見えない。
お互いどこにいるのかわからないのに、
相手の声だけが聞こえる状態になる。
これがもう、想像以上にしんどい。
さらに、普段はあまり接点のない方たちと接するので、
勝手がわからず、戸惑うことも多い。
作業が始まった日、母は職人さんたちにお菓子を差し入れた。
休憩時間に食べてもらえるようにと、
この日のために、お気に入りのせんべいを用意していたのだ。
食いしん坊の母が、
味と食べやすさを吟味して選んだ渾身のおやつである。
せんべいを渡し終わると、そのまま母はパートへ出掛けて行った。
そこで職人さんたちは、家にはもう誰もいないと思ったようだ。
父親は朝から仕事に向かい、次に母も出かけて行った。
平日の昼間だから、当然である。
だが、我が家の場合は違った。
家にはまだ私がいたのである。
そんなことなど知らない職人さんたちは、
先ほどとはうってかわってリラックスした雰囲気で話し始めた。
笑いあう声も聞こえる。和やかである。
一見無口に見えたが、
意外としゃべり好きなのだなぁとこっそり関心していると、
やがて、話題は母が差し入れたせんべいの話になった。
年配のおじさんの声が聞こえてくる。
「 せんべいか~。
……食わねぇな。
帰って、かあちゃんにあげよう 」
誰が悪いわけではないが、
私は聞きたくもない本音を唐突に聞かされることになった。
しかも内容が内容だけに、少々イラッとする。
よ~考えてみると、ムキーッとしてくる。
「人の好意を何様じゃあおもうとるんじゃ!」
と叫びたくなってくる。
どうにかぎゃふんと言わせてやろうと、
不自然な物音を立てて
「私、いるよ! 」アピールをしようかと企んだのだが、
それはそれで、弱気に襲われてできない。(←いつものことだけど・・・)
その夜、私は正直に、
せんべいが職人さんに喜ばれていないことを母に伝えた。
何も知らずに翌日も同じものを出して、
母が笑われるのはどうしても阻止したい。
「もう明日から何も出さなくて良いのではないか」と提案する。
言い方は工夫して、
「こういう仕事の人は、
様々な現場でいつも差し入れをもらっているし、
好みもあるから、必要ないんじゃないか」
と前向きな予想も述べてみる。
かなり思い切って打ち明けたつもりだったが、
母の反応は、ぐぅぅ…というものだった。( ←なんだそれ? )
次の日、母は職人さんに
「出かけてきますね。よろしくお願いします」とだけ声をかけ、家を出た。
差し入れは一旦ストップである。
この日、またしても私は家にいた。(←出かけろよ……!)
すると、職人さんたちは、さて今日も誰もいなくなったと解釈したのか、
またしてもすぐに饒舌になってきた。
そして今度は予想外の声が聞こえてきた。
「なんだ、今日は差し入れ何もないのか」
……せんべいが欲しいのか欲しくないのか、好きなのか嫌いなのか、
一体どっちなのだあぁぁぁーーー!?
あぁー!
アーオぉー!
とにかく、気まずい毎日なのである。
さらに面倒なことに、私は自分の部屋では、
出窓にぴったりくっつくようにベッドを置いているため、
寝ていると、まさに頭のすぐ斜め後ろから声が聞こえてくるのだ。
壁を一枚隔てているのだが、
まるで耳の真後ろに人が立っていて
しゃべっているような近さである。
会話の内容もはっきり聞こえる。
おそるべし、至近距離。
そのせいで、ここ最近、私は彼らの話し声で起きている。
職人さんが早く現場に到着するため、
地味に私も一緒に早起きしてしまっているのだ。
こんな生活、おかしい。
せめて、聞こえてくる会話の内容が爽やかだったらいいが、
当然そんなこともなく、(←失礼だな)
うなされながら起床する毎日なのだ。
・・・・・・つらい。
さらに、私が目を覚ました後も、
2人の職人さんは普通に会話を続ける。
私がすぐそばにいることを知らないから当然なのだが、
その日は、現場の裏事情までも聞こえてきてしまった。
職人さんたちはチーム制で動いているらしく、
彼らには我が家の他に、もうひとつ請け負っている現場があるという。
だが、そちらの作業が大幅に遅れているという。
その現場には“ヤマちゃん(仮)”なる人物が一人で行かされているようだ。
しかし、そもそも、納期までに到底終わりそうもない作業量なのだという。
「棟梁も、なんでヤマちゃんひとりであそこ行かせたんだろうね、
間に合わないよ」などと二人は作業をしながらも、心配している。
現場の人選は棟梁が行うのか、
と私もぼんやり納得していたときだ。
職人さんの携帯が鳴った。
どうやら、今話題に上っていた、
ヤマちゃんの現場に応援に行って欲しいとの依頼のようである。
「わかりました。じゃあ今から、奥さんのとこ行って、
“風が強いので”って言ってきますから」
と彼は答えている。
電話が切られてすぐ、我が家のインターホンが鳴った。
・・・・・・ん? まさか。
職人さんが母と話している。
「風が強いんで、ペンキ飛ばされちゃいますから、
今日の作業はこれでストップします。また明日来ますね」。
それから数分後、本当に彼らは我が家を引き上げて、どこかへ行ってしまった。
ブーンという車の遠ざかる音が聞こえる。
・・・・・・。
私は母のもとへ行き、聞いてしまった内容をそのまま伝えた。
呼び出しの電話が入ったこと、
ヤマちゃんなる人物の現場が遅れており、そこへ応援に向かったこと。
すると母は
「知ってる。全部聞こえてたもの」
と言った。
・・・・・・2階のみならず、
我が家のどの場所にいてもこの会話は聞こえていたようだ。
全員に手の内を読まれたうえで、他の現場に行くなんなんて……
職人さんよ、我が家も作業が遅れているんですけど。
あっけなく、我が家は見捨てられてしまった。
というか、他の現場が遅れているなら、
風が強いから、なんて小芝居はせず、
正直にそういってくれればこっちだって怒らないのに。
……いや、怒ったかもしれない
……いやいや、全然怒らない!
……うーん、怒るわ。めちゃくちゃ怒るわ!
それはそうと、
ヤマちゃんの現場が無事終わったのか、
気になるところである。
ヤマちゃんがんばれ!
……っていうか、ヤマちゃんて誰だ??
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