外国人がやっている飲食店は、
どうしておいしそうに見えるのだろう。
私の家の近所にも、インド人のカレー屋さんがある。
いや、インド人かどうか聞いたことはないが、
とにかく本場っぽい顔をしているため、“おいしそうオーラ”が見えるのだ。
すぐに食べに行きたいところだが、私は中々店に入れないでいる。
はたして彼らに日本語が通じるのか、
不安だからである。
これが都内にある“世界の料理”みたいなお店だったら、
まず店員さんは日本語が話せるといっていい。
さすが大都会、ペラペラの域である。
だが、ここは都心から離れた郊外の街。
日本語なんて通じなくても、
身振り手振りと気さくな雰囲気があれば大丈夫、
よし店をだしちゃえ!という楽観的なお店がちらほら存在するのだ。
言葉が伝わらなくても、同じ人間なんだからなんとかなるさ、
とこの手の店に臆せず入ってしまうワイルドな人もいるだろう。
だが、私はすごく気になるのだ。
まず、一人でも店員に日本人がいるかどうか、
確かめずにはいられない。
店をのぞいた時に、
店員さんの顔が全員日本人離れしていることを確認すると、
私は露骨にガッカリする。
こんな店にふらりと入ったらどうなるか。
聞きなれないカタカナのメニューを想像力を駆使して音読し、
相手に「はぁ?」と何度も聞き返されながらも、
めげずにオーバーアクションで頷いたり、
友達には決して見せない大げさな笑顔を作ったりしながら、
全身を使って、客の想いを表現しなければならない。
注文を終えた頃にはぐったりしている。
もちろん、料理が届いたからといって
まだまだ気を抜けない。
もしかしたら、
「この春巻きは1本で一皿なのですか?」
と聞かなければならないかもしれない。
カレーが辛すぎたら、
お水をください、と頼まなければならないだろう。
どれも可能性は、ゼロではないではないか。
さすがに、お水くらいは通じるだろうと
楽観的に考えたいのだが、どうしてもなれない。
だからといって、
仮にお水という日本語がスムーズに伝わったら伝わったで、
ますます警戒してしまうところが、
私がダメ人間である所以である。
何を隠そう、私はこの、カタコト外国人にありがちな
「あの言葉は通じるが、
こちらの表現になるとアウト」
という“半端に伝わる感”が、なによりも怖いのだ。
まず、本当は伝わっているのに、
わざとわからないフリ、伝わらないフリをしているのではないか、
という不安に襲われる。
そうだ、わからないふりをして、
私を動揺させ、私の無茶苦茶な言葉使いを笑っているのではないか。
さらに、何度も「え?」と聞き返してやれば、
私はますますオーバーリアクションになって、
おもしろい動きになるに違いない……
なにもかも、向こうのさじ加減ひとつなのだ。
コミュニケーションの主導権は相手にある。
外国人の方に笑われたくない。
もう完全に、考えすぎ状態に陥る。
笑われたくない… 笑われたくない…
気づけば頭をフル回転させている。
この言い回しは知っているのか、
この表現はどうか。
……緊張は加速してくる。
これならいっそ、
テキストで紹介されているようなベタベタな日本語や、
どの角度から言っても、さっぱり日本語がわかりません、
というくらいの店員さんの方が、
心おきなく大げさなジェスチャーに集中できるのではないか。
中途半端に日本語を理解できる外国人とのコミュニケーションは、
私にとって逆にハードルが高いのである。
だから、たとえお腹が鳴っていようとも、
この手のおいしそうな外国人の方の飲食店の前を通り過ぎることになる。
このようにぐずぐずと過ごしていたある日、
母がこのカレー屋さんから、カレー弁当を買ってきた。
あの外国人店員の巣窟から
サラリとbento(弁当)を買ってくるとは。
私の母はなんと勇敢なのか。
気にしないって、すばらしい。
無神経って、すばらしい。
おばちゃんって、素晴らしい。
母はだてに2週に1回、
ブローネ早染めで白髪を染めているわけではないのだ。
母が持ち返ったカレー弁当はすこぶるおいしかった。
都内のカレー屋さんよりもおいしいのではないか、
というほどのおいしさである。
自宅の近所にこれほどおいしいお店があるとは、
なんと私は幸せ者なのだろうか。
目の前がサァッと開けてくるのがわかる。
大きな海がふたつに割れ、
そこに道ができる神々しい瞬間といおうか………
・・・・・・。
それは違うのだが、とにかく、私は感動したのである。
勇敢な母に触発され、
これからは私も気さくな感じで、
あのカレー屋に飛び込もうと思う。
私の決意を伝えると、
母はこの弁当を購入する際に起きたやりとりを教えてくれた。
このカレー屋さんは、
外の壁に「カレー弁当、500円」という表示を出しているのだが、
いざ母が500円支払おうとすると、
店員のインド人女性は
無表情に「750エンデス」と告げてきたという。
驚いた母は、
でも外には500円だと書いてあるじゃない、と抗議した。
すると店員は、
「ランチタイムダケ。
イマハランチタイムジャナイ。750エン」
と答えたというのである。
通訳すると
「今はランチタイムじゃない、じゃな~い?」
というわけだ。 (← 荒い訳だな)
ちなみに外には
「ランチタイムは500円」「それ以外は750円」
という説明書きはなかった。
母は動揺したが、相手は日本人ではないし、
仕方ないということで、そのまま750円で弁当を買ってきたという。
その瞬間、これだーーー! こういうことだぞーー!
と私は叫んだ。(いや、叫んではない)
これぞ、私が恐れていた
「カタコト感が持つ恐怖」の正体である。
つまり、ランチタイムが安くなるという日本文化や言葉は知っているが、
「ランチタイムが500円」と
親切に表示をするほど文化を理解しているわけでもない。
いや本当は、「ランチタイム以外は750円」と、
はっきり伝わるような表示をしたほうが
親切だというのはわかっているのだが、それでは損なので、
「日本の文化わからない」
という姿勢をとっている可能性もある。(←私の心は歪んでいる)
もっと悪く考えると、母のように500円だと思い店に来ても、
面倒だからと、750円で買っていく方もいるだろう。
逆に、もし抗議する客がいても、相手の勘違いであると譲らなければ良い。
結局、これらのケースを考えての
「ランチタイムは500円」ではないのか…
ここまで考えたところでハッとする。
自分の被害妄想の強さに嫌気がさしてくるのだ。
私って相変わらずイヤなやつだな・・・と確認するはめになる。
そんなわけで、カタコトの外国人と接すると
私はなんだか後ろめたい。ほんとに難しい。
しかし、カレーはあまりにおいしかったので、
私は結局、このカレー屋に食事に向かうことにした。
私の決意も、おいしさには勝てない。 (←ぐずぐず言ったくせに!)
接客してくれたのは、
無表情だが親切そうなインド人の店員さんである。
彼はどこまで日本語を使いこなせるのだろうか。
私はすでにドキドキしていた。
彼はペラペラの日本語使いではなかったが、
動作をまじえながら、丁寧に対応してくれる。
水だってすぐに出してくれた。
全然イヤな想いをすることなどないではないか。
私の思い込みで外国の方を責めて申し訳ないと、
私はあらためて、自分の決めつけを責めはじめていた。
そうだ、今、目の前にいるこの人は、
話に聞いていた人とは違う人なのだ。
母がこの店で
別の店員にイヤな想いをさせられたからって、
この人もそうとは限らないではないか。
私に冷静さが戻ってくる。
彼は言葉をほとんど発しないが、
メニューを指さしながら、きちんと説明してくれる。
私がバターキチンカレーを注文すると、
ライスかナンを選べるという。
私は「ごはんをください」と言った。
すると、うまく伝わらなかったようで首をかしげている。
そうだ、「ごはん」は日本語だ、
ジャパニーズだ、
と私は自分の不親切さに気づき、言い直した。
「ライスをください」
すると、インド人店員さんは笑顔で
「はい。ナンね」 と言って去って行った。
・・・・・・・。
しばらくして、おいしそうなカレーが運ばれてきた。
大きくツヤツヤしたナンとともに。
私はナンを食べ始めた。
ナンってすごくおいしいんだな、
と、そこで新たな発見を・・・・・・って違うよ!!
私は滑舌が悪いのだ。
日本語、外国語の文句を言う以前の問題である。
うまく人とコミュニケーションできない原因は、私の滑舌ではないか!!!
きっと、こう聞こえたのだ。
ライスをください → ラースをくーさい → ルォースをさい →
ルースさい → ナンをください!!
・・・いや、んなわけあるかい!
これでどうしたら、ナンになるのだ!!
カツゼツ、カツゼツ、カツゼツ・・・
私はでかいナンをちぎりながら思った。
ムズカシーッ!!!
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