カワノヒロシ と かわのひろ

新作、旧作公開してます。画像等の無断転用は厳禁ですので、よろしくお願いします。

短編小説「パパはスミルノフ」

2014-11-13 22:29:58 | カワノヒロシの小説


     1

「ママ……」

 東京都杉○並区。高円寺、阿佐ヶ谷、梅里の辺りがかつて「馬橋」と呼ばれていた名残りをその名前に残した公園に隣接する閑静な住宅地の一軒家からその声は微かに聞こえてきた。

「ママ…ママ……」

 表札には「大橋」とある。
 小さな手入れの行き届いていない庭に面した、朝日の差し込むリビングの窓辺の床には気怠そうに身体を横たえる中型の雑種犬がいる。いつもの事なのだろうか、その声には関心がなさそうだ。

「ママ…どこ行くの……」

 ベッドに横たわり、顔には乱れたショートカットの髪がかかっていたため判別しにくかったかったが、少女の顔は苦痛にゆがんでいた。

「ママ…その男(ヒト)は誰……?」

 夢を見ているのだろうか。悲しい夢を。

「ママ…ママ……」

 少女は瞼を開け微かに潤んだその瞳を見せた。

「ママ!ママ!!ママ~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

 少女の隣り、同じベッドの中で三十代半ばの全身のみならず、つるっパゲの白人スミルノフが絶叫しながら号泣していた。
「――って!また、お前の夢か!!!」
 少女は怒りに震えながらも素早く自らの枕を掴み、スミルノフの顔面に叩き下ろした。
 若さが「その」行動を支えていた。
「だいたいなんで私のベッドにアンタが一緒に寝てんのよ!!出てけー!!!」
 スミルノフはさっきまで見ていた夢と年齢相応の寝起きの悪さとで混乱したまま欧米人らしい奥目をしばしばさせながら純白のブリーフ一枚…いや、海パン一枚の姿で少女の部屋を追い出された。

 少女の母が蒸発して継父(ままちち)スミルノフとの二人暮らしは二週間になろうとしていた――。

     2

「わんわんわわん。わんわわん」
 少女はこれといった特徴の無い容姿をこれといった特徴の無い制服に包み込んだ。
「わんわんわわん。わんわわん」
「おはよー犬山」
 足元にまとわりつく犬の犬山に声を掛けながら、少女は最悪の朝を玄関まで引きずって行った。
「ユキさん。朝飯抜きでワ、身が持ちまセーン。立ち行きまセーン」
裸にエプロン…いや、履き替えたばかりのベージュの海パンにエプロン姿のスミルノフが少女、ユキの前に立ちはだかり、その筋骨隆々の身体を支えて来たものがその食事だと容易に推測出来るような高タンパク低脂肪、簡単に言うとプロテインメインの食卓に着くよう促していた。
 軽い吐き気と強い苛立ちを憶えつつ、ユキは無言でスルーした。
「ユキさん。朝飯抜きでワ、身が持ちまセーン。立ち行きまセーン」
 スミルノフは自分の日本語が聞き取りにくかったと思ったのかなぜか「セーン」の部分を強調するように同じセリフを言った。つまりこの男に態度で解らすという事は無駄な事だった。
「食欲ないから…。それにご飯なんか食べてたら学校に遅刻しちゃうし…」
 仕方なくユキは言葉にした。
「ボンボンバカボン!バカボンボーン!ニッポンジンハ!バカボンボーン!!!」
 スミルノフは欧米人特有の自分たちの価値観を一方的に押し付ける態度で価値観を押し付けて来た。
「なぜニッポンジンはそんなに時間に追われるのDeath Car!ニッポンジンは全員AKB4○8 Death Car!AKB4○8気取りDeath Car!!ニッポンジンお菓子Death!!!」
 ユキは高校卒業後、短大に進学し数年のOL生活の後、職場恋愛し26歳で結婚。一姫二太郎をもうけて老後はたまに来る孫たちの相手をしながら暮らしたい。その間ずっと杉○並区を出る事無く。そんなささやかな夢を持つ小市民だったし、世の中の事なんかどうでも良かった。
 でも…。いや、だからキレた。
「“違う”って言うならわかんのよ…。でも“おかしい”って何よ…」
 スミルノフが僅かに引いた。スミルノフの価値観には欧米人であるという支えしかないからかのように見えた。
 ユキは相変わらず足元に無駄に絡みついていた犬の犬山をつま先で「ちょいちょい」やりながら、この二週間の鬱屈した想いをを吐き出すかのように叫んだ。
「外国人(おまえら)が常に正しくて、日本人が常に間違ってんのかー!だったら“正しさ”ってなんだ!言ってみろ!ほら言ってみろーーーー!!!」


「私の祖国(くに)ではもう何十年も内戦が続いてマス」
「えっ…?ここは……?」
 辺りは夕暮れだった――。
 ボーンボーン
 スミルノフとユキは膝を抱え並んで中空に浮かんでいた。いや、何かの上で跳ねているようだった。

「私も幼い頃には日々の食事にも事欠く蟻様」
「あっ…東京ドーム」

 ボーンボーン
 そう、そこは東京ドームのバルーン状の屋根の上だった。
 スミルノフはこういう事が出来た。

「だからつい食べ物の事にNARUTO…ゴメンナサイ……」

 ボーンボーン

「そうだったの…私の方こそごめんなさい…」

「アメリカンジョーク」
 スミルノフは無表情でピースサインをユキに向けた。
「えっ…?」

「ボヘミアンジョーク」
 今度はダブルピースだった。
「くっ…この……」

ボーンボーンボーン

     3

「おはよー。ユキちゃん」
 都立月下(つきした)高校の正門をくぐった所でユキは声を掛けられた。
 地味な黒髪の地味な顔の同級生の伊藤アミだった。
 アミはリベラルな人だった。
 アメリカではリベラルは役立たずと同義だと「CIAよりもっと凄い所に勤めている」と語っていた二番目のアメリカ人の父が言っていた。それが本当かユキにはわからなかったが少なくともアミは役立たずだった。そしてユキはアミが好きだった。なぜならユキも役立たずだからだ。
「なんか元気ないね」
 アミが役に立たない声を掛けてきた。
「……」
 ユキは役に立たなげにうつむいた。
「そりゃー元気ないわよ」
 ユキが声のする方を振り向くとデブが二人いた。

 出た!スリーサイズ100!100!100!の百貫デブ双子シスターズ!
 それにしても百貫って何キロ?
 えっ?375キロ!?
 いや…さすがにまだそこまでは……。
 まさか…。
 イヤイヤ…だってコレでも本人たちは自分たちの事イケてるって思ってるんだよ……。
 人の噂には尾ヒレが付くっていうし……。
 ハッ!
 「尾」「ヒレ」が付いたら400キロオーバー!?

「な、何、心の声(モノローグ)のていで思いっ切り声に出してんのよ!!」
「そう言う事は胸の中に仕舞っとくもんでしょー!!」
 割りとハキハキした発声でソノくだりを呟いていたユキに向かって双子の姉妹、小野マリエ、タマエがもっともな抗議をした。
 ただ、ユキはそういう娘(こ)でもあったのだ。
「だいたい私たちの個性が理解出来ないなんて!」
「これだから凡人は嫌なのよ!」
 小野姉妹が形勢を入れ替えようと欠点を個性と言い換えた。
「みじめで。あわれで。かわいそう」
 ユキはこの年代の女子にありがちな残虐性でこれを迎え撃った。
「みじめで。あわれで。かわいそう」
 アミも追随した。この際はリベラルは関係ないらしい。それは「正義」と同様「都合」でしか無いからだろう。
「みじめで。あわれで。かわいそう」
 その場に居合わせた登校中の全生徒も追随した。

「ところで、アンタまだスミルノフと一緒に住んでるんだって?」
 一年二組の教室でグフフッと含み笑いを交えながら小野マリエが言った。この短時間で気持ちを立て直せる所はサッカー日本代表にも見習って欲しい所だ。
「だって…ママと正式に離婚した訳じゃないし……」
 ユキはうつむいた。強気に出たり弱気になったり、キャラクターのブレと指摘されても反論出来ないほどの振れ幅もこの年代の女子特有のものかも知れなかった。
「継父とはいえアカの他人と二人っきりで平気な訳?」
 小野タマエが言った。
「それも“あの”スミルノフと」
 小野マリエがもう一度畳み込むように言った。

     4

 杉○並区大宮、和田堀公園プールのほど近くにある、地下一階地上五階建ての古びた簡素なビルの最上階の一室「富岡の間」に黄土色の海パン姿のスミルノフがいた。
 スミルノフは立位の状態で前後に足を開き、腰を落とし、同じ体勢で向かい合う二十代半ば、濃紺の海パンのみを身に着けた痩身の日本人とその股間をこすり合わせていた。
 スリスリスリ…スリスリスリスリスリ……。
 華美な装飾の無い十二畳の畳敷きの日本間には二人の男の他に長机の前で食事の時間を除いてすでに十時間、正座を崩す事無く何かの記録を取る少年と胡坐をかき、股間をこすり合わせる二人の男を物憂げに眺める中年男性がいた。
 スリスリスリスリ…スリ……スリスリスリ………。
「マケマシタ……」
 スミルノフのその身体からは似つかわしくない、弱くか細い声が部屋に零れ落ちた。
「…まで。中押しで豊島六段の勝ちでございます」
 長机の前で記録を取っていた少年が顔を上げる事無く呟いた。どうやらスミルノフの負けらしかった。
 階下にある「検討室」ではプロ、プロの卵を問わず、元々辛辣な人間たちが本人の耳にその声が届かないという安心感も手伝って直截な言葉を投げつけていた。
「どうしちゃったの?最近」
「いやあ、アレが実力だろ」
「所詮荷が重かったんだよガイジンじゃ」

     5

 スミルノフ五段はプロ海パン士だった――。

 プロ海パン――。
 世界でも類例を見ないこの競技は日本で発祥、独特の進化を遂げ現在男性のみ159名のプロ海パン士が存在する。
 その競技方法は海パン姿の人間が二人で向き合い互いの股間をただひたすら擦りつけ合うというシンプルなものだったが、それを愛好する者たちはそこに宇宙を見、その宇宙を見る事の出来ない者たちを蔑んで、その競技性ゆえに非難する人たちを蔑んだ。
 さらにその競技性ゆえに絶無ではないが、極端に少ない女性の競技人口が女性の社会進出を拒んでいるという勢力と極端に少ないが僅かに存在する女性たちの競技が女性を辱しめているとする勢力が「女性の人権」という一事をもって結び付き、国際的な人権委員会からの非難が相次いでいるという事態も引き起こしていた。
 プロ海パンの歴史は浅い。
 プロの組織が出来たのは平成元年だった。しかし、人というのは歴史が無いと歴史を欲しがるものらしく、また、ある種の人間にとってはソレこそが重要であるらしい。その為タイトル戦を後援するなど普段から密接な関係を結ぶメディアと結託して歴史を捏造した。今現在「日本プロ海パン連盟」のホームページ上では競技としての発祥を日本で海水浴が広まった江戸末期とし、連盟の設立時期も出どころ不明の新たな文書の発見を口実に前倒しされ続けている。

 スミルノフ五段は史上初の外国人プロ海パン士であり、唯一の存在であった。

     6

 ○豊島六段 中押し スミルノフ五段×

 ユキは歯ブラシを咥えたまま、新たな侵略者を撃退したエッグゲッターの活躍を大きく伝える朝刊の社会面の下に小さく記された、プロ海パンの順位戦C級一組の結果に目を落としていた。泥酔したスミルノフはついさっき帰宅し、前日使ったであろう黄土色の海パンを洗濯機の中に投げ入れ、自分のベッドに潜り込んでいた。
「わんわんわわん。わんわわん」
 犬の犬山が何かを訴えるように急に吠えだした。
「どうしたの?犬山」
 開け放たれたサッシから手入れの行き届かない庭に向かって吠える犬山にユキは言った。そして、犬山の視線の先を追うとそこには薄いピンクの水玉模様の枕を抱えた、緩めのウェーブのかかったロングヘアーを揺らした四十がらみの女のとてもわかり易い抜き足差し足をして立ち去ろうとする後ろ姿が見えた。
「ママッ!!」
 ユキの母、大橋スミエだった。
「枕(これ)が無いとママ眠れなくって。じゃっ!」
 スミエは「それなら仕方ない」と許してくれる事もあり得るんじゃないか的な態度でその場を立ち去ろうとした。
「ちょ、ちょっとスミルノフの事どうすんのよ!」
 ユキは…というか世の中はそこまで甘くなかった。
「離婚するならちゃんとしてよ!」
 ユキはスミエの肩を掴み、首がガックンガックンなるほど揺さぶった。
 スミエは「揺さぶりっこ症候群」って大人でもなるのかしらと頭の隅で思いながら、こう言った。
「だって~。タイトルでも獲ったら勿体ないじゃない?」
「それはホントDeath Carママ…!いや、スミエさん!!」
 まだ眠りに落ちていなかったのか、狭い日本の狭い家ゆえに気付いたのか、かつてプロレスラーのジャンボ鶴田が履いていたタイツのデザインに酷似した星を背面にあしらった海パンに履き替えていたスミルノフが叫んだ。
「タイトルを獲ったら戻って来てくれるんDeathネッ!?必ずっ?必ずっ!」
「しまった~!!」
 スミエは枕を小脇に抱えたまま垂直に十数メートル飛び上がり、近隣の住宅街の屋根を猿のように飛び跳ねて姿を消した。どうやら今付き合っている男は忍者のようだった。
「……」
 ユキはスミルノフの後ろ姿を見つめていた。
 そしてわかった事がひとつあった。
 なぜ、今回に限ってスミルノフを家に残し自分が出て行ったのか。
「タイトル…勿体ない……」
 呟いたユキの口の中いっぱいに苦々しさが広がった。

     7

 大橋スミエは暗躍してる男が好きだった。
 というより、そういう男しか愛せなかった。
 ユキの実の父親は日本人だったが暗躍していた…ようだ。「ようだ」というのはユキだけでなくスミエすらその仕事の内容については知らされていなかったからだ。しかし、二十代前半の若さで東京二十三区内に一戸建ての家を一括で購入出来たという一事をもってしてもその暗躍ぶりは充分伺えた。さらにユキが六歳の時、父親が謎の死を遂げたあと、多数の謎の男たちが突如として現われ、死後の手続きの一切合財を済ませて行った挙句、口に指を一本合わせて「シーッ」と言った事がそれを決定づけていた。
 以来、大橋スミエは暗躍してる男しか愛せなくなった。
 二番目の夫は「CIAよりもっと凄い所」に勤めていたアメリカ人だったし、三番目の夫は「フランス外人部隊的な所」に所属していたというオーストラリア人だった。
 四番目の夫はスミルノフ。
 「日本プロ海パン連盟」の棋士紹介のページによると出身国はソ連崩壊後に分離独立したある小国となっている。旧ソ連という響きとスミルノフ自身の容姿に「暗躍感」を見出したスミエは結婚したが、家を出る際ユキに一言「また間違えた」と言っていた。

     8

 プロ海パンの世界には七つのタイトルがある。
 「名人」「恥骨」「中指」「乳頭」「耳たぶ」「桃尻菊華」「舌なめずり」
 スミルノフは「あの日」を境に連勝街道を驀進していた。
 そして「乳頭」への挑戦を決め、五番勝負は二勝二敗で最終局を迎えようとしていた。

「ねえユキ。スミルノフ今日タイトル戦でしょ?」
 学校帰りユキは百貫デブの姉、小野マリエに声を掛けられた。
「う…うん……」
 ユキは触れられたく無かった話題に触れられて「触れてくんなよ」的な雰囲気を出してみた。
「見に行かない?家族ならタダでしょ?」
 もちろん小野マリエには通じなかった。
「見に行きたい人ー!」
 もちろん小野タマエにも通じなかった。
「アミちゃんっ!?」
 驚いたのは伊藤アミまで「ハーイ」と手を挙げていた事だった。
「一度見てみたかったの…プロ海パン……」
「アミちゃん……そんなトコでリベラる………」
 ユキはうつむいてアミのリベラル的な好奇心を揶揄するかのように小さく呟いたが、それが的確な表現かどうかはユキ自身にも良く解らなかった。

 押し切られる形で会場に向かう東西線の車中アミが声を掛けた。
「ユキちゃん」
「うん?」
「ユキちゃんはスミルノフが勝った方がいいの?負けた方がいいの?」
「えっ………?」
 ユキは自分の中にその質問に対する答えが無かった事に驚いてもう一度「えっ?」と言葉を漏らした。

     9

 「第18期プロ海パン乳頭戦五番勝負」の対局会場は目白にある高級ホテルのボールルームを使って行われていた。乳頭戦は七大タイトル戦の中で唯一の全局公開対局で行われるためこのような場所が選ばれたようだ。
 プロ海パンはその黎明期には様々な試行錯誤…というより錯誤が行なわれ、連盟の対局室も現在のような和室ではなく、ハワイアンセンターと区別がつかないようなヤシの木を植えてみたり、人工の砂浜を再現してみたりというような事が行なわれて来た。しかし、近年日本人らしく「道」に逃げ込むのが安全と考え「海パン道」を標榜し、和とか格式と言うものを重視し、公開対局場でも畳敷きの舞台の上での対局が一般的になって来ていた。

 対局場のロビーは平日にもかかわらず、すでに数百人のファンで埋め尽くされていた。
「プロ海パンのファンてこんなにいるんだ……」
 ユキだけでなく、伊藤アミ、小野マリエ、タマエも驚いていた。
「海パンの競技人口は数百万人。潜在的愛好者は数千万人と言われてるのよ」
 ユキが声のする方に振り向くとそこには全身がうねるような無駄毛で覆われ、大きく張り出した腹の下に小さく隠れた漆黒の海パン。その三角形を強調するかのようにはみ出した陰毛がトグロを捲くチビでデブのハゲが居た。

 ロビーに居た人間全てがざわめいた。
「天野名人だぜ……」
「すげーよ。やっぱすげーよ。あの無駄毛の生え方……」

 天野義雄――。
 かつて七大タイトル全冠制覇を成し遂げた実績を持ち、現在「日本プロ海パン連盟」の会長職という激務をこなしながらも「名人」「恥骨」「桃尻菊華」の三冠を保持する文字通りのプロ海パン界の第一人者。そのオネエ風の喋りはプロ海パンの黎明期、男同志が股間をこすり合うという競技性を理解出来ないステレオタイプな人たちへの強烈なアンチテーゼとも単なるおちょくりとも言われている一方、その事で「本物」の方たちの顰蹙を買い、わりと困った立場に立たされてもいた。

 こ、このハゲでデブのチビが名人……?
 嘘……。
 だって、ここからでもちょっと体臭が………。
 この臭いは……ドブ!
 そうドブ!
 だから名人になれたのかしら…?
 ドブ名人!くすくす!
 ドブ名人!くすくすくす!

「ユキさん……。そーゆーのは声に出しちゃダメ!」
 ユキはまた声に出していた。そして名人からもっともな注意を受けた。しかし、その注意はユキには届いていそうになかった。
「えっ…?私の名前をどうして……?」
「スミルノフから噂は聞いているわ」
「えっ?スミルノフから……?」

     10

「あーらスミルノフ。最近どうしたの?調子いいじゃない」
 連盟の更衣室でスカイブルーの海パンからエンジ色の海パンに履き替えていたスミルノフに天野名人が声を掛けた。
「ハイ。私はスミエさんが居なくなって成績が落ちたとホモってました」
 スミルノフは「息子」の位置を定位置に置いた。
「でも、それは逆。ふがいない私を見てスミエさん出て行ったのDeath!…園子と……その事気付きました」
 スミルノフはわりと勝手な結論に達していた。
「そして、もう一つ気付いたのDeath!」
 天野名人もなぜか自分の「息子」の位置を直した。
「私以上に寂しい想いをしている人がいる事に……」
 スミルノフも負けずに「息子」の位置をもう一度直した。
「私がユキ(かのじょ)を守らNEVER!!」

     11

 ボールルームの前方には十二畳の畳敷きの舞台がしつらえられ、これから対局が行なわれる中央部分を開け奥に長机が置かれている。長机の後方には記録係の少年と観戦記を担当する私小説家を従えるようにこの対局の正立会人を務める升田金五郎九段が往時を偲ばせる藍色のツーショルダーの海パンを来て両対局者の登場を待っていた。
 この一局を解説する天野名人は舞台横に設置された大型のスクリーンの前ですでにスタンバイしている。聞き手を務めるのは、かつてプロレス中継で一世を風靡したフリーアナウンサーだった。
 ボールルームに特設で作られた800席の客席はすでに埋め尽くされ、立ち見の人間も出始めていた。客席中央にアミ、マリエ、タマエと腰を下ろしていたユキは思いもしなかった会場の規模、緊張感に胸の鼓動を抑える事が出来ず「このままだと左胸だけおっきくなっちゃいそう……」という訳のわからない不安に陥っていた。

「それでは、下手より挑戦者スミルノフ五段の入場です!!」
 聞き手と共に司会の役も担っていたフリーアナウンサーがかつてのキャリアを生かし絶叫した。
 すでに暗くなっていた場内には大音量の入場曲が流れた。曲は葛城ユ○キの「ボヘミアン」スペクタクルな照明が照らす中、スミルノフが入場して来た。
 プロ海パンは「海パン道」の確立を急ぎながらも歴史が浅く、まだいろいろとブレブレだった。それでもつい数年前まで水着ギャルを従えながらなぜかバスローブ姿で入場していた事を考えれば長足の進歩と言えたかもしれない。
「続きまして!上手より関根乳頭の入場です!!」
 こちらの入場曲は乃木坂4○6の「夏のFree&Easy」だった。

 入場曲がフェードアウトし照明が元に戻ると会場から驚きの声が上がった。
 スミルノフの海パンがシンプルな黒であったのに対して、関根乳頭のソレが中央にユリを大きくあしらった花柄だったのだ。
「おい…。この大一番で花柄だぜ……」
「ガイジン相手にただ勝つだけじゃ……」
「ハンデ付けていい勝負って事……?」
 ユキには花柄海パンそのものの意味は全くわからなかったが、場内のざわめきがスミルノフを侮辱している事だけはわかった。そして、なぜか自分まで侮辱された気になり思わず「ムッ」と口に出してムッとした。

 舞台上ではスミルノフと関根乳頭が互いの左乳首を右手で「ちょいちょい」していた。本局が最終局である為、改めて先手後手を決め直しているところだった。
「挑戦者のスミルノフ五段が先手に決まったようですね」
 フリーアナウンサーがそう言ったので、ユキはスミルノフが先手に決まった事を知った。

     12

「カタセエノシマ!」
 正立会人の升田九段の発声で対局が開始された。
 スミルノフと関根乳頭は互いに礼をし、改めて中央に進み出る。両足を前後に開き、腰を落とし、両手を腰の位置に固定した二人は股間を密着させた。
 先手番のスミルノフから動きが始まり、関根乳頭が追随する。
 スリスリスリスリ…スリスリ……スリスリスリスリスリ………。

「本日の解説は天野名人です。それでは、名人よろしくお願いします」
「よろしく」
 解説が始まった。
「まずは戦型が注目されますが、挑戦者は海パンの色と同様にオーソドックスに「カヤマユウゾウ」で来ましたが……。乳頭は…これは「シティーホテルの屋内プール」……ですか?」
 フリーアナウンサーが聞いた。
「そう、バブルの末期…プロ海パンの黎明期に流行った戦型ね」
 天野名人が答えた。

「わかる……?」
 アミが聞いた。
「ぜんぜん」
 ユキが答えた。

 スリスリスリ…スリスリスリスリスリスリスリスリスリ……。
 わずかにスミルノフと関根乳頭の腰の回転が上がっているように見えた。
「しかし、先手の対策が進んで近年あまり見なくなりましたよね。花柄海パン同様、乳頭の余裕という事でしょうか?」
 会場のファンといい、近年あまり聞かなくなった差別的な物言いをフリーとはいえアナウンサーという立場の人間がなんの躊躇もなく言う姿はプロ海パンという閉ざされた日本文化ならではの事なのだろうか?国語の成績が「2」の出来の悪いユキがソレに対する想いを言葉にして認識出来ないでいると、天野名人が言った。
「関根乳頭はそんな男じゃないわよ」
 その言葉を合図にするかのように関根乳頭が変化した――!

     13

 さっきまで互いに円を描くように股間をこすり合わせていた二人は関根乳頭の変化によってその動きを前後に変えていた。それも激しく。
 ズドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドッ!!!!!
 本来なら人間の動きからそんな音が聞こえてくる訳もなかったが、ユキの耳には確かにそう聞こえた。いや、正確に言えばその音さえも会場を埋め尽くすファンの歓声がかき消していた。
「め、名人これは……!?」
「新手ですね!あえて言うな「なな子中三の夏」いや……「中二」か……とにかく研究手順でしょう……!」

「グエッ…グエッ……」
 場内の大歓声の中、スミルノフは苦しげに呻き声を上げていた。

「いきなり未知の領域、まさに深海へと引き摺り込まれた挑戦者!必死の受け…!しかし、これでは自慢のその身体能力も生きません!その差は開く一方です!!」
 聞き手という立場もわきまえず、かつての栄光にすがり付くような名調子でフリーアナウンサーは謳い上げる。
 しかし、すでにその言葉すらスミルノフの耳には届いていないようだった――。

     14

 ランランララ ランランラン
 ランランラララ~
 スミルノフの脳裏に聞き覚えのあるメロディーが流れていた。

 幼い日――。草原で一人、日本の海パン専門誌「プロ海パンマガジン」を読んでいた。

 ラランランララランランラン
 ララララランランラ~

「ととさま!かかさま!」
 スミルノフの背後にいつの間にか父と母が立っていた。
「男色(そっち)か……。男色(そっち)なのか………」
 父と母、そして無数の手がスミルノフに迫ってくる。スミルノフは逃げた。

 ランランランランラララララ~
 ランランランランラララララ~

「なんにもいない!なんにもいないったら!」
 スミルノフは大木の前で叫んだ。
 しかし、その足元から体液でびっちゃびちゃの生き物が這い出して来た。
「でてきちゃだめ!!」

 ランランランランラララ~ラララ~

「天野名人です」
「やはり憑りつかれていたか……」
「渡しなさいスミルノフ」
「いやっ!なんにもわるいことしてない!」
 スミルノフはびっちゃびちゃの天野名人を抱きかかえ、大人達に背を向けた。

 ランランララ ランランラン
 ランランラララ~

 びちびちびちびちっ!
「ああーーーーーーーーーーーーーっ!!!」
 天野名人がその体液をまき散らしながら大人たちの手に捕まった。
「おねがーい!天野名人を殺さないでー!おねがーい!おねがい……」
 連れ去られる天野名人をただ見送る事しか出来ず、スミルノフは草原に突っ伏して泣いた。

 ランランランララ ランランラン
 ラララララララ~

 そのメロディーは「風の谷のナ○ウシカ」の挿入歌だった――。

     15

「あ~あ…。つまんねえの」
 ユキの席の後方でパンクロックとプロ海パンが趣味だと言わんばかりの風貌の男が大きく伸びをしてその不満をあからさまに吐き出した。それをきっかけにあまりにも早く形勢に大差が付いてしまった事に不満を持ったファンが次々と立ち上がり、出口に足を向けた。
「楽しみにしてたのに……」
「所詮無理なんだよガイジンじゃ」
「どーする?ラーメンでも食ってく?」
「明日、雨だってさ」
「そういえばサッカーワールドカップの決勝、日本勝ったかなあ?」

 小野マリエ、タマエの姉妹もさすがに居心地が悪そうだった。何がさすがだかはわからなかったが…。
 伊藤アミは他人の不幸を我が事のように感じる事を得意技としていたが、一人うつむき、こぶしを握り、会場の声に耐えているユキに声を掛けられるほどの経験を今はまだ持ち合わせていない事を悟り、将来こんな事すら解決出来るようなNPO法人を作りたいなあと漠然と思っていた。
 大橋ユキは………立ち上がった。

     16

「スミルノフ!しっかりしなさい!!」

 声を掛けたのはユキ……ではなく会場の最後列で立ち上がった大橋スミエだった。
「ママ!?」
「スミエさん!!」
 スミルノフもジ○ブリ映画の夢から覚めたかのようにスミエの方に振り返った。
「スミルノフ!負けたら家に戻ってあげないわよ!」
 会場がどっと沸いた。
「なんだよ。スミルノフ、かあちゃんに逃げられてたのかよ」
「がんばれ~」
 拍手と嘲笑が会場を包む中、人知れずスミルノフの肛門が「きゅっ」と音を立てた。
「ヨシッ!!」

 スミルノフ、そして関根乳頭の腰の動きは先程までの激しい前後への動きから再び円を描くような動きへと変わった。しかしそれは序盤のような穏やかなものではなく、比喩という言葉ではくくれない、周囲の物全てをのみ込むトルネード!まさにトルネードのような動きだった。
「あ、天野名人!挑戦者が激しく巻き返しに出ましたね!まさか、ここから大逆転……!?この大差を逆転出来ますか………!?」
 そうはいっても取り戻す事の出来ない大差が付いていると感じていたフリーアナウンサーがややテクニカルに場の空気を温め直すような問い掛けをした。それに対して天野名人から思いもよらない指摘がなされた。
「関根乳頭の股間をご覧なさい」
 見ると海パンの中央のユリの花がくっきりと3D映像のようにその花を咲かせていた。
「あ、ああ~っ!かすかに勃起(た)ってるっ!!」
フリーアナウンサーが喋りの基礎を全て忘れてしまったかのように素っ頓狂な声を上げた。
「もちろん。プロ海パンでは勃起しようが、射精しようが反則ではありませんが無作法とされています」
 天野名人が冷静に解説を続ける。
「……と、という事は関根乳頭がすでにそこまで追い込まれているという事ですか……!?」
 フリーアナウンサーの動揺はイコール会場の興奮だった。突如として先の読めない展開に放り込まれたファンは帰りかけた足を止め、場内は興奮のるつぼと化した。
 その中でユキは祈った。自分でもなぜだかわからないがスミルノフの勝利を。ただ、スミルノフの勝利だけを。

     17

 高円寺駅から続く商店街、北中通り商店街を抜けやや暗い馬橋の名の付いた小学校へ続く道をユキとスミルノフは並んで歩いた。
「残念だったね……」
 対局場から続いた沈黙を破ったのはユキだった。
「ゴメンナサイ……。せっかく親子三人で暮らせるチャンスだったのに……」
「また次、頑張ればいいよ」
「ゴメンナサイ……」
「……」

 自宅が見えて来た時、ユキが何かに気付いた。ずっとうつむいて歩いていたスミルノフはその気配に気づき顔を上げた。
「家の明かりが点いてる……」
 ユキとスミルノフは顔を見合わせた。

「スミエさん!!」
「ママ!戻って来てくれたのね!!」
 家のリビングには優しげな笑みを浮かべたスミエが居た。
「ううん。ママこれがないと寂しくって」
 スミエは胸に抱いたパンダのぬいぐるみに頬ずりをした。
「スミエさーん!!」
 スミルノフは絶望したが、ユキは母の行動に別の匂いを感じていた。
「ママ……そのぬいぐるみ…実印の隠し場所……だよね」
「うっ……!!」
 図星を突かれたスミエは顔の前で人差し指を立てると
「ふ、二人には迷惑かけないから……多分……!!」と言い残して姿を消した。まだ、忍者との関係は続いているようだった。
「スミエさーん!スミエさーん!!」
 ただ、虚しく叫ぶスミルノフの哀れな背中を見ながら、大橋ユキはスミルノフとの二人暮らしがまだまだ続く事を覚悟していた。





後記


「パパはスミルノフ」は過去に二度漫画として描いたものを小説化したものです。
一度目は「新妻トモちゃん」と「バッティングセンター職人」の間ですから1998年頃です。
わりと編集者の評判も良かったのですが残念ながら雑誌掲載には至りませんでした。
ただこれを描いた事で漫画の作り方が大きく変わり
ずっと上手く形にする事の出来なかった「バッテイングセンター職人」を
曲がりなりにも完成させられたというだけでも、自分にとっては大きな意味を持つ作品でした。
二度目に描いたのは数年前。
一度目に描いた時にあったゲスい下ネタや大量にあった固有名詞を使った笑いを減らして描き
今回の小説とほぼ近い形になっています。

このネタは街中を自転車で走っていたら
ある大きな森に囲まれた家…なのか施設…なのか、
木造の建物の中から海パン姿の男たちがぞろぞろと出て来るのを見た時に思い付きました。
それを当時好きだったプロの将棋界をベースにし、架空の競技をでっち上げました。

今回、漫画に描いたのが古かったせいもあって
「乳首コントローラー」以上に文字にするのに苦労しました。
というか、伝わっていない部分も多々あると思います。
ただ、そこは私自身の文章力の無さ、作品自体の完成度の低さに免じて
ご容赦いただければと思います。


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