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フライフィッシャーの独り言

今では少なくなったことと思うが 他人の家に住まわせてもらい 食事などの世話に預かっている人のこと 家族同然に扱われていても

親族ではなく 賃料を払っていないため下宿人でもない 家の仕事を手伝っている場合もあるが 正規の住み込み従業員や使用人とも

違う 居候とは手紙などの宛名に 〇〇〇〇方 いてそうろう 漢字で書くと〇〇〇〇方居候となって いてそうろうが いそうろうとなった

なんで居候の話かちゅ~と 貧実十二月十四日は赤穂浪士四十七士の討ち入りの日だから その四十七士の中の間新六の話

間新六は幼くして百五十石で船奉行の里村家の養子となる ぢゃが養父との折り合いが悪く 刃傷事件勃発当時 浪人となり姉の嫁ぎ先

の江戸の秋元但馬守家臣中堂又助宅で居候をしていた

元禄14年(1701年)3月14日 藩主浅野内匠頭が 殿中で吉良上野介に刃傷に及んだことで即日切腹 更に赤穂藩はお取り潰し

となった 新六は仇討ちの義盟に父と兄が加わっていることを知り 大石内蔵助に帰参と義盟への参加を懇願したが断られたため

堀部安兵衛や奥田重盛らを通じて 重ねて願い出た結果許された その後新六は江戸へ下った父と兄と共に 新麹町四丁目大屋七郎右衛門店

に潜伏 杣荘新六郎(そまのそう しんろくろう)と名乗った

討ち入り後 記録では

間新六は肌を不脱前に三宝を載 脇差をとり 腹に突立候なり 御目付衆の見及も腹につき立てたると見給ふ故に 御小人目付を以て

見せられ候所に もはや桶に入候を取出し見候へば 腹に突立 六七寸程引まはし候也 とある

姉婿の中堂又助から新六の遺骸を引き取りたいとの申し出があり 引き取られ筑地本願寺境内に葬られる(現中央区筑地三丁目)従って

泉岳寺には彼の遺骸だけがない

このことを残念に思った泉岳寺の住職酬山和尚は 毛利家で切腹した十人の列に土饅頭をつくり法号を付した 遺髪のみで後世に

分骨されたという

今日はレンタルDVDで赤穂浪士の討ち入りの映画を借りて見ようと思うちょります

 

 

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