ちょっと空いてしまった、、、
今年になって初めて行ったのに、
遊就館に2回も行って来てしまった。
遊就館の「遊就」とは、高潔な人物に交わり学ぶという意味だと、
パンフレットに記載されていた。
これは、知らなかったなぁ~
実は、感じ方がまだ、変わっている最中だ。
日教組の力が強い学校であったこともあり
独自に調べないと、バランスが悪い感じで育った。
勉強家でもないし、常識もないから、知らない事も多い。
今さらに、知りたい事だらけだ。
記録を紐解く事と、何処からか落ちて来る何かが
薄皮の様に、皮膚を形成していくような感じでしか
自分自身の解答が生まれない感じだ。
被覆省跡に建った東京都慰霊堂で見付けた記述
戦後GHQが、被災状態の写真の没収があり
フィルムを庭に埋めて隠したのだと……
確かに余りに写真が少ない事の要因でもあるのだろう。
広島の原爆後の資料も米軍側の物だらけだ。
これは大森地区だと書いてあった。
敗戦と呼ばず、終戦と呼び、
戦後処理する部署を設けなかった陸軍が割りを食う。
情報管理の大切さを身に付けられなかった愚かさ、、、など、、
戦後処理として東京裁判を受け入れることはしかたがないが
A級戦犯の合祀をとやかく云う事より
「靖国神社」の成り立ちから、理解し難い。
戦後、解体出来なかった事自体、問題を残し
しかも、、、
1974年(S49年)まで自民党が国家管理を目指していたと云う。
整合性がないとしか思えない。
何故、国立の戦争資料館を作らないのかも疑問だが
戦争遺族の方からだからこそ集まった資料とも云える。
神社境内に資料館があることの方がおかしいと思ったが
他に作らない事に要因もある。
今さら、戦争資料館を造る勇気などないに違いない。
そもそも、西南戦争の華族からの拠金で、
病院義援金の残金で建設されたと記載があった。
1910年(M43)明治天皇の勅令で
武器の沿革、軍事上の参考を目的で収集した物を引き継いだのだ。
「軍事宝物館」で、現在も博物館適用外なのである。
一宗教法人である靖国神社の軍事宝物館なのである。
国立の物ではない記載もされていない。
軍旗や自衛隊グッズを売ることも違和感があるが、
遊就館の運営も宗教法人としての靖国神社の財源の一つであろう。
関与出来ない事と、考えれば、
政治家の公人としての玉串料は問題だと思えて来た。
有りと有らゆる処に、曖昧さを残し、
戦争責任を放棄した天皇家など、、
あいまいだらけだ。
あまりにひどかった軍国主義からの開放感だけで
アメリカの策略も嗅ぎとれない
エセ・リベラルになっていったのかもしれない。
私自身の論理的構築も再考しなければならない。
8月15日が終戦記念日である事や、
原爆を落としたのは、アメリカだと云う事を
「知らない~」って街頭インタビューで答えてる
若者を見てから、考えてしまった。
でも、この答えも途中だ。
自分なりの答えを見付けるのには、時間が掛かる。
疑問符の答えを見付けそうになると、
また、次の疑問符が倍ぐらい浮かんで来て
限りがない。
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虎の威を借る狐* になるな。 狐の根性が汚い。
自国のためには、自らの血を流せ。外国人の血を買って喜ぶな。
力は正義である。(Might is right).
もしも、自分に正義が必要であるならば、自分自身の力を示すこともまた必要なことである。
仏法の守護神は、仁王である。国家の守護神は、自国の軍隊である。
第七艦隊は、’友愛の海’ の守護神となるのか。
守護神を置かずして、法を説く者はむなしい。得意な歌詠みも、ごまめの歯ぎしりとなろう。
>親戚のじいちゃんはガ島で地獄を見てきた。
>「あれは決して国のために尊い命を落とす姿じゃ無かった」という言葉を忘れない。
自分の死に場所を探す兵士ばかりでは、戦に勝てない。戦場に屍をさらせば、敵の戦果の山ができる。
我が国の指導者は、犬死を何と言って褒めたたえようとするのか。何と言って畏敬の念を示すのか。
我が国では、話の筋があって、人が序列を作るのではない。序列があって、筋がない。
目先の問題に専念する兵卒は優秀、参謀は愚鈍。お上の理不尽に下々は無抵抗である。
耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで、南の島に雪が降る。
序列メンタリィティを日本語脳から除去することは難しい。
階称 (言葉づかい) は、日本人のリーズン (理性・理由・適当) をむしばむアヘンのような役割を果たしている。
現在の地球は、英米の世の中である。各国には、リーズナブルな (理性ある・理由になる・適当な) 主張が求められている。
理性判断 (rational judgment) のできない国民は、世界の中にあっても、世界に属さない。
だから、日本人は国際社会においても、指導性を発揮することは難しい。
*(他人の権勢をかさに着ていばる小人のたとえ。)
よく考えても、疑問符だらけだし、次から次へと湧いてくる疑問と格闘中です。
ただ、ずっと頭の中を巡っているフレーズがある。
「綺麗な鷹と汚い鳩」である。
綺麗な鳩も見付けてみたいけれど、現実的ではないなぁ~
コメントの答えになってないようですが、、、