東京でカラヴァッジョ 日記

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阿部合成《見送る人々》《百姓の昼寝》《顔》

2021年05月24日 | 日本美術
阿部合成(1910〜72)

   1910(明治43)年、青森市(旧浪岡村)生まれ。父親は地主で県会議員・衆議院議員・青森市長を務めた人物。合成の名前は、同年の韓国併合にちなんでいるという。
   1925年、旧制青森中学に入学。同級生の津島修治(後の太宰治)と交流し、文学に熱中するが、卒業後は美術の道に進む。1929年、京都絵画専門学校に入学し、日本画を専攻。1934年、卒業後に一時帰郷し、代用教員を勤める。この時期、油彩画に転じる。1935年に上京。 
 
阿部合成
《見送る人々》
1938年、137.0×165.6cm
兵庫県立美術館
 
    1938年、《見送る人々》を二科展に出品し、入選する。日中戦争をテーマとする「事変室」に、藤田嗣治《島の訣別(那覇)》や向井潤吉《突撃》などとともに展示され、注目を集める。
 
(参考)向井潤吉《突撃》所在不明
 
   しかし、グラフ誌『国際写真情報』に掲載された《見送る人々》と向井《突撃》を見た当時の駐アルゼンチン大使が「頽廃不快の印象を与え、日本人とは到底思えない」と訴える。雑誌の海外頒布が禁止される。この事件は新聞に大きく報道される。向井と違って新進画家である阿部には痛い事態。これが契機となり、阿部は時流にそぐわない作家として排斥され、自らも画壇から離れていく。
 
   1943年秋、招集され、満州へ出征。敗戦後はシベリアに抑留。1947年1月になってようやく帰還する。
 
 
阿部合成
《百姓の昼寝》 
1938年、127.6×144.3cm 
東京国立近代美術館
 
   阿部合成の名前を初めて知ったのは、2020-21年の東京国立近代美術館「眠り展」による。
   会場内解説によると、本作品は、代表作《見送る人々》と同時に発表されたという。
   《見送る人々》は、「出征を見送る家族を感情表現豊かに描写した」作品であるが、本作品も、「単にのどかな光景を描いている」のではなく、「国が戦争へと向かっている状況下」「いわば一種の抵抗の隠喩として眠りを描いたと考えることもできる」とのことである。
 
 
阿部合成
《見送る人々》部分
 
   ヒエロニムス・ボッスを想起させる《見送る人々》は、阿部の「家族の肖像」でもある。
   画面右、幟の下でこちらを見ている若者が自画像。その隣の横顔が従兄弟で画家の常田健。中ほどで顔半分を覆い、こちらをみている女性は当時の夫人の阿部なを。赤子を抱く老人が父と長男。すがりつく少女が長女、とのこと。
(青森県立美術館Twitterより)
 
 
 
   《百姓の昼寝》 や未見の《見送る人々》が気になって調べると、ちょうど同時期に、故郷・青森にて生誕110周年記念の回顧展が開催中であった。
 
生誕110周年記念 阿部合成展 
修羅をこえて~「愛」の画家
2020年11月28日〜2021年1月31日
青森県立美術館
 
   全点撮影可能であったらしい回顧展。《見送る人々》がメインとして出品。
   遠いし(そもそも私は青森県に行ったことがない)、このご時世だし、で、さすがに行こうとは思わなかったが、最近になって、図録でも、と再び気になり始めている。
   東京ステーションギャラリー「コレクター福富太郎の眼」展に出品の次の作品を見てからである。
 
阿部合成
《顔》
1935〜37年、63.5×48.5cm
東京都現代美術館(旧福富太郎コレクション)
 
   本作品も、「出征を見送る家族を感情表現豊かに描写した」作品。制作時期としては《見送る人々》に先行するようだ。本作品も、青森の回顧展に出品されている。


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