東京でカラヴァッジョ 日記

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ゴッホ、ロンドンの《ひまわり》- 7点の「花瓶に挿したひまわり」の行方

2020年11月11日 | ロンドンナショナルギャラリー展
ゴッホ
《ひまわり》
1888年8月、92.1×73cm
ロンドン・ナショナル・ギャラリー
 
   2日間、私はそちらからの申し出に対して、冷ややかな態度を取ろうと努力しました。30年以上にわたって毎日見てきたあの絵と離れることは耐え難いと感じたのです。しかし最終的には、そちらからの申し出には抵抗できないことがわかりました。〈ひまわり〉以外に、そちらの有名なギャラリーでフィンセントを代表するのに相応しい作品はないということを私は知っており、そして『ひまわりの画家』と呼ばれた彼自身が、ナショナル・ギャラリーにその絵があることを望むでしょう。ですから、〈ひまわり〉をお譲りします。それはフィンセントの栄光のための捧げものです。
 
 
   花瓶に挿したひまわりの絵を、ゴッホは7点制作した。
 
   1888年8月、アルルにひまわりが咲き誇る季節、ゴッホは4点のひまわりを制作する。
   第3作(ミュンヘン)と第4作(ロンドン)は会心の作で、その後アルルにやってきたゴーギャンの部屋の壁に飾られる。ゴーギャンは、ゴッホのひまわりをたいへん気に入ったようである。
 
   1888年11月末から12月初旬頃、ゴーギャンとの共同生活中、ひまわりの季節外、ゴーギャンの高い評価を受けてのことだろう、ゴッホは、第5作(損保ジャパン)を制作する。第4作(ロンドン)の再制作である。
 
   1889年1月、耳切り事件と2人の共同生活の破綻後、ゴーギャンはゴッホに対し第4作(ロンドン)を所望する。ゴッホは、オリジナルは譲れないとして、その代わりとして複製2点を制作する。第3作の複製である第6作(フィラデルフィア)と第4作の複製である第7作(ゴッホ美術館)。しかし何故かゴーギャンに送られることはなかった。
 
   1890年7月、ゴッホ死去。その作品は弟テオが受け継ぐ。
   1891年1月、テオ死去。ゴッホの作品はテオの妻ヨハンナが受け継ぐ。
 
 
   ヨハンナが受け継いだゴッホの絵画(油彩画)は約350点。
   うち約250点がヨハンナ自身がオランダで管理し、約100点はパリに残りタンギーのもとに保管されていた。
 
   7点の《ひまわり》については、第1作がパリで保管され、他6点はヨハンナがオランダで管理していた(正確には、第6作はどちらか不明)。
 
   そして、《ひまわり》はヨハンナのもとを離れていく。
 
 
第1作(パリ保管)1892年売却。
→1948年の個人コレクターへの売却以降、所在不明。
 
第5作(ヨハンナ)1894年売却。
→1987年、安田火災海上保険(現損保ジャパン)が購入。
 
第6作(ヨハンナ?)1896年以前に売却。(売却経緯不明)
→1963年、フィラデルフィア美術館が遺贈受。
 
第3作(ヨハンナ)1905年売却。
→1912年、ノイエ・ピナコテークが寄贈受。
 
第2作(ヨハンナ)1908年売却。
→1920年、山本顧彌太が購入(1945年8月、空襲で焼失)。
 
第4作(ヨハンナ)1924年売却。
→ロンドン・ナショナル・ギャラリーがヨハンナから直接購入。
   本記事冒頭は、ヨハンナのナショナル・ギャラリーあての手紙の内容である。
 
 
   第7作だけが売却されることなくヨハンナの手元に残る。
→そして現在、ゴッホ美術館が所蔵する。
   2019年、同館は、第7作について、今後他館への貸出を行わないことを発表。作品の状態が脆弱であるらしい。本作がアムステルダムを出たのは2014年のロンドンが最後、その一つ前は2003年の東京である。
 
 
 
(参照)朽木ゆり子『ゴッホのひまわり全点謎解きの旅』集英社新書


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