シャンチー(中国象棋)の日々~三千年の歴史、5億人の競技人口

「世界で最も競技人口の多いスポーツ」シャンチー(中国象棋)に関するニュースを日本シャンチー協会がお届けします。

8月を迎えて、そして恒文奇さんのこと

2007-08-15 | シャンチーあれこれ
今年も8月を迎えました。8月は私たち日本人が毎年特別な思いを持って迎える季節です。広島、長崎への原爆投下、終戦…、そして中国には後に残留孤児となる人々が多く取り残されました。もちろんこれは日本の側からの見方で、中国をはじめアジア諸国の多くの人々にとっては、侵略と植民地支配からの「解放」のときでもありました。1945年以来、8月という月は、私たち日本人がなぜあのような愚かな行為を犯したのか、そして二度とあのような行いを繰り返さないためにはどうすればよいのか、日本人のだれもがそういう思いを胸に抱く月となりました。

日本シャンチー協会の前身『日中象棋協会』が故大山康晴氏の手によって創立されたのは、1972年の日中国交正常化の翌年73年のことでした。日中の国交が正常化され、今度こそ本当に日中両国の人々が二度と戦火を交えることなく、子々孫々仲良くしていこう、日本中にそういう機運があふれていた中で、シャンチーの国際性にいちはやく注目していた故大山康晴氏がシャンチーの統一組織の必要性を関係方面に働きかけ、日本初のシャンチーの統一組織が誕生したのでした。この統一組織に参加したのは日本人だけではありません。それまで民族の伝統スポーツ・シャンチーの灯を、ふるさとを離れた異国の地で守り続けてきた在日華僑の人々も勇躍参加されたのです。在日華僑によるシャンチーの大会は1958年以来脈々と行われていましたが、それが日本人の側からの統一組織の設立と呼応し、1974年には日本の歴史上初めて、シャンチーの全国選手権大会が開催されたのでした。以来、34年間、この全日本選手権大会は日中象棋協会、そしてそれを引き継いだ日本シャンチー協会の手で、一年も欠けることなく行われてきました。

70年代は在日華僑の人々が日本のシャンチー界を実力的にリードしましたが、80年代に入ると中国からの帰国者が活躍するようになります。元中国残留孤児で後に日本代表として世界選手権に出場した過能国弘さんもその一人です。日本シャンチー協会は、1991年の会員総会でアジアシャンチー連合会(AXF)に加盟申請することを決定しました。これは中国シャンチー協会の陳祖徳主席、劉国斌秘書長の強い働きかけに日本のシャンチー界が呼応したものでした。この際に国際組織に加盟することに反対する極少数の人々は協会を脱退して「もう一つの全国選手権」を画策するのですが、シャンチーを愛する多くの人々の団結、そして中国大使館、東京華僑総会、国際交流基金、(社)日中友好協会、(財)日中友好会館など、関係諸機関の皆様の支持によって全日本選手権の統一が維持されたのでした。

翌92年のAXF総会では、日本のAXF加盟が全会一致で承認されました。当時のAXF加盟国(地区)はすべて華人華僑の手になる組織で、ノンチャイニーズが主体となって運営されている組織が加盟するのは初めてでした。AXFの運営に携わっている華人華僑の中には、かつての日本の侵略行為によって家族や友人を失い自らも体と心に大きな傷を負った人がいるであろうことは、少しでも歴史を学んだことがある者なら想像に難くないことです。しかしそうした人々がさまざまな思いを心の中にしまって、日本のシャンチー愛好者を友人として快く迎え入れてくれたのでした。

日本シャンチー協会はAXF総会直後に行われたアジア団体選手権に初めて代表選手を派遣しましたが、その閉会式でAXF劉宝仁副会長(中華台北)が「この大会に初めてノンチャイニーズプレーヤーが参加したことは、歴史的な出来事だ。日本の友人たちの参加を心から歓迎する」と述べたとき、会場は大きな拍手で包まれました。日本という国からAXFという国際組織に加盟することの意義をこのときほど強く感じたことはありません。

翌93年には世界シャンチー連合会(WXF)が創設され、もちろん日本シャンチー協会も今度は創立メンバーとして結成に参加しました。4月3日、WXF成立大会の会場となった中国棋院(北京市)にブルーのWXF旗が翻った日の感激は今も忘れることができません。

90年代には中国からの留学生が日本のシャンチー界で活躍しました。その代表は慶応大学大学院に留学していた沈浩さんです。かつて上海市のジュニアチャンピオンになり、全国ジュニア選手権にも出場したことのあるプレーヤーです。私たちは、彼から「真剣にシャンチーに取り組むとはどういうことなのか」を学びました。さらに90年代には日本シャンチー協会の招きで中国から趙国栄、柳大華、単霞麗といった中国の専業棋士が陸続と来日、日本のシャンチープレーヤーは世界のトップクラスのプレーヤーから直接指導を受ける機会を得ることができました。

日本シャンチー協会は1991年の世界選手権に代表を派遣して以来、毎年、国際試合に代表選手を派遣しています。技術的に国際レベルに達していないと思われるプレーヤーでも、積極的に国際試合に出場する機会を提供することを進めてきました。それはできるだけ多くの日本のプレーヤーが海外のプレーヤーと友達になってほしい、それがささやかながらも世界の平和に寄与することだと考えているからです。シャンチーの盤をはさんで友人になった人に銃口を向けるようなことはできないからです。

今年に入って日本シャンチー協会は、日本オリンピック委員会(JOC)から、今年マカオで開催されるアジアインドアゲームズのシャンチー種目に代表選手を派遣する資格を有する競技団体として認定され、エントリーフォームの交付を受けました。シャンチーはスポーツであるという私たちの年来の主張が、JOCというわが国のスポーツを統括する機関から認められたわけで、このことはスポーツ(体育)とは頑健な肉体を作り上げることに資するものだという明治以来の日本人の伝統的なスポーツ観を覆すきっかけにもなると考えています。

いま、こうして歴史を振り返ってみますと、1958年の在日華僑によるシャンチー大会に始まる日本のシャンチーの歴史は、そのときどきに起きたことは偶然のように見えて、すべてが歴史の必然であったと思えてなりません。在日華僑の人々が異郷の地で民族の伝統を守るためにシャンチーの灯を守り続けていたこと、日中正常化の翌年にシャンチーの統一組織が設立されたこと、70年代から90年代にかけて在日華僑、中国からの帰国者、留学生が日本のシャンチー界で活躍したこと、そして日本シャンチー協会が日本のシャンチー界を一元的に代表する競技団体としてAXF、WXFに加盟し、毎年国際試合に代表選手を派遣していること、これらはすべて個人の意思では変えることのできない歴史の必然であったのです。

もし、日本シャンチー協会が統括競技団体であると、いつ、だれが決めたのか、法律で決まっているのかと児戯にも等しい言辞を投げつける人がいたとしても、統括競技団体というのは34年の間、多くの人々がシャンチーという競技を愛し、日本シャンチー協会の下に結集して築いてきた歴史や実績、社会的評価の結果であって、この事実についていくら躍起になって否定しても否定しきれないのです。いわば歴史が日本シャンチー協会にそのような役割を担わせてきたといってもいいでしょう。そして執拗にいつだれが決めたと言い募る人の中に、かつて、日本シャンチー協会がわが国のシャンチー界を一元的に代表する競技団体であることを承認する旨の誓約書にサインして世界選手権に出場したプレーヤーがいるとしたら、人の志とか節操というものがなんなのかということに思いを致さずにはいられないのです。

もちろんこれまでの日本のシャンチーの歴史が順風満帆だったわけではありません。その中には他のメジャーなスポーツの世界で起きれば、それを引き起こした人物はその競技から永久に追放されるだけなく、社会的な指弾さえ受けかねないような出来事もありました。社会的に相応の地位を得ているスポーツなら社会から注目されているという規制が働きますが、残念ながらマイナーなスポーツではそういう規制が働かないのです。しかし、それもあるスポーツ種目が社会に定着し、注目されるような存在になるまでに至る長い過程では、必然的に起きるいわば過渡期の現象といえるでしょう。

何らかの理由で競技シャンチーへの理想を失い、わが国のシャンチーの本道から足を踏み外してしまったあれこれの人を糾合して、統括競技団体と紛らわしい名称を掲げて棋力の認定を行うことを公言し、事情を知らない人にあたかも国内に棋力の認定を行う団体が複数存在するかのような誤解を与えかねない団体の設立をインターネット上に宣言するような行為、これもまたシャンチーが発展途上で遭遇する不可避の現象といえるのかもしれません。

協会はプレーヤーに理想ばかり語っているという声もあります。しかし将来に理想を持たない組織が現在の活動にどうして意義を見出すことができるでしょう。プレーヤーに求められるものもその理想の高さに比例します。国際試合では、日本チームのマナーのよさには定評がありますが、それも日ごろから国内の試合で厳格なルールの下で競技シャンチーに取り組んでいる結果です。昨年のアジア団体選手権では、競技主任が試合前に「サンダル履きのプレーヤーは靴に履き替えてくるように」とアナウンスするほど服装の乱れが目立ちましたが、日本チームは全員ネクタイ着用で臨むことを申し合わせ、会場にさわやかな風を送り続けました。これもスポーツとしてのシャンチーの社会的地位を高めるためにプレーヤー自ら実践していることなのです。

中国には「歴史を鑑(かがみ)とし未来に向かう」という言葉があります。歴史から経験と教訓を吸収し、これを未来の発展と進歩に役立てることと説明されています。現行のルールが成立してからでも千年以上といわれるシャンチーの悠久の歴史から見れば、34年は短い時間です。このシャンチーという世界で最も歴史が長く、最も競技人口の多いスポーツが日本社会に根付き、花開くようになるまでにはまだまだ長い時間が必要でしょう。たとえそれが次の世代まで待たなければならないことだとしても、私たちはそれを夢見て歩んでいかなければならないのです。この記事が日本のシャンチーの歴史を知っていただく一助となればこれに勝る喜びはありません。


お盆は日本人にとって亡くなった人をしのぶ特別な季節です。34年前、わが国初のシャンチーの統一組織結成に加わり、協会とともに歩んでこられた恒文奇さんが亡くなられて一年が過ぎました。恒文奇さんは遼寧省瀋陽市の出身で、新聞学院を卒業後、「満州国」から当時の同盟通信に派遣されたジャーナリストでした。おそらくは来日の経緯から祖国に帰る機会を逸してしまい、昨年、日本に一人の身よりもないまま85年の生涯を閉じられました。生前、私に「一度帰りたいんだけど帰れないんだ」とぽつりと漏らされた言葉は今も私の耳に残っています。いつも穏やかな笑みを絶やさなかった恒文奇さんの心の奥にあった深い悲しみを思うと涙があふれます。恒文奇さんも歴史に運命を翻弄された人の一人でした。

私たちの願いは、恒文奇さんのように故郷喪失の悲しみを味わう人を生み出すような愚かな行いがこの地上に二度と繰り返されないこと、そしてそのためにシャンチーがあらゆるスポーツと同様、世界の多くの人々との友情を育てる手段となることです。それは協会の創立者・大山康晴前会長が願ったことでもありました。恒文奇さんの遺骨は引き取り手のないまま千葉県市川市の共同墓地に眠っています。恒文奇さんの魂があんなに帰りたいと願った故郷の空を今は自由に遊んでいることを願わずにはいられません。
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