実家に帰省した際に、祖母の卒業アルバムと日記帳を見つけた。
祖母は昭和6(1931)年3月に京都市立二条高等女学校を卒業した。
在校中は軟式庭球部に入り、ダブルスでは近畿大会でかなりいい成績を残していたらしい。
昭和初期に高等女学校まで進学しテニスをしていた祖母は、かなりのハイカラさんだったのだろう。
卒業後しばらくして、祖父と見合い結婚し、下京区木屋町仏光寺下ル和泉屋町の家に嫁いだ。
姑とは不仲だったが、6人の子供に恵まれ、それなりに幸せな生活だったと母が懐かしんでいた。
しかし、戦況が悪化し、京都も空襲があると言われ、祖父は家族を守るため、親戚のある富山の小矢部に疎開する決断をした。
皮肉なことに、疎開後、厳しい食料事情と京都に比べ劣った衛生状況のせいで、末娘2人を相次いで亡くした。
そんな苦労をした祖母も結核を患い、終戦の3日後の1945年8月18日に苦しみながら亡くなったそうだ。
日記には、京都を離れる不安や子供を亡くした無念、家族を想う気持ちが美しい文字で綴られていた。
苦しかったのだろうか、亡くなる12日前の文字が乱れた絶筆が切ない。
結局は祖母も戦争の犠牲者だったのだ。
ハイカラさんで家族想いの祖母に会ってみたかったと、写真を見てあらためて思った。
(上から2段目、左から2番目が祖母、(旧姓)中村ちい)
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