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Blues日記

流れ行く日々の雑感を、そこはかとなく書き連ねています。

東京の運河をカヤックで散歩する

2015年03月24日 | Weblog
これも古い話だ。

2年程前に房総の館山のカヤック屋さん、Saltysのツアーに参加した。

房総じゃなく、都内の運河を巡るカヤックのツアーで、東大島の旧中川から小名木川に入り、扇島閘門を通過して隅田川へ。

そして幾つかの運河を通り、スカイツリーの下まで行き、再び旧中川に戻った。

その時が初めての東京の運河を巡るツアーだったが、一番驚いたのが扇島閘門。

日本の、東京のパナマ運河だった。

高度成長期の地下水の組み上げで、江東区の地盤は4mも下がり、小名木川周辺も地盤沈下し平均海水面下となったとのこと。

そのため閘門を作り、小名木川の水位を東京湾よりも低く保っているらしい。

僕らが通過した時の水位の差は2m近くはあっただろうか。

カヤックの通過のためだけに水門が閉まり、おそらく何百トンもの水が動き、そしてあっという間に水位が上がった。

カヤックに乗ったまま水面が推し上げられていく、とても不思議な感覚だった。

東京にこんなところがあるなんて知らなかった。

運河沿いには桜の木が多く、たぶんこれからの時期はカヤックで散歩するのは最高の季節だろう。

まだ、Saltysさんでは東京のツアーをしているのだろうか?

今度は桜の時期に参加してみたい。





ニッカ北海道工場と竹鶴威さんの想い出

2015年03月22日 | Weblog

10年以上前の話だ。

当時、行きつけだった銀座の老舗バーの方に誘ってもらい、余市のニッカ北海道工場に試飲に出かけた。

雪の白と工場の赤い屋根が印象に残っているので、1月か2月頃だったと思う。

今でこそマッサン人気で観光客が多いらしいが、冬の余市工場は閑散としていた。

銀座の重鎮の方の紹介ということもあり、竹鶴威さんと工場長が出迎えてくださった。

試飲では30種類以上のモルトウィスキーを試飲させてもらい、ニッカの質の高さを再認識した。

竹鶴威さんにはマッサンこと竹鶴政孝さんやリタさんのお話なども伺うことができた。

圧巻は、竹鶴政孝さんが余市で最初に仕込んだウィスキーを特別に飲ませていただけたことだ。

当時で60年以上経っていた貴重なウィスキーは、味や風味はどことなく腰が弱くなっている印象だったが、竹鶴政孝さんのお話などを聞きながら口にできる贅沢な経験に、心から感動したのを覚えている。

そんな竹鶴威さんも昨年12月17日に鬼籍に入られた。

貴重な体験をさせていただいた竹鶴さんのご冥福をお祈りしたい。


ブルースハープ練習再開

2015年03月18日 | Weblog

ブルースハープの練習を再開した。

最近、バンドのライブでミスをしたり、ジャムセッションでアドリブが思い浮かばず単調なリフばかりになったりと、サボっていた弊害が出てきたからだ。

いまさら教則本もイマイチと思い、昔買った妹尾隆一郎さんのDVD「ブルースハープの常套句」のフレーズをひたすらコピーしている。

DVDは繰り返しの練習には使い勝手が悪いので、MP3に変換してiPodで聞きながら練習している。

変な自分流の吹き方とかになってしまっているのが良くわかる。

今度のライブかジャムセッションでは、その成果が出せるといいのだけれど。


京都 第一旭本店

2015年03月16日 | Weblog
京都から東京に戻る前に、ラーメンが食べたくなり、久しぶりに第一旭本店に寄ってみた。

ここのラーメンを初めて食べて好きになったのが高校の時だから、もう30年以上の付き合いになる。

夕方の中途半端な時間なので直ぐに入れると思ったらビックリ。長蛇の列ができていた。

ガイド本を持っているカップル、東京弁のグループ、中国語の観光客らしき人たち、そして昔ながらのクラブ活動後の地元高校生など。。。

外のメニューも英語やハングル、中国語(繁体字+簡体字)もありで、すっかり観光客向けの有名店になっていた。

驚きながらも列に並ぶこと20分で中に入れたが、中は机の並べ方、雰囲気、メニューなど30年前と殆ど変わらない。

慣れない人達の注文を聞きつつ、いつもの「特製、麺硬め、ネギ多め」と注文。待つこと5分でお待ちかねの特製が登場。

昔と変わらない味だけど、特製のボリュームはオヤジになった身体には少し厳しかった。

次は「ミニ」にしようか、「ラーメン、肉多め」にしようかと考えながら店を出て、京都駅から新幹線に乗った。



祖母の卒業アルバムと日記

2015年03月14日 | Weblog

実家に帰省した際に、祖母の卒業アルバムと日記帳を見つけた。

祖母は昭和6(1931)年3月に京都市立二条高等女学校を卒業した。

在校中は軟式庭球部に入り、ダブルスでは近畿大会でかなりいい成績を残していたらしい。

昭和初期に高等女学校まで進学しテニスをしていた祖母は、かなりのハイカラさんだったのだろう。

卒業後しばらくして、祖父と見合い結婚し、下京区木屋町仏光寺下ル和泉屋町の家に嫁いだ。

姑とは不仲だったが、6人の子供に恵まれ、それなりに幸せな生活だったと母が懐かしんでいた。

しかし、戦況が悪化し、京都も空襲があると言われ、祖父は家族を守るため、親戚のある富山の小矢部に疎開する決断をした。

皮肉なことに、疎開後、厳しい食料事情と京都に比べ劣った衛生状況のせいで、末娘2人を相次いで亡くした。

そんな苦労をした祖母も結核を患い、終戦の3日後の1945年8月18日に苦しみながら亡くなったそうだ。

日記には、京都を離れる不安や子供を亡くした無念、家族を想う気持ちが美しい文字で綴られていた。

苦しかったのだろうか、亡くなる12日前の文字が乱れた絶筆が切ない。

結局は祖母も戦争の犠牲者だったのだ。

ハイカラさんで家族想いの祖母に会ってみたかったと、写真を見てあらためて思った。

(上から2段目、左から2番目が祖母、(旧姓)中村ちい)