*** june typhoon tokyo ***

『ジャージー・ボーイズ』




 1960年代にショウビズ界を席巻したアメリカのポップス・グループ、ザ・フォー・シーズンズの栄光とその影に潜む挫折や葛藤、軋轢を描いた映画『ジャージー・ボーイズ』。もとはブロードウェイの人気ミュージカルで、演劇界最高峰といわれる“トニー賞”受賞作。この一流素材を名匠クリント・イーストウッドがどう描くか、という興味深い箇所があちこち見える作品だと思うが、当日訪れた映画館は平日夜19:30からの上映の回ではあったが、残念ながらガラガラ。言ってしまえば全方向的な支持層を持たないミュージカルが原案、さらに音楽ファン、それも60年代の音楽界やオールディーズに興味を持っていない人たちにとっては目が向かないコアなファン向けの要素が強いとはいえるが、少し寂しい心持ちになった。

 それはさておき、この映画。単純に言ってしまえば、米ニュージャージー州の貧しい町で生まれ育った青年たちが悪さを繰り返しながらトップスターへの道を駆け上がり、その栄光と転落の顛末を描いた“だけ”の映画だ。シーンに名を遺した人物やアーティストの伝記映画というよくあるパターンのよくあるストーリーでしかない。そのなかで、「シェリー」「君の瞳に恋してる」「恋はやせがまん」「恋のハリキリ・ボーイ」(『タモリ倶楽部』オープニング曲で知られる「ショート・ショート」も)などの名曲を織り込んでいく。

 簡単なストーリーはこう。イタリアからの移民が多い貧困の街ニュージャージー州ベルヴィル。マフィアのジップ・デカルロ(クリストファー・ウォーケン)が仕切るその町には、ジップのお気に入りの歌が上手い青年フランキー(ジョン・ロイド・ヤング)がいた。ジップはフランキーの美声ファルセットをどうにかして広めたい思いがあった。一方、この町の青年たちが世に出るためには3つの方法しかなかった。軍隊に入隊するか、ギャングになるか、スターになるか。そのうち死を伴わないスターへの道を夢に描きながらも現実を生き抜くために、場末の酒場で歌いながら窃盗などの些細な犯罪を繰り返しているバンドがあった。トミー・デヴィート(ビンセント・ピアッツァ)とニック・マッシ(マイケル・ロメンダ)のいるバンドに、フランキーを誘い、さらにソングライターのボブ・ゴーディオ(エリック・バーゲン)を迎えたそのバンドは、過去に犯罪を犯したことで門前払いを食らったボーリング場の看板にあった“フォー・シーズン”の名にある種の閃きを感じて、“ザ・フォー・シーズンズ”としてデビューすることになる。当初はバックコーラスばかりで嫌気のさす日々が続くが、ボブが「シェリー」を完成させ、トミーがレコーディングするための資金をかき集めてリリースにこぎつけると、空前の大ヒットに。それから次々とヒットを生み出すが、トミーが作った莫大な借金が明るみに出ると、メンバー間に埋めがたい溝が出来てしまい、グループに、さらには彼らの家族などにも嫉妬、裏切り、確執など、さまざまな影が広がっていき、崩壊へと走り出してしまう……というものだ。

 自身は映画を頻繁に見るクチではないし、クリント・イーストウッドがどれだけの才能がある監督かということにも実はあまりピンとこない。ただ、言えるのは、全てを描くことが素晴らしいのではなく、彼のなかに通底しているであろうある種の音楽に対する愛情やショウビズ界の浮き沈みを知っているものだからこその善悪をチラリと囁きながらも、観客に“正解、事実、回答はこれだ”という形で伝えていないことだ。観客に対して感動のシーンへのレールをキッチリと敷き詰めて大団円へ促すのではなく、人間ドラマにおける個人の感情の差もしっかりと考慮に入れた“行間”という絶妙な距離感を生み出しているところが素晴らしい。

 逆に言えば、ショウビズに潜む闇の部分や成功までの道筋を最深部まで描いていないため、消化不良に思う人もいるかもしれない。青年たちが刑務所への入隊を繰り返す場面では悲壮感はなく、あっけらかんとしたコメディタッチで描かれているし、歌を生み出す苦悩や生活に苦しむため日々犯罪をしながら過ごす情景も、警察や悪の組織への恐怖などと戦いながらなんてところはほとんど見られず、むしろ“これが日常”とばかり楽しんでいるとさえ伝わってくる。

 ただ、そのあたりはミュージカルを題材にしたというところに起因することが大きいかもしれない。拙い知識の自分は当初この映画がミュージカルを題材にしたということを知らなかったのだが、4人のメンバーたちが所々に観客に語りかけるようなストーリーテラーとしての演出があったり、小気味よい場面展開などを観ていくうちに、これはミュージカルっぽいなと感じていた。さらに、薄っすらと陰に潜むギャングの存在、バンド内での対立図式などを観て、「クリント・イーストウッドはこのフォー・シーズンズを『ウエストサイド物語』風に描きたかったのかも」と思った。クライマックスで4人が街中で歌い始めると、四方から人が集まってきて歌いながら踊り出すという場面となったときにそれを確信したのだが、それはクリント・イーストウッドというよりもミュージカル素材だったことが大きかったようだ。
 振り返ってみれば、『ウエストサイド物語』は1961年、「シェリー」も同時期にヒットした。親和性があっても不思議ではない。

 ただ、それをミュージカル然とさせないのがクリント・イーストウッドの手腕なのだろう。単なるミュージカル・ドラマではなく、(「ジャージー流だ」というセリフが散見されるように)ニュージャージーならではの生活を背景としたドラマ構築や、フランキーの家族にフォーカスして家族の葛藤や親子の触れ合いなどをインサートしてくる。そこにはヒューマニズムを描こうという信念とそれを一つの回答として見せない相手に委ねる“粋”を演出していた。喜怒哀楽、個人がそれぞれに異なるものを考慮に入れた、いぶし銀の仕事ぶりといえるだろう。

 また、ミュージカル版から引き続き配役されたフランキー役のジョン・ロイド・ヤングの貢献は見逃せない。そもそもフランキー・ヴァリのような歌唱を描く歌手を探すことだけでも骨が折れると思うが、それに見合う逸材を発見し、オリジナルと比肩する歌唱を披露した段階で、この映画の是非が決定したといってもいいくらいだ。

 フランキー・ヴァリやフォー・シーズンズ、またその世代のバックグラウンドに明るくなくても楽しめること必至の映画だと思う。是非、映画館で。






















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