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Re.1998.12.11

2008-12-11 16:35:21 | 旧メンバーブログ
「銅」のち解雇・・・再起かける植松さん


オリンピックの表彰台で、喝采を浴びた4ヵ月後。
待っていたのは、スポンサーでもあった勤務先からの解雇だった。

長野五輪ショートトラック男子5百メートルの銅メダリスト
植松仁さんは、金銭的な余裕のない暮らしのなかで、
「4年後」をめざして、競技を続けている。
なえそうになる気持ちを奮い立たせてくれるのは、
職人たちの温かい応援だ。

福岡市郊外の自宅を出てロードワークする植松さん
声がかかる。
「がんばれよ」「調子はどうだい」
飲食店では、店主が肩をポンとたたく。

「きょうは、おれのおごりだ。しっかり食べろ。」

勤務先の青山社長さんから、「話がある」と呼ばれたのは、
7月末のことだった。福岡市内では、カラオケボックスも手掛ける
大きな不動産会社だ。社長は
「経営が苦しい。もうこれ以上、雇ってはいけない。申し訳ない。」
と頭を下げた。

職を失ったわけではない。スケート靴やスーツ、遠征や合宿費用など、
競技生活のほとんど面倒を会社に見てもらっていた。

青山さんは、植松さんが所属するスケートクラブの監督でもある。
「4年前、私が【一緒に5輪を目指そうと】と声をかけた。
会社が1番勢いのある 時期だった。」と振り返る。

「解雇は断腸の思い。仁は次の5輪も十分にねらえるだけの選手に、
 今後はせめて監督として支えていきたい。」

植松さんにとって失業は2度目だ。5年前、岐阜の工業高校を卒業して
入社した、スケート部のある貿易会社は、3ヵ月後に倒産した。

いったんは引退を決意し、実家のある岐阜県岐南町に戻った。
ところが、最後のつもりで挑んだ1994年3月の全日本都道府県対抗で、
優勝し、青山さんに出会った。

植松さんは、
「青山さんを恨む気持ちはなんて全然ない。ただ、
再び実家を頼るわけにはいかない。
 とりあえずは、雇用保険と貯金でやりくりしていく」と話す。

引退を考えなかったわけでもない。ただ、今はやめられない理由がある。

今年3月21日夜、長野五輪決勝のスタートラインで、
植松さんはイライラしていた。試合前の刃の研ぎ方を失敗し
氷としっくりかみあわない。スタートも出遅れた。残り2周
前を行くカナダの選手が転倒し、3着でゴールした。
その瞬間は悔しさしかなかった。

優勝者も日本人選手だった。日本勢の金と銅の獲得に、
割れんばかりの拍手とバンザイの合唱に包まれた。
それにこあえて手を振ったが、心にはひのき舞台で全力を出せなかった
わだかまりが残っていた。

(朝日新聞 1998年 12月11日付け 冬来りなば、視界ゼロ)

スポーツ選手にとって、いつまでもベスト更新していけるような
状態は長くは続かない。
ましてや、各国の代表によって競うオリンピックに出場することは
ずっと出来るものではない。

そして、競技人生が終わったところから、また
多くのスポーツ選手は第2の人生がはじまる。
プロ野球を辞めた選手の中には、うどん屋をはじめたものもいる。

今週、アテネ5輪で競泳女子800メートル自由形の
金メダリスト、柴田亜衣さんが引退を表明した。

1998年から10年が過ぎた今日
植松さんはどう過ごしているのだろう?

オリンピックに出られる人材を支えていける日本社会に
なっているのだろうか
メジャースポーツだけが取り上げられる日本になってほしくないと願う。





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